「大和と日本」の謎:その6

 

◆ 「倭人」と「邪馬台国」と「狗奴国」

 

 「邪馬台」の読み方は「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」である。邪馬台はヤマト、後の「倭」「大和」なのである。中国人による表記である邪馬台国の時代も日本は「二本」だった。大和朝廷が成立前の書である『魏志倭人伝』では日本人のことを「倭人」(わじん)と呼んでいるが、この「倭人」というのは、中国で用いわれた日本人の古称で、広く東方の異民族をさすともいう。「倭人」は、狭義には中国の人々が名付けた、当時、「倭国」に住んでいた民族または住民の古い呼称とされる。広義には、古代日本語〜上代日本語を母語とし、中国の歴史書に記述された、中国大陸から倭国の領域において活動していた民族集団である。

 一般に2後者の集団の一部が西日本に定着して
「弥生人」となり、「倭人」の語が前者を指すようになったものと考えられている。古くは戦国から秦漢期にかけて成立した『山海経』に、東方の海中に「黒歯国」とその北に「扶桑国」があると記され、倭人を指すとする説もある。また後漢代の1世紀頃に書かれた『論衡』に「倭」「倭人」についての記述が見られる。しかし、これらの記載と日本列島住民との関わりは不明である。また『論語』にも「九夷」があり、これを倭人の住む国とする説もある。

 

「倭人」として描かれた人物像

 

 「倭人」という表記についての確実な初出は75年から88年にかけて書かれた『漢書』地理志である。その後、280年から297年にかけて陳寿によって完成された『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる『魏志倭人伝』では、倭人の生活習慣や社会の様態が比較的詳細に叙述され、生活様式や風俗・慣習・言語などの文化的共通性によって、「韓人」や「濊人」とは区別されたものとして書かれている。

 

 日本列島に住む人々が「倭人」と呼称されるに至った由来にはいくつかの説がある。魏の官人如淳は「人面に入れ墨する(委する)」習俗をもって倭の由来と論じたが、臣瓚や顔師古らから、「倭」と「委」の音が異なることなどを理由に否定されている。平安時代初期の『弘仁私記』序はある人の説として、自称を「わ」(われ)としていたことから、中国側が倭の国と書きとめた、とする説を記している。また、『説文解字』に「倭」の語義が従順とあることから、一条兼良が「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。

顔に入墨をしていたとされる「倭人」

 

 また、「倭」は「背丈の小さい人種」を意味したという説もある。木下順庵も、小柄な人びと(矮人)だから「倭」と呼ばれたと述べている。そして、そんな小さな日本人を蔑む文字として「倭」の字を使ったのではないかという説もある。新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。また作家の井沢元彦氏は「大陸の人間が彼らの国家名を聞いた時に、当時未だ国家概念が存在しなかった彼らは、自身の帰属団体名を答えた、それが『倭』である」としている。このように多くの説が立てられたが、実際は定かなものはない。何せ中国側も日本側もなぜ「倭」が後に「大倭」となり、さらに「大和」と書いて「ヤマト」と読ませたのか、その真実を理解していないのである。


 かの有名な「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおういん)の金印にも記される「倭(委)奴国」を「倭の奴の国」と解釈することに異論もある。原文の「魏志倭人伝」を解釈した中国の漢字学者の中には、古には「奴」という字に女性に対する蔑称の意味があり、卑弥呼が支配する「女王の国」である倭を「倭奴国」と呼称し、中華思想による冊封国家、目下の国の倭国に対する蔑称のようなものと捉えるべきである、という説もある。

 



 面白いことに、1532年に中国で作られた地図「四海華夷総図」には、「倭」と「日本国」は別々に記されている。さらに、その下に
「耶摩堤」という国がある。「耶摩堤」を「ヤマト」と読むのか「ヤマテイ」というのかは分からないが、中国での「邪馬台」の読み方が「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」であることを考えると、これは「邪馬台」の表記が時代を下って変えられたと考えた方がいい。しかし、そうなると「倭:ヤマト」と「日本国:ニホン」と「耶摩堤:ヤマト」があることになる。


 すると「倭人」と「日本人」と「耶摩堤人」がいることになってしまう。もちろん、この地図自体は地形的には完全におかしなものだ。測量を基に作られたものではない。中国南部にある離島の「獅子國」はスリランカの古称であり、「琉球」が、「大琉球=沖縄」と「小琉球=台湾」として描かれている。
 

 冷静に『魏志倭人伝』を読むと、「倭の水人」と記し、当時の中国では明らかに「倭人」を海洋民族として捉えていた。そして、倭人の男性は顔や体に入れ墨があり、最初は大魚や水鳥よけだったが、後に飾りや所属、身分により異なる入れ墨になったとある。これは、彼らが見た九州をはじめとする西日本側の「琉球民族・熊襲」と東日本川の「アイヌ」の人たちで、彼らはみな太平洋を渡ってきた海洋民族だったからである。なぜか、それは入れ墨の入れ方で判明するからだ。

 

 

 上の画像は東日本から出土した縄文人の顔を描いた土器だが、一様に「入墨」がされていることが分かる。様々な文様が顔一面に描かれている。これを作ったのはアイヌの人々であり、アイヌの人々は文字を持たない社会・文明だった古代インカの末裔である。但し、16世紀に高地に住んで「マチュ・ピチュ」などを作ったいわゆる「インカ帝国」の末裔ではなく、紀元前から南米に住んでいた民で、彼らの末裔が後に「インカ帝国」を作ったが、南米に残らなかった人々は太平洋の黒潮に乗って西へ移動した。

 

 古代の東日本側の島にたどり着いた者たちが後の「アイヌ」で、イギリス人たちが入植する前からニュージーランドに住んでいた先住民族「マオリ」もインカ系の末裔である。インカ系の末裔はポリネシアン地域(南太平洋諸島)に多く住み、後に白人に滅ぼされたり白人による支配を受ける。ニュージーランドには今でも人口の15%を占めている。

 

「マオリ」の男たちの入れ墨

 

 顔に入れ墨を施すのは、台湾の先住民も同じだ。台湾では、先住民族が成人の証しに顔に入れ墨を施す無形文化遺産「紋面」(もんめん)の保持者が90代の2人だけとなり、消滅の危機に瀕している。北部・苗栗県梅園村に住む紋面保持者のタイヤル族のお婆さんは、毎日新聞の取材に「(保持者が)2人だけになり悲しいね」と答えている。台湾行政院は写真や映像の撮影など紋面文化の保存に努めており、行政院によると、紋面は台湾北部のタイヤル族、セデック族などが受け継いできた伝統だとし、男性は狩猟、女性は裁縫の能力が認められた証しとして許されるとしている。男性は額と唇の下、女性は額と両方のほおに主に施したという。しかし、日本統治時代(1895~1945年)には禁止され、1940年代には新たに入れ墨を施す人は途絶えたとみられる。

 

左上:アイヌの女性  右上:台湾先住民族の女性  

左下:アメリカのインディオ  右下:インカの人形

 

 アイヌの女性も台湾先住民の女性も、アメリカのインディオも同じように口の周囲に入れ墨を施す。さらに腕にも入れ墨を施す。入れ墨にはいろんな意味が込められるが、いずれにせよ民族の証である。その意味からポリネシアから東南アジアに住んでいる原住民は出自を同じくする民族であることが分かる。琉球の人たちも「ハジチ」と呼ばれる入れ墨を手の甲にほどこしていたのは有名な話だし、台湾先住民の「紋面」、ニュージーランドのマオリ族の「モコ」など、入れ墨文化は東南アジアから南太平洋にかけて広く広がっている。

 

 日本では明治の1871年にはすでに入れ墨の禁止令が出ていたが、かといって長年の風習というのはそうやすやすと消え去るものではない。特にアイヌ民族が住んでいた北海道では、細かく取り締まりができたわけではなかった。よって、マンガ&アニメの「ゴールデンカムイ」に出てくるお婆さんが入れ墨をしているが、その部分は確実にあったことである。だが、マンガの中では体中に漢字を入れた入れ墨をした男性が登場するが、残念ながらこれはアイヌ民族ではない。アイヌ民族は文字を持たないのである。よって、漢字が「聖書文字」だということも理解していない。

 

マンガ「ゴールデンカムイ」のワンシーンに登場する入れ墨

 

写真として残されているアイヌ女性の入れ墨と腕の文様

 

 入れ墨をしていた彼ら「倭人」が、後に「大和民族」と名乗る「和人」の先祖だったとすると、男女の違いはあれど、「和人」もかつて入れ墨をしていたのであり、日本列島を含んで、太平洋の人々は北から南まで入れ墨文化を持っていたのです、などと言う研究者もいる。だが、それは間違いである。原始キリスト教徒の「大和民族」にとって、入れ墨はご法度である。現在のように何も意味を考えずに、カジュアルにファッションとして「タトゥー」を入れるのは、単に外国人のマネをしているだけで、そもそもアメリカ人がはじめた「タトゥー」は、明治期に渡来したアメリカ人が、日本で影響を受けてはじめた入れ墨文化だからだ。

 

 「大和民族」にとって、入れ墨は犯罪者の”しるし”となる。日本では今もヤクザは入れ墨をするが、それは被差別民とされた物部氏の末裔だからである。「血の儀式」をやめなかった人々だからで、「血」の穢れを嫌った原始キリスト教徒は入れ墨をしない。一部の研究者は、『魏志倭人伝』による記述である「邪馬台国の男はみな入れ墨をしていた」(「男子は大小と無く、皆黥面文身す」の記述)を信じて、当時の日本人男性がみな入れ墨をしていたと思い込んでいるがそうではない。

 

 たしかに邪馬台国を構成していた男たちは物部氏であり、そこには琉球系の弥生人が多くいた。彼らは入れ墨をしていたが、女王「卑弥呼」は入れ墨をしれいない。そして、邪馬台国の王家は丹後一帯を支配していた「海部氏」である。「戦う」人間たちには「死の穢れ」がまとわりつくため、入れ墨をすることは許されたが、神官一族に「死の穢れ」は許されない。海部氏は道教の方士とされた徐福の末裔であり、中国では、先秦の時代から入れ墨は犯罪者を区別するために行われていたのである。

 

 

 古代のアメリカ大陸に渡ったヘブライ民族には、氷のベーリング海を渡って到達した者たち、船を使って西回りでアメリカに到達した者たちがいる。北米に残った者たちはネイティブ・インディアンとなり、中米・南米に移住した者たちはマヤ・アステカ、インカの祖となった者たちである。カナダや北米のネイティブ・インディアンもやがて白人に支配され、圧倒的な人数が殺され、現在は「居留地」という名の監獄に入れられている。

 

 これは現在のイスラエルのガザ地区も同じで、壁に囲まれたガザ地区に押し込まれているパレスチナ人とは、アブラハムがエジプト人奴隷のハガルに産ませたイシュマエルの子供「イシュマエル12支族」の末裔である。つまり、大和民族や琉球民族、アイヌとは民族異母である。アメリカを裏から仕切る白人たちに支配されているという意味で、日本、ネイティブ・インディアン、パレスチナ人も同じなのだ。裏を返せば、偽ユダヤ人 vs 血統的な本物のユダヤ人による戦いがずっと続いているのである。

 

 北方に目を向けても、アリューシャン列島に住むアレウトや、シベリア最東部のチュコト半島に住むチュクチにも、顔に入れ墨をする習慣があったことが知られている。

 

顔に入れ墨をするイヌイットの女性たち

 

 東日本側の北方にはアリューシャン列島から渡来したモンゴロイドの末裔たちがいた。彼らはインカの末裔のアイヌ、東へと逃げた物部氏と合流した。それを示すのは「遮光器土偶」である。「遮光器土偶」は大きな目が、雪原の照り返しから目を守るイヌイットの遮光器に似ているところから遮光器土偶と呼ばれる。 縄文時代晩期前半の東北地方で盛んにつくられ、太い手足から細く締まった手首や足首が土偶となったものだが、これが示すのは、東北以北にはイヌイットの末裔たちが住んでいたということである。

 

イヌイットと遮光器土偶

 

 古代のアメリカ大陸には、ヘブライ民族が住んでいた。日本列島に物部氏がやってくる紀元前3世紀には、西日本側には琉球民族が、東日本側にはアイヌ民族が既に存在していた。邪馬台国と常に戦っていた「狗奴国」(くなこく)は、日本列島が90度反転していた時代、邪馬台国から見て南にあった。つまり、現在の地理でいう東だ。東日本列島に住んでいたのはアイヌだが、彼らはインカ文明の末裔だったため文字を持たず、東日本側を中心とした縄文文化圏を築いた。

 

 3世紀において、西日本列島を支配したのが邪馬台国で、東日本列島を支配したのが狗奴国だった。邪馬台国は女王・卑弥呼(ひみこ)、狗奴国は男王・卑弥弓呼(ひみここ)。名が似ている。当てた字は中国人の中華思想によるもので、本来、卑弥呼=ヒミコは「日巫女」のこと。太陽神を崇める巫女を意味する。では、狗奴国は男王・卑弥弓呼=ヒミココとはいったい何族だったのか。

 

<つづく>