「大和と日本」の謎:その5

 

 

◆「秋津洲」(あきつしま)

 

 日本は古来「秋津洲 /秋津島 」(あきつしま、あきづしま)と呼ばれた。これは日本の本州の古代の呼称であるのだが、『古事記』には「大倭豊秋津洲」(おおやまととよあきつしま)、『日本書紀』には「大日本豊秋津洲」(おおやまととよあきつしま)と書かれている。初代・神武天皇が国土を眺めた時、秋津が交尾しているような形だと述べたことに由来する。神話学者の松前健氏はもともとは吉野郡の「蜻蛉の宮」、秋津の野(「万葉集」)などで知られた地名が元だとしており、『古事記』の雄略天皇の吉野の歌にも日本国を「アキツシマ」と呼んでいる。

 

 つまり、「秋津洲 /秋津島 」とは、「日本」の異名の一つということなのだが、「秋津」とはトンボのことで、トンボは交尾すると、連結した形で飛行する。つまり、秋津洲という名前は、東日本列島と西日本列島が激突して、現在の形になったことを示唆しているのだ。

 


 前回の連載で、古代、東と西に日本列島が分離していたことを書いたが、そのことは人々の記憶にあったのである。長野県には「生島足島神社」(いくしまたるしまじんじゃ)という社がある。ここの主祭神は「生島大神」と「足島大神」である。摂社(下社・下宮)には「諏訪大神」が祀られる信濃屈指の古社である。つまり、物部氏系神社である。社伝によれば、「生島大神」は生きとし生けるもの万物に生命力を与える神で、「足島大神」は生きとし生けるもの万物に満足を与える神だという。
 

 生島足島神社の由緒には、以下のように記されている。

 
創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。

 生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。殊に天皇が都を定められる時には、必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治2年、宮中にこの二柱の大神を親祭され、同23年勅使差遣になり国幣中社に列せられています。

 

生島足島神社

 

 「生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称し、共に日本全体の国の御霊」だと言う。日本列島を体とすれば、その中には生国魂、足国魂という2つの御霊が入っていることになる。普通に考えればおかしな話で、1つの体の中に霊魂が2つ入っているはずはない。さらに、天皇が都を定められる時には、必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭されるとあり、明治2年には宮中にこの二柱の大神を祀ったというのだ。まるで、天皇即位の際の「大嘗祭」(だいじょうさい)における「悠紀殿」(ゆきでん)と「主基殿」(すきでん)みたいな話だ。

 

 要は生島大神は「生命力」、足島大神は「国力」を象徴する神なのだが、本来はその名に「島」とあるように島を神格化したものである。つまり、生島は東日本列島、足島は西日本列島のことなのである。だから「御霊」が東日本列島という体に1つ、西日本列島というという体に1つ、都合2つの霊が存在すると言っているのである。それは即ち「大嘗祭」で「天皇陛下」となる人物が、悠紀と主基という東西日本を統合する支配者の権能を皇祖神から与えられることと同じなのだ。事実、この神社は日本列島、本州の中心地であり、境内には「日本中央」と書かれた石碑が立っている。

 

「日本中央」の石碑

 

 東西ふたつの日本列島は二つの島なのであり、それぞれ二柱の神々とされたのだ。神々は「柱」であり、「樹木」である。エデンの園にあった永遠の命を与える「生命の樹」と死ぬ体となる「死の樹」なのである。かくして、この国は「秋津洲」から「二本」、すなわち「日本」となったのである。これぞ、まさに「言霊」であり、呪術史感の極みといっていい。

 

 

◆南北逆転日本列島と「混一疆理歴代国都之図」

 

 東西日本列島が激突、九州と四国が分裂したときの状態は、今の日本列島から北九州を中心に約90度、反時計回り回りに回転した位置にあった。北に九州、そこから南に本州が伸び、東に青森があり、北海道は本州の東の海の上にあった。当時の日本列島を描いた古地図である「混一疆理歴代国都之図」(こんいつきょうりれきだいこくとのず)は、モンゴル時代の中国における二種の原図を元に、 1402年に李氏朝鮮で作られたもので、ここに描かれた日本列島は九州を北にして、南に伸びており、日本は東西に亘る3つの島として描かれている。

 

「混一疆理歴代国都之図」:丸が当時の日本列島

 

 「混一疆理歴代国都之図」は、あくまで中国の歴史地図であり世界地図ではないが、元にした2つの地図のひとつ「東南海海夷図」には、日本列島は稚拙な小さな島々として描かれており、北から「倭奴・日本・毛人・琉球・蝦夷」と並んでいる。現在の地名でいえば「九州・畿内・関東・東北」である。

 

 

 「畿内か北九州か」という邪馬台国論争のポイントは、「魏志倭人伝」に記された「水行十日、陸行一月」の記述の読み方である。現在の日本列島の形が、3世紀の日本も同じだったら、「魏志倭人伝」の通りに進むと九州の下の海上に出てしまう。だが、現在の日本列島から約が90度回転した状態の場合、「魏志倭人伝」の記す「邪馬台国」の都は畿内に収まるのだ。つまり、3世紀の日本は南北が逆転していたのである。

 

 「魏志倭人伝」は、正式には中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条の略称である。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれているが、『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年- 297年の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられたものだ。日本の一部の研究者の中には、当時の中国人が適当に書いたとか方角を間違えたなどとトンチンカンなことを言う人もいるがそうではない。

 

 

 「地政学」とは、地理学と政治学を合わせた用語で、国の地理的な条件をもとに、政治的、社会的、軍事的な影響を研究する学問だが、それは当時も今も外交における基本である。なにせ、当時も今も相手国の位置、政治体制や統治者、風土や気候、軍事力は正確に記さねばだめだからだ。その国と国交を結ぶにせよ、攻め入るにせよ、正確な記述が必須だからだ。そこで、南北が逆転していた3世紀の日本に「水行十日、陸行一月」の記述を当てはめてみると、以下のようになる。

 

「魏志倭人伝」の「水行十日、陸行一月」

 

 ピッタリと畿内のヤマトへとたどり着く。その証拠が北部九州の地名に残されている。それは『魏志倭人伝』以外にも『梁書』・『北史倭国伝』で記述されている「末盧國」(まつろこく/まつらこく)にある。「末廬国」とは3世紀の邪馬台国時代の倭国の中の小国の一つで、「古事記」の仲哀天皇段にみえる「末羅県」(まつらのあがた)、「日本書紀」の神功皇后摂政前紀にみえる松浦県・梅豆羅国と同所である。後の肥前国「松浦」(まつら)郡(佐賀県唐津市など)の地で、『魏志倭人伝』には,一支国より海を1000余里渡ると末盧国に達し、戸数は4000余戸、山海に沿って人々は暮らし、魚や鰒(あわび)を海中に潜って捕らえているとある。

 

 そして、『魏志倭人伝』において、魏の使者が対馬、壱岐を経由して、本土に最初に上陸する倭の地である。ここ「末廬国」と記された現在の松浦地方には、2つの半島が存在する。それは北松浦半島と東松浦半島で、互いに90度の角度を保って伸びているのだが、実際の地図を見ると、北松浦半島が西にあり、東松浦半島が北にあり、方角が90度ずれているのだ。

 

 

 つまり、『魏志倭人伝』の記述は、九州を時計回りに90度回転させれば正しい方角となり、『魏志倭人伝』を書いた陳寿は正しかったのである。邪馬台国は畿内、奈良盆地にあったのだ。

 

<つづく>