新聞ニッポン:光の柱が出現

 

 5月11日の22時頃、鳥取大山町の御来屋(みくりや)港上空に「光の柱」が突如出現した。

 

 

 「終わりの日」の「出ニッポン」の際、大和民族を守るため、創造神ヤハウェは昼に「雲の柱」、夜には「炎の柱」を立てるとしたブログ連載を書いている時のことだっただけに、妙な胸騒ぎがした。

 

 「歴史は繰り返される」という。それは同じ出来事が再び起きることではなくて、過去に起きた出来事が未来に起きる出来事の「予型」になるということであり、特に「神の民」を意味する「ヤ・ゥマト」の国である日本は「雛形」の国であり「預言」の国でもあり、「預言者」である天皇陛下に起きた出来事や、天皇陛下が残した和歌や遺文は「予型」であり「預言」となる。

 

 現在の天皇家である「南朝」の最初の天皇「後醍醐天皇」が、最後の南朝の天皇である徳仁陛下の予型だったと考えると、島流しにされた「隠岐」を脱出して京都にお戻りになった後醍醐天皇と同様に、徳仁陛下も京都にお戻りになることになる。なぜ、ここで「後醍醐天皇」の話をするのかといえば、隠岐を脱出した後醍醐天皇が上陸したのは鳥取の御来屋港だったからだ!

 

 鳥取県の琴浦町に「船上山」(せんじょうさん))という山があるが、ここは後醍醐天皇にゆかりのある山で、後醍醐天皇が山頂に行宮(あんぐう)を建てて、およそ80日間滞在して鎌倉幕府をたおす計画をたてた場所である。「行宮」とは、天皇の行幸時もしくは政変などで御所を失陥しているといった場合に、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設のことを言うが、その意味ではたとえ約80日間だけであってもここは「御所」だったということだ。

 

鳥取県の琴浦町の「船上山」

 

 後醍醐天皇は隠岐へ配流された翌年の1333年2月、まだ夜が明けきらないうちにあらかじめ用意されていた小舟に乗りかえ、隠岐からの脱出に成功。やがて天皇を乗せた小舟は現在の鳥取県である「伯耆国」(ほうきのくに)の「名和湊」(なわみなと)の海岸にたどり着く。ここが現在の「御来屋」御来屋港で、ここ御来屋に後醍醐天皇を迎えたのが、「名和長年」(なわながとし)だった。後醍醐天皇から助力をもとめられた名和長年は、一族を引きつれ,天皇とともに「船上山」にたてこもって仲間を集めるも、後醍醐天皇と名和長年軍に集まったのは、たった200人余りだった。それに対し幕府軍は3,300人の大軍だった。

 

 名和長年の軍は山の木を切り倒して垣根を作り、長く白い布に様々な「紋所」(もんどころ)を描いたのぼりを数千本も作ってあちこちに立て、さらに方方から狼煙を上げることで、いかにも多くのの軍勢が立て篭もっているかのように見せかけた。多勢に無勢という戦いだったが、名和長年軍はここ「船上山」を中心に鎌倉幕府軍との合戦を繰り広げて勝利を収める。「船上山」の合戦に勝利した後醍醐天皇は山頂に「行宮」を建て、約80日間滞在して倒幕の計画を立て、その後京都へ向かって船上山を出発、名和長年らを従えて京都に戻ったのである。

 

船上山の戦い

 

 京都に帰還した後醍醐天皇は、鎌倉幕府に不満をもっていた「楠木正成」、「足利尊氏」、「新田義貞」ら多くの武将たちの働きにより、1334年、遂に「北条高時」を破り、天皇を中心とする政治を開始した。これが「建武の新政」である。「建武の新政」とは、鎌倉幕府終結の1333年から1335年の約2年半、名実ともに後醍醐天皇によって行われた天皇を中心に据えた復古政治で、正確には1333年7月4日に「元弘の乱」で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日に「親政」を開始したことによって成立した建武政権の新政策のことで、「建武の中興」とも表現される。

 

 人類最後の元号である「令和」の6年5月11日に後醍醐天皇による「建武の新政」発祥の地である御来屋に「光の柱」が立ったのである。それは「しるし」である。6年5月11日は「6+5+1+1」で「13」、1+3=4で「死」となる。西暦の2024年5月11日なら「8+5+1+1」で「15」で1+5=6で「無」となる。こじつけに思われる方も多いと思うが、南朝の祖であり、京都に帰還した天皇である後醍醐天皇と「船」を象徴する場所で起きた現象をただのこじつけだと思ってはならない。

 

 南朝最初の後醍醐天皇が行った「親政」は、南朝最後の天皇の時代には「神政」となるからだ!

 

後醍醐天皇と今上天皇陛下

 

 後醍醐天皇による「親政」は7月17日に開始されたのである。7月17日はノアの箱船が大洪水を生き残り、アララト山にたどり着いた日であり、それは「新世界の開始の日」である。「親政」は天皇自らが政治を行うことである。後醍醐天皇が徳仁陛下の「予型」だったのであれば、同じようなことが起きることとなる。つまり、後醍醐天皇を「船上山」に担ぎ上げて、「行宮」を建てたことと同じことを行うことになるはずで、これと関わる後醍醐天皇が詠んだ和歌が残されている。

 
「忘れめや よるべも波の 荒磯を 御船の上に とめし心は」『新葉和歌集』


 この歌の意味は「忘れることは断じてあるまい。荒い波が打ち寄せる磯部で、船上にたたずむ私を助けたあの日、船上山で護ってくれた戦のことを」ということで、この歌にあるように、名和長年が「玉」たる後醍醐天皇を「船上山」に運び上げたと解したら、京都の「船岡山」に「璽(じ)」を運び上げる示唆となるからだ。さらに言えば「船上山」も「船岡山」も共に海から遠く離れた山にも関わらず「船」の名が付いており、それは「ノアの箱舟」=「契約の聖櫃アーク=「新世界への箱船」を暗示していることになる。

 

 この世に偶然はない。日本で起きる出来事には「偶然」はないのだ。御来屋に「光の柱」が現れたということは、今上天皇陛下が京都にお戻りになる日も近くなったということなのである。だが、天皇陛下が京都にお戻りになるという意味は、東京にはもう住めなくなるということである。全てのことは同時進行で起こる。北海道にすらオーロラが現れたのである。「とってもキレイ」とか呑気なことをつぶやいている場合ではない。