「大和と日本」の謎:その3

 

 「にほん=二本=双樹」とは、エデンの園に生えていた「二本の木」である「生命の樹」と「死の樹」を示していた。それを象徴するのが、「雛祭り」で飾られる「二本の樹」である「左近桜」と「右近橘」であり、これは」は「陰陽」を表し、イザナキとイザナミの象徴でもある。さらには「古事記」の主人公である「天照大神」「スサノオ命」で、それは「秦氏」と「物部氏」の合体でもあり、且つ秦氏系天皇と物部氏系皇后の婚姻をも表しているのである。が、それで終わりではない。

 

京都御所「紫宸殿」の「左近桜」と「右近橘」

 

 左近桜と右近橘は、日本神話の「木花咲耶姫」(このはなさくやひめ)と姉の「石長姫 /磐長姫 」(いわながひめ)の物語としても象徴される。天孫ニニギ命が婚姻する際、容姿が美しい木花咲耶姫を娶り、そうではない石長姫を親元の大山祇神(おおやまずみのかみ)に送り返した結果、恥をかかされた石長姫 /磐長姫の呪いにより、ニニギ命の子孫である天皇家はもちろん、地上の人間は寿命が短くなったという。「木花咲耶姫」は原始キリスト教徒「秦氏」を象徴し、「石長姫/磐長姫 」は原始ユダヤ教徒「物部氏」を象徴している。

 

 前回の連載でも詳しく書いたが、「磐長姫」という名は「岩のように永久にかわらない女性」を意味し、「岩」とは「山+石」で、意味は「いわ、いわお、大きな石」「岩代(いわしろ)の国」とあり、「山」の字は「絶対三神」を示した文字である。「山」や「磐座」(いわくら)を御神体として崇めるのは古神道や山岳宗教で、物部氏が奉じてきた原始ユダヤ教である。物部氏は山に降りてくる絶対神ヤハウェを崇敬し、そのための燔祭の生贄の儀式を行ってきた一族である。

 

 「岩」の字のもう一つの意味である「岩代国」とは、東北戦争終結直後に陸奥国より分立した、日本の地方区分の国の一つで、現在の福島県のことであるが、「岩の代わり」というのは「物部氏の形代」という意味で、いうなれば「物部氏を封印するための呪術」として「岩」という字を使っているという意味となり、「岩のように永久にかわらない女性」という意味の「磐長姫」とは、「物部氏」の象徴となるとした。

 

「木花咲耶姫」と姉の「石長姫 /磐長姫 」

 

 だが、絶対神ヤハウェが肉体をともなって現人神イエス・キリストとして人間の前に顕現、さらに人類の罪を一人で引き受けて燔祭の十字架に架けられたことにより「生贄の儀式」は必要となくなった。よって、神武天皇とともに渡来した秦氏は、物部氏の神社を次々と原始キリスト教の社へと変えさせ、「血の穢れ」を伴う燔祭の儀式をやめさせた。が、物部氏の神社全てを秦氏系に変えた訳ではない。表は秦氏が仕切るが、裏の呪術は物部氏が行う神社もある。よって、出雲大社や大神神社、石上神宮、諏訪大社など、物部系の主要な神社はそのままとされ、物部氏の呪術を継承してきた。物部氏の多くは服従させられたが、これもある意味で秦氏と物部氏の婚姻である。

 

 磐長姫の父「大山祇神」とは、その名が示すように「祇=国津神」であり「山祇=国津神の山の神を奉ずる」となり、そこに「大」が加わり、「一+人」で現人神イエス・キリストは同一神だと言っている。が、同じヤハウェ=イエス・キリストを神として奉じていながら、妹の「木花咲耶姫」を美しい姫にたとえているのは、それがイエス・キリストを示しているからで、「花=草冠+化」で、草冠はイエスが被せられた「荊棘の冠」のこと。「化」は「亻+匕」で、「匕=七」の象形文字の「七」とは「十字架から流れ落ちる血」の意味で、合わせて「荊棘の冠を被って十字架に架けられ血を流して死んだ」ことで「神が死体になった(化けた)」となる。

 

 「木」は「十字架」で「生命の樹」である。「咲」は「口+关」で、「咲」のツクリの「关」は「巫女が両手を挙げて体をくねらせて舞い踊る」様子を表すとされ、これに口がつくことで「巫女が神を楽しませ笑う」という意味に転じたというのが一般的な解釈であるが、关」の部首は「八部:はち・はちがしら・は」で、「八」が逆さを向いている形である。「八=や=ヤハウェ」で、絶対神ヤハウェが天から降りてきた状態を示している。「耶」も「や」でヤハウェであり、「耶蘇」(やそ)としたらイエス・キリストとなる仕掛けで、「天」の字の本来の書き方は「工+人」で、「工人」とは「大工」のこと。イエス・キリストの職業は大工であり、だからこそ皇祖神の名を「天照大神」としたのである。

 

「木花咲耶姫」と「富士浅間神社(山頂)」

 

 「木花咲耶姫」を祀る「富士浅間神社」の奥宮は富士山の山頂にある。富士山とは「不死の山」で、一度は亡くなったイエス・キリストが3日後に復活、「不死不滅の復活体」となったことを象徴するとともに、山岳信仰でもある物部氏の山「富士山」を秦氏が抑え込んだ象徴でもある。だからこそ「不死身の山」を象徴する「富士山」という名を与え、その「富士」を見ることを「富士見=不死身」としたのである。これは物部氏を封じるための呪術である。そこにはさらに意味が隠されているが後述する。

 

 「にほん=日本=二本=双樹」の仕掛けは、ユダヤ教神秘主義「カッバーラ」の奥義でありエデンの園に生えていた二本の樹、「生命の樹」と「死の樹」を意味している。創造主ヤハウェはアダムとエバに対して、「生命の樹の実」は食べてもいいが、「知識の樹の実」は食べてはいけないとした。 「生命の樹の実」は永遠の命をもたらすが、 「知識の樹の実」は死をもたらすからだ、と。だが、大魔王サタンの化身たる蛇にそそのかされ、エバは「禁断の樹の実」を食べてしまい、それを知ったアダムも口にして、人間は死すべき体となり、楽園から追放された。

 

 

◆「知恵の樹の実」も「知識の樹の実」も食べた二人

 

 創造主ヤハウェによって創造された宇宙において、最初の人間アダムとエバが住んでいたのは「エデンの園」である。二人は多くの動物と一緒に何不自由なく暮らしていた。その頃には「弱肉強食」は存在していなかったからだ。そして、楽園の中央には、二本の樹が生えていた。その実を食べると不老不死となる「生命の樹」と、その実を食べると創造神ヤハウェがもつ知識を得ることができる「知識の樹」である。

 

 世界が創造された当初、創造神ヤハウェはアダムとエバに対して、楽園に生えている樹の実は、どれも食べていいと許可を出した。そこには「生命の樹の実」も含まれていた。これを食べていたがゆえ、二人は不老不死状態だった。が、一方の「知識の樹の実」に関しては食べることを禁じた。食べると、確かに神に比する知識を得ることができるが、死すべき体になってしまう。故に、絶対に食べてはいけないときつく命じられた。

 

  主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
(「創世記」第2章8-9節)

 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(「創世記」第2章16-17節)

 

カッバーラの奥義「生命の樹」と「死の樹」

 

 そもそもの疑問として、絶対に食べるなと言うなら、最初からそこに生やしておかねばいいはずである。どうして、創造神ヤハウェは、わざわざアダムとエバの目の前に「知識の樹」を置き、その実を絶対に食べるなと言ったのだろうか。幼児はなんでも口にする。ダメだと言っても、言うことを聞かない。やるなと言われると、逆にやってしまいたくなる。好奇心が勝ってしまう。これを見越してサタンの化身である蛇は「知識の樹」に絡みつき、言葉巧みにエバを誘惑。「禁断の樹の実」を食べさせることに成功、アダムも食べてしまう。

 

 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。

 蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(「創世記」第3章1-6節)

 

「知識の樹」に絡みつくサタンの化身「蛇」

 

 なんでアダムも食べてしまったのか。妻だけが死ぬ体になってしまうことに耐えられなかったのかもしれないが、サタンの目論見は見事に達成された。この状況を全知全能の神は見ていたはずだ。「ちょっと待て!」となぜ止めなかったのだろうか。実は、ここは人類最大の謎かもしれない。

 

 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」
 女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
(「創世記」第3章8-13節)

 

 わざと知らないふりをしていたのか、創造神は二人に声をかけるも、二人は身を隠す。創造神はあえて問いただすことで、「禁断の樹の実」を食べたことを二人に自白させ、これを咎めた。

 

 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。(「創世記」第3章20-24節)

 

 

 創造神は怒り、二人をエデンの園から追放する。このまま不老不死をもたらす「生命の樹の実」を食べ続けてしまうと、死ぬことがなくなる。すると、二人は絶対三神と同じ存在になってしまうからだ。「知識の樹」は「知恵の樹」ではない。「知恵の樹」とは「生命の樹」の別名である。2本の樹の実を食べると、叡智を手にした創造神のようになってしまう。だからこそ食べることを「禁」じたのである。

 

 その「生命の樹」(命の木)は、二度と人間が近づかないよう創造神によって守られた。「命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」とあるように、燃え盛る火の中に移動された。「燃え盛る火」とは太陽のことである。「エデンの園」は太陽の中に存在する。骨肉の体の人間は、太陽に近づくことはできない。太陽の中に入るには「不死不滅の復活体」でないとダメなのである。そう「不死身」の体であり、それは神と同じ状態となることを意味している。

 

 

<つづく>