「大和と日本」の謎:その2

 

  キリスト教世界では、「聖霊」を象徴的に「鳩」として描くことが多い。これは「四福音書」であるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書に、ヨルダン川でのヨハネによるイエスのバプテズマが記録されているからで、ルカは「聖霊が、鳩のような形をして、ご自分の上に下られるのをご覧になった」と書いている。 「聖霊」はその字のごとく「霊」である。よって、「聖霊」は普通の人には見えない存在だ。しかし、このヨルダン川でのバプテスマの時には「聖霊」は目で見える形をとったため、普通の人々にも見えたとキリスト教では考える。だが、「聖霊」は実際は「鳩」ではないし、あくまでも「鳩のような姿」で現れただけだ。

 

 鳩は清さや無害、素直さの象徴とされる。イエスのバプテズマの時の鳩の形は、イエスに下りてきた「霊」が「聖と無垢の霊」だとキリスト教徒が考えるが、本当にそうなのだろうか。「鳩」のもう一つの象徴は、「ノアの大洪水」の後に出てくる。箱船がアララト山に漂着した後、ノアは乾いた土地があるかどうか試すために箱船から「烏」と「鳩」を出すが、「烏」は結果的に戻って来ず、「鳩」は口ばしに「オリーブの枝」を加えて戻って来た。その時以来「オリーブの枝」は、平和の象徴とされた。

 

 

 この話は象徴的に、悪が地上に満ちたため、絶対神は大洪水によって地上の悪を一掃し、神が人間との間に一時的に「平和」が宣言されたことになる。よって、キリスト教徒は、「鳩=聖霊」が神と人との間に和解が生じたという”良い知らせ”をもたらされたことを表すと考える。そして、イエスのバプテズマの時、聖霊が「鳩」として描かれたことは、再度の「神との平和」を象徴しているいるとする。が、本当にそうだろうか。

 

 なにせ、バプテスマは受けたが、その後に神=イエス・キリストは十字架で磔刑死しているのだ。いったい何をもって「平和の象徴」などと言えるのだろうか。「使徒言行録」(第2章)には、”炎の舌”という形で登場している。さらに、聖霊は本来の「言葉の神」として現れているのだ。じっくり読んでみてほしい。

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(「使徒言行録」第2章1-13節)

 

 

 聖霊が下りてきたら、そこにいた人間たちが、突然、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のである。つまり、聖霊が下りてきた人間は、どこの国の言語でも話せるようになるということだ。まさに「言葉の神」なのである。前回の連載において、「聖霊」は「霊の體をもった神で、肉体はないが憑依でき、3次元にも縛られず、時空を超えて複数の人間に入ることもできれば、逆に抜けることもある」とし、さらに「絶対神の預言者は、ご神託を述べ伝える時、必ず聖霊の力を借りる」とした。

 

 「言葉の神=言霊」は「魂」としての「ことだま」、つまり「言魂」だが、こちらは神ではなく、呪文に近いものだ。「魂」には必ず名前があり、名前がすべてである。本当の名を知られることは命を奪われることに等しく、それゆえ、霊能者も呪術者たちも本名を明かさない。名を知られれば、たやすく呪いを掛けられてしまうからだ。では、「言霊が幸(さき)わう国」と称される「日本」という名前はどうなのか。

 

 日本とは「日の本」、つまり「太陽が出る国」という意味である。古くは聖徳太子が「日出処の天子」と表現したが、日本という国号は太陽神である天照大神を最高神として仰ぐ国だという意味のほか、地理的にはユーラシア大陸の極東、太陽が昇る東に存在する島国であることを語っていることは間違いない。しかし、「日本」を言霊として解釈すれば、全く違う姿が現れる。

 

◆「ニッポン」と「ニホン」

 

 現在、日本政府の国号「日本」の正式は読み方は「ニッポン」であり、国際的な表記は「NIPPON」である。海外での一般的呼称「ジャパン」は、もともと「日本」を「ジッポン」と発音し、これが欧米で「ジパング」等と呼ばれた結果、英語で「JAPAN」に統一されたという経緯がある。だが、その一方で「ニホン」という読み方も一般的だ。通常、特別に意識しない限り、国民の多くは「日本」を「ニホン」と読んでいる。なにせ日本の正史『日本書紀』は「ニホンショキ」であり、「ニッポンショキ」とは呼ばないからだ。

 

 

 日本人が「ニホン」という言葉を耳で聞けば、発音次第では「二本」と認識する。会話の流れや文脈から国号の日本と数詞である二本を間違えることはない。が、言霊は違うのだ。音が同じならば同義、別の意味を含むことになる。「ニホン」は「日本」であると同時に「二本」なのである。駄洒落に思えるかもしれないが、その分だけ人々の深層心理に刻まれていくのである。つまり日本人の潜在意識には「日本=二本」という等式が出来上がるのだ。

 

 では、いったい「二本」とは何なのか。何が二本なのか。結論から言えば、それは「樹木」である。「二本の木=二本の樹」を意味しているのである。「二本樹」、いわば「双樹」である。では、神国たる日本における双樹とは何のことか。言霊が形となって表現されうるとすれば、最も重要な場所、創造主ヤハウェの預言者たる天皇がいる「内裏」、なかでも「高御座」(たかみくら)が置かれた「紫宸殿」(ししんでん)にある。

 

紫宸殿の「左近桜」と「右近橘」

 

 紫宸殿の前には「左近桜」(さこんざくら)と「右近橘」(うこんたちばな)という日本の樹木がそれぞれ植えられている。二本の樹木である。桃の節句の雛壇の下に飾られる樹木でもあり、種類こそ異なるが、神道の双樹でもある。左近桜は「美」、右近橘は「命」を象徴している。桜は美しいが、すぐに散って実をつけないが、橘の花は地味だが実をつける。古来より橘の実は「非時香木実」(ときじくのかくのこのみ)といって不老長寿をもたらす常世の国の仙薬と信じられてきた。

 

 「雛祭り」が婚礼を模していることには子孫繁栄の願いが込められており、節句の名ともなっている「桃」は古来より「不老長寿の仙薬」として知られ、「桃太郎」の名前にもあるように、鬼や悪霊も退散すると信じられてきた。日本神話のイザナギとイザナミの話においても、亡き妻に会いたくなったイザナギが、死者の国である「黄泉の国」を訪れた際、イザナミとの約束を破ってその醜い姿を見てしまったイザナギに怒ったイザナミは、「黄泉醜女」(よもつしこめ)という化け物たちにイザナギを追わせる。出雲の神話では、イザナギが桃を投げつけるストーリーを以下のように伝えている。

 

 イザナキは逃げながら黒つる草でできた髪かざりを投げると、地面に落ちて山ぶどうの木が生えた。醜女たちが山ぶどうの実を
むさぼり食べている間に、イザナキは逃げる。しかし、まだ追いかけてくるので、イザナキは、今度は右のみづらにさしていた竹の櫛の歯を折って投げると、今度はたけのこが生え、醜女たちがそれを抜いて食べている間にイザナキはまた逃げた。そこで、イザナミ神は、自分の体にいた八種類の雷神達に千五百の軍勢をつけて追いかけさせた。


 そこでイザナキは、剣を抜いて体の後で振りながら逃げた。しかし、まだ追いかけてくる。ようやくイザナキ神が黄泉比良坂(よもつひたさか)のふもとに来た時に、そこに生えていた桃の木から実を三つ取り、待ちかまえて投げつけたところ、雷神達は黄泉の国に帰って行った。すると、とうとう、イザナミ神自身が追いかけてきた。イザナキ神は、千人で引くほどの重い大きな岩で、黄泉比良坂を塞ぎ、イザナミ神と、その岩を間に置いて向かい合って立った。

 イザナミ神は、言う。「いとしい私の夫よ。あなたがこんなことをするのなら、あなたの国の人を一日千人、殺しましょう。」
 イザナキ神が応える。「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」


 こういうわけで、一日に必ず千人死に、千五百人が生まれることとなった。こうしてイザナミ神は、黄泉津大神という名になった。

 

「黄泉比良坂」

 

 誰が書いたのかは分からないが、出雲神話では「イザナギ」ではなく「イザナキ」として濁音を使わない表現で表している。これを「イザナ・キ」とすると、「誘う木」という名となる。「木に誘われる」というのなら、それはアダムとイブのエデンの園の話で、サタンの化身の蛇が、イブを誘惑して騙し、「知識の木(死の樹)の実」を食べさせることで、不死不滅であったはずが「死ぬ体」となってしまう話である。つまり、「イザナギ=イザナキ」とは「誘う木=蛇による誘惑」を表現し、「イザナミ」とは「誘う実」で、蛇に「誘惑」されて死ぬ体(=身)となってしまう「知識の木の実」のことを表現しているのである。

 

 つまり、「二本の双樹」とは、エデンの園に生えていた「二本の木」=「生命の樹」と「死の樹」を示しているこことなる。そして、「雛祭り」には「不老長寿の仙薬」を意味し、子孫繁栄=不老長寿の象徴として飾られている物がある。それが両脇に置かれた「二本の樹」である左近桜」(さこんざくら)と「右近橘(うこんたちばな)である。これらは平安京の内裏の「紫宸殿」の前にもある。「左近桜」と「右近橘」は「陰陽」を表し、内裏から見て左に立つ桜が陽、右に立つ橘が陰を象徴している。つまり、イザナキとイザナミでもある。

 

 「雛祭り」は壮大な夜空の星座が「お内裏様とお雛様」「三人官女と五人囃子」という姿で雛壇に飾られ、さらに「天の川」である天の安河は、女の子が飲む「甘酒」という形で流れている。「雛祭り」の飾りには様々な神話や故事が象徴として隠されている。その中でも最も重要な隠された意味を持つ象徴は「左近桜」と「右近橘」なのである。

 


 

 内裏の紫宸殿には新天皇の「即位の礼」に使われる「高御座」(たかみくら)が置かれており、天皇・皇后が坐すことで雛祭りの原型となっている。「高御座」が置かれている場所というのは、古来より天皇の都を意味する。令和の「即位の礼」の際にも平成の「即位の礼」の際にも「高御座」は使われたが、置かれている場所は昔も今も平安京である「京都」である。「雛祭り」には日本神話が投影されている。「雛人形」は天皇と皇后の婚礼の様子を再現したものとされているが、日本神話に根ざす壮大な宇宙観が反映されている。その原型は「古事記」の主人公である「天照大神」「スサノオ命」で、あえて新郎と新婦という象徴で示し、且つ天皇と皇后の婚姻をも表していわれているのである。「陰と陽」ということである。 

 童謡の「うれしいひなまつり」の歌詞では「お内裏様とお雛様」と表現されているが、お内裏様とは
「殿と姫の二人を合わせて指す言葉」とされており、実は「一人」なのである。だが、それを敢えて「お内裏様」と「お雛様」と二人に分けているのには、「天照大神=皇后=陰=秦氏」「スサノウ命=天皇=陽=物部氏」が投影されている。だが、男神スサノオと女神アマテラス、それはヤハウェとイエス・キリストを象徴する。別々に描いてもそれは同じ神ということを表しているのであり、それこそが「雛祭り」の正体ある。「雛祭り」では祝言が行われ、二人は結婚して一つとなる。それは同一神の象徴であり、女神と男神、陰と陽が入れ替わっているのは秦氏が仕掛けた古事記の「天の岩戸神話」で描く「八咫鏡」(やたのかがみ)の鏡像反転の呪術である。

 

 その意味でも「二本」は秦氏と物部氏という「二本の木」が呪術的に支配している国なのである。

 

<つづく>