「大和と日本」の謎:その1

 

 「日本」は言霊の宿る国と言われる。だが、そうしたことを言う人のほとんどは、「言霊とはなにか?」を問われた時に答えに窮する。日本人は「コトダマ」という響きがなんとなく好きなだけであり、「コトダマ」という言葉を使うとなんとなく高尚な感じがするからで、「コトダマ」の実態には興味を示さない。というか、逆に「言霊学」を勉強して1音1音の発し方やら意味を理解するなんてことは、難しくて何のことやらさっぱり分からないとなる。

 

 古の日本人は言葉に呪力が宿っていると考えていた。だから、余計なコト(言葉)を発しなかった。言葉は「霊」である。「こと・だま」と読むことから「魂」を意識している。正しくは霊と魂、いわば「霊魂」が宿っているということであり、言霊の霊とは天界の三神の一人「聖霊」のことである。「聖霊」は英語では「Holy Spirit」で、キリスト教では、父なる神、子なるキリストとともに三位一体を形成する第三の位格とされ、 人に宿り、啓示を与え、聖化へと導く「助け主」とされているが、本当だろうか。

 

 

◆「聖霊」と「ハルマゲドン」と「世界の終焉」

 

 キリスト教内の各教派において、「聖霊」についての捉え方・考え方には、共通する部分と異なる部分がある。西方教会と東方教会の間には、聖霊が「父(なる神)からのみ発出する」とするか、それとも「父(なる神)と子(なる神)から発出する」とするかを相違点とする問題がある。これは「フィリオクェ問題」と呼ばれ、正教会の神学者ウラジーミル・ロースキイは、「フィリオクェ問題」を東西教会の分裂の根源的かつ唯一の教義上の原因であるとしている。要は「聖霊」の捉え方の違いのために東西教会が分裂したということだ。

 カトリック教会とプロテスタントの間においては、「聖霊」に関する教理が16世紀の宗教改革において『聖書』を優先していくプロテスタントの中心にあったとされることがある。当時カトリック教会側は、枢機卿ロベルト・ベラルミーノから、プロテスタントにおける聖霊論と関係する教理である
「救いの確信」を、プロテスタントが異端であることの最たるものとする批判があり、またカトリック司祭エドマンド・キャンピオンは、聖霊論にプロテスタントとカトリック教会との根本的な相違があると捉えていた。

 

 この「救いの確信」(Assurance of Salvation)とは、キリスト教プロテスタント派の教義で、「聖霊の内的確証」により、義とされた信者が救われることを知ることが出来るというものだが、これはあくまでプロテスタントだけだ。キリスト教は教派ごとの相違点があり、論者によっては重要な争点と位置付けられる一方で、論者によっては、伝統的な神学では聖霊論は非常に軽視されてきた分野であると評される事もある。なんでこんなことになるのかといえば、彼らには「聖霊」が「言葉の神」だということを理解できないからだ。
 

「三位一体」

 

 さらにキリスト教世界において「聖霊」の正体が分からない理由の根本には、カトリック教会、聖公会、プロテスタント、正教会、非カルケドン派において、聖霊は「三位一体」の一つの位格(ペルソナ:個位、神格)であると位置付けられるからだ。世にいう「三位一体説」だが、この「三位は一体」という考え方は、第1ニカイア公会議(325年)の頃から第1コンスタンティノポリス公会議(381年)の頃にかけて、考え方が整理されていったものだが、冷静に考えれば『聖書』のどこにも「三位は一体」などとは書かれてはいないのだ。

 なんで「三位は一体」などと言う結論に至ったかといえば、イエスの教えの本質を理解している人間がいなかったからだ。こんなことを書くと、世界のキリスト教徒を敵に回すことになる(笑)。だが、仕方ない。なにせ彼らは「大和言葉」を理解できないのである。「大和言葉」を理解していると信じ込んでいる日本人でさえ「言霊=言葉の神=聖霊」ということを理解できている人間はほとんどいないからで、ヘブライ語さえ理解していなかったローマ人が勝手に「聖なる言葉」に意味を付け、彼らの『聖書』として編纂してしまったからだ。さらに彼らは根本的な間違いを犯す。それは
「三位一体でないもの」は「異端の教え」としたのだ。


 

 「聖霊」は「三つの神のうちの一つ」だが、いわゆる正統派によれば、「聖霊は神であるが、父なる神・子なる神・聖霊は、三つの神ではない」とし、「三位格は三神ではない」とする。なお、「三位三体=異端」が歴史上まとまった形で出現したことはないともされるが、「三重の神性」への傾斜として批判的に指摘されることはある。聖霊は「一様式」(mode)もしくは「一つの『役』」「子なる神、聖霊は、時代によって神が自分を表す様式(mode)を変えていったもの」「一つの『役』のようなもの」と主張する考えは、「様態論的モナルキア主義」と呼ばれ、いわゆる正統派からは否定される。

 

 さらに「聖霊」の神性は比較的劣っていると考えるキリスト者たちも多い。「聖霊」の神性は認めるものの、父なる神(神父)、子なる神(神子:イエス・キリスト)よりも劣った存在であるとする主張だ。この考え方を採るアリウス派は、第1コンスタンティノポリス公会議でいわゆる正統派から「異端」とされ、聖霊の神性が比較的劣っているという説も併せて否定されている。「聖霊」の神性を否定した人々は「聖霊神性否定論者」と呼ばれる、さらに「聖霊は神の活動力だ」などとトンチンカンは主張をする団体もある。

 

 なんでそんな話になってしまうかといえば、彼らの中には「聖霊」を宿す預言者がいなかったからである。イエス・キリストが磔刑となった後、イエス・キリスト直系の教えを授かった「エルサレム教団」はみなイスラエルから姿を消した。彼らは預言者に導かれ、東の果てへと向かった。「日本」である。だからこそ、日本の正史『古事記』『日本書紀』には三神の存在が記され、神社に行くことを「参拝(三拝)」と呼び、「参道(三道)」を抜けて拝殿の前で三人の神に「三礼」をする。イエス・キリストがエルサレム教団に教えた天界の奥義「三位は三体」を忠実に守っている。頭では理解はしていないが、大和民族のDNAには刻まれている。西洋のキリスト教会からすれば、完全に「異端」である。が、われわれ大和民族からすれば、天界の三神の存在を理解できない彼らこそ「異端」である。

 

 

 この「絶対三神唯一神界」という考えは、やがて世界を敵に回すこととなる。唯一絶対神を信仰するユダヤ教、イスラム教、キリスト教はもちろん、「三位は一体」だと捻じ曲げ続ける全てのキリスト教徒や偽キリスト教の新興宗教も、神の存在を否定する中国共産党も、金と偶像を神のごとく崇める悪魔教徒たちも、第3次世界大戦の後に「獣」を世界皇帝として崇める者たちも、「終わりの日」には全てが大和民族の敵となる。

 

 イエス・キリストを救世主として受け入れない者、その預言者たる存在が天皇陛下だということを受け入れない者、大和民族を「神の民:ヤ・ゥマト」として受け入れない者、全てである。さらに同じ大和民族の中にも敵は現れる。天照大御神をイエス・キリストとして受け入れない者、天皇陛下に従わない者、大和民族のエルサレム帰還を邪魔する者たちである。それは、天皇陛下の太祖モーセの時代の「出エジプト」の時と同じこととなる。

 

 モーセに反逆した「コラ」、「滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った」ことをヨシュアに隠していた「アカン」、レビ族以外は触ってはならない「契約の箱」に手を伸ばした「ウザ」。みな絶対神に滅ぼされている。これを関西では「コラ、アカン」とダジャレにしたり、「こいつ、ウザ」と言う。意味は分からずに使っているのだ。

 

処罰されるコラ

 

 ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。(「ヨシュア記」第7章1節)

 

 主はヨシュアに言われた。

 「立ちなさい。なぜ、そのようにひれ伏しているのか。 イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。 だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。 立って民を清め、『明日に備えて自分を聖別せよ』と命じなさい。イスラエルの神、主が、『イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない』と言われるからである。明日の朝、あなたたちは部族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた部族は、氏族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた氏族は、家族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた家族の男子は、一人ずつ進み出なさい。 滅ぼし尽くすべきものを持つ者がこうして、指摘されたなら、その人は財産もろとも火で焼き尽くされねばならない。彼は主の契約を破り、イスラエルにおいては愚かなことをしたからである。」(「ヨシュア記」第7章10-15節)

 

 

 一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。 ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。(「サムエル記下」第6章6-7節)

 

  大和民族であっても、レビ人以外が「契約の聖櫃アーク」にむやみに触ろうとすると、神に討ち滅ぼされてしまう。一方で、「大和民族」はすぐに絶対神を裏切る悪い癖がある。その度に絶対神を激怒させ、焼き殺されたり国を滅ぼされたりしてしまう。それは「終わりの日」にも必ず同じことが起き、「コラ、アカン」となったりする者たちが現れるが、「ヨシュア記」にもあるように、穢れなき者以外は再び「約束の地」には入れない。もちろん「十戒」を守っていなければ、それには参加すらできない。「それ」とは大和民族の土地、「約束の地カナン」を取り返すために日本を旅立つ「出ニッポン」のことである。

 

「出ニッポン」の時には日本海が割れる

 

 この「出ニッポン」の時、地上では「ハルマゲドン」が起きている。「獣」が率いる西側の軍隊と称する悪魔の軍隊と、その支配に屈しないロシアや中国の軍隊で争われるのが人類最終戦争「ハルマゲドン」である。だが、「ハルマゲドン」の後始末は「大和民族 vs 世界」による戦いとなる。モーセ直系の末裔たる天皇陛下は、伊勢、諏訪、出雲などの神官と氏子を引き連れ、「契約の聖櫃アーク」と「三種の神器」をもって「約束の地カナン=イスラエル」を取り戻すため、エルサレムの「オリーブ山」へと向かう。だが、その反対側には第3神殿に陣取る「獣」「偽預言者」「赤龍:サタン」の「絶対三魔」666」がおり、本物のユダヤ民族たちの帰還を阻止しようとするはず。

 

 「出ニッポン」の雛形は、モーセの「出エジプト」である。「出エジプト」の際には紅海が2つに割れた。それを起こしたのは「草薙の剣=アロンの杖」である。それと同じことが「日本海」で起きることとなる。大和民族が渡ってくる朝鮮半島や中国大陸の住民は恐れおののくだろうが、その一団にはユーラシア大陸各地に残っていた「失われた十支族」の末裔たちが加わって行くこととなる。莫大な数に膨れ上がった本物のイスラエル民族の一団を、各地の民族が「異教徒」として殺戮しようと企むが、大和民族の一団は創造神ヤハウェによって守られる。

 

 大和民族を守るため、創造神ヤハウェは、昼は「雲の柱」となり、夜は「炎の柱」となって大和民族を守護する。なにせ「出エジプト」の時にもエジプトの軍隊からイスラエル民族を守るために同じことが起きていたからだ。さらに「契約の聖櫃アーク」には、創造神ヤハウェが荒ぶる絶対神スサノウとして顕現、「契約の聖櫃アーク」は恐ろしい火を放つ人類最終兵器=八岐大蛇として、大和民族の聖地奪還を食い止めようとする人類に襲いかかることとなる。

 

イスラエル民族を守った「雲の柱と「炎の柱」

 

 天皇陛下と神官一族が「契約の聖櫃アーク」と「三種の神器」をエルサレムの「オリーブ山」へ鎮座させた時、皇祖神ヤハウェはイエス・キリストとして再臨する。が、この時、エルサレムの第3神殿には「獣」と「偽預言者」そして、彼らが地底深くから呼び出した「バール神=サタン」がいる。そして世界中の軍隊は人類最後の支配戦争「ハルマゲドン」を戦うため、ハルメギドの丘に集結している。こうした穢れた者どもを全て滅びつくすため、再臨したイエス・キリストは、その口から神の「言霊」を放つこととなる。

 

 この時、人類は始めて「聖霊」の姿を見ることとなる。「聖霊」は鳩の姿で現れるのではない。穢れた人間と全ての兵器を怒りの業火で焼き尽くすのである。これは「人類の葬儀」となる。なぜ、そもそも天皇家の紋が「葬式の花」である「菊花紋」なのか、それは大和民族は人類の葬儀を行う民族だからであり、それを象徴しているから「菊」なのだ。日本の五節句の最後「重陽の節句」も「菊」が象徴である。神事を司る天皇家の家紋が菊であることは、大宮司でもある天皇陛下が、人柱として消えた「歳神」(としがみ)=「天照大御神」の葬儀を常時行うことを示唆しているのである。

 

 日本人が元旦から大晦日まで、年がら年中、神事や節句、祭りを行っている意味は、大和民族は1年中「天照大御神=イエス・キリスト」の葬儀を行っている唯一の民族だからで、よって人類の終末となる世界の葬儀を受け持たなければならない。その最大の責任を持つのが天皇陛下であり、「世界終焉葬儀」を取り仕切ることにある。つまり、「契約の聖櫃アーク」とは「人類の棺桶」なのである。その棺桶を運ぶ行列を組み、牛車という「輿」の大行列を組みながらオリーブ山ヘ向かい、「救世観音菩薩(久世観音)」であり「天照国照彦(天照大御神)」でもあるイエス・キリストを、「ヤハウェの棺桶」の象徴である「契約の聖櫃アーク=磐座」に再臨していただくことになるのだ。

 

<つづく>