「穢れ」と「言霊」の謎:最終回

 

 秦氏の天皇であった桓武天皇は、「軍隊」を正式に廃止した世界初の大王であった。現在でも世界各国の施政者は、「軍事力」をもって国を統治し、特に圧倒的な軍事力を持つ国は、その力を背景に経済戦争や情報戦争など、様々な形の「戦争」を他国に仕掛けてくる。簡単にいえば「軍事力」とは強大な「暴力装置」であり、アメリカもロシアも中国も、世界の覇権国は巨大な「暴力団」と考えていい。そして、戦争とは「縄張り争い」のことである。

 

 日本には「暴力団」と呼ばれる「任侠組織」があるが、アメリカは戦後の神道潰しの一貫で、「任侠組織」を叩き潰すことが有効と判断、政治的にも社会的にも金銭的にも彼ら任侠組織を弱体化させるため、彼らを「暴力団」と呼ばせ、彼らを排除するための法律である「暴対法」を施行させ、彼らが隠す莫大な資金を巻き上げるとともに、社会的にその存在を抹殺しようとしている。実際の「暴力団」とはアメリカという国そのものだが、日本国政府にとってアメリカは「お上」であって、逆らうことのできない存在となっている。

 

 

 筆者はいわゆる「暴力団」の存在を肯定しようというのではない。実際、どうやってアメリカという世界最大の暴力団が、日本の暴力団の金を奪い、「暴力」という実力行使に出るのかということについては、その当事者であった元山口組系組長「猫組長」(菅原潮)の著書が参考になる。特にロックフェラーが支配する「オイル」に手を出した猫組長の前に、いかにアメリカが立ちはだかったのかは、その著書に詳しい。猫組長は元組長ではあるが、やはり書けないことも多い。なにせ任侠組織「山口組」と暴力団「アメリカ」の暗闘は続いているからだ。

 

 本連載でも書いたが、任侠組織の組長は「天照大御神」に誓いを立てるとともに、絶対三神を奉ずる。アメリカにとっても世界中のキリスト教徒にとっても完全な「異教徒」であり、特に現人神「天皇陛下」の存在も、戦争で散った者たちを「英霊」という「神」として祀る神道とは、彼らにとっては完全なカルトであり、大和民族の根幹をなす神道を叩き潰すためには、社会の裏側から神道の護持に貢献する任侠組織は、同じ暴力装置を持つアメリカにとっては明確な敵なのである。よって、「日米合同委員会:Japan-US Joint Committee」を通じて彼ら全てがアメリカの軍門に下るまで首を締め続けている。

 

 現在、日本でいわゆる「暴力団」と呼ばれる「任侠組織」は、もともとは秦氏によって社会的にも”封印”され、差別を受けてきた物部氏、もしくは外物部氏の末裔が主体である。彼らは古代日本の軍事を担った存在=「武士:もののふ」の末裔だったり、「血の儀式」を続けた人たち、「死の穢れ」を担った人たちの末裔が多く、よって「穢れた存在」とされた人々である。現在は大まかには同和が半分で、在日コリアン(韓国系・朝鮮系)が半分である。一部には中国系もいたり、金のために暴力団に入った一流大学出の人間もおり、完全な反社会的勢力の半グレ集団上がりの者もいる。

 

 

 暴力団といわれる存在の中には「アメリカ」の依頼による「暴力装置」として、お金のために殺人を代行する者たちがいる。白人の極東CIA本部が暗殺に動くと目立ってダメだからで、彼らがCIAに代わって「処理」を代行する。反アメリカの政治家を自殺に見せかけて暗殺したり、反アメリカの記事を書く新聞記者、番組プロデューサーたちが謎の「自殺」を遂げた際には、十中八九は彼らの仕業だ。中には日航機の御巣鷹山の事故の際、生存者を火炎放射器で焼き殺した極東CIA本部傘下の在日部隊もいる。

 

 最近になってこの件を、「自衛隊の秘密在日部隊「別班」が生存者救出しようとした日本人自衛官を射殺し、生存者を火炎放射器で焼き殺した」などと発信している方々がいるが、少々間違っている。自衛隊員数名は自衛隊員の格好をした極東CIA本部傘下の在日部隊に射殺されているのである。米軍に自衛隊のミサイルの誤発射を隠蔽するために協力を依頼したのは、当時の首相で在日の中曽根康弘である。自衛隊は日本人を殺したりしない。はっきり言ってTVの見過ぎだ。なにせ「VIVANT」というドラマを作ったのは、在日じゃないと上層部には上がれないTBSである。

 

 

 しかし、1990年以降、日本政府へ全ての命令を出すのは「日米合同委員会:Japan-US Joint Committee」で、更なる日本支配を徹底するため、ロックフェラーの命令を「財務省」を介して各省庁に伝え、その法令化を自民党に命じて日本人を支配している。そのアメリカの手足として動くのが「在日シンジケート」で、「在日特権」、「在日就職枠」、「特別永住権」、「通名制」で、霞が関省庁、大学、TV局、新聞社、大企業、広告宣伝会社、エンタメ業界のみならず、自民党最大派閥だった「清和会」等に送り込み、日本をロックフェラーの望む方向へ動かし続けている。

 

 日本人は戦後のGHQの司令によって、「戦う意志」を持ってはいけない人間へと弱体化させられ、戦争を放棄、軍事力も放棄させられ、アメリカと白人社会に二度と歯向かわない人間の集まりにさせられたというのが表向きの話だが、裏を返せば、それは皇祖神がそうさせたのである。なぜなら、戦前の日本人はみな「国家神道」というカルト宗教にハマってしまい、皇祖神をそでにしてしまったからだ。明治天皇の御真影という偶像を崇拝させたことで、絶対神が許さない「偶像崇拝国家」となり、平然と「1億総玉砕」などと言う狂った宗教に陥ってしまったのである。

 

 平安貴族の政治とは「和歌」を詠むことだったと書いた。一般的には貴族が自分のことしか考えない酷い政治体制だったが、「言霊」という神の存在を考えれば、「言葉」というもの自体が大和民族にとっての最大の武器でもあるからで、軍事力など必要なかったのであり、さらに怨霊を鎮めるためでもあった。だからこそ、穢れのない平安な都にせねばならなかったのである。

 

 

 平安京を造営したのは原始キリスト教徒「秦氏」である。彼らの中で政治を司る一族は、後に「藤原氏」へと名前を変えて生きてきた。だが、平安京に住んだのはほとんどが秦氏であったため、平安京の「通りの名称」を変えることで、どこに住んでいる秦氏なのかを区分した。794 年の平安京遷都当時、京都の通りは、南北方向には朱雀大路を中心として十一の大路 とその間の小路、東西方向には一条から九条までの大路とその間の小路からなっていた。 この「通り」の名称こそ、「藤原氏」を住んでいた場所によってその姓を変えさせたのである。

 

 もちろん天皇の住まう内裏に近ければ近いほど、政権の中枢に関わった意味となる。近衛家(このえけ、 旧字体:近󠄁衞家)は、藤原北家嫡流であり、公家の五摂家(ごせっけ)筆頭で、華族の公爵家のひとつ。 人臣で最も天皇に近い地位にある家とされる。摂家とは、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家の5つの一族のことであり、大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任でき、藤氏長者に就く資格を有した。この五家は、藤原道長の家流が、忠通の後、近衛・九条に二分し、ついで九条から二条・一条が、近衛から鷹司が分立したものだ。

 

  近衛家で最も著名な人物は、昭和前期に3度にわたって内閣総理大臣を務めた近衛文麿である。指揮者・作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿は異母弟、大山柏は妹婿、徳川家正は従兄にあたる。また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕と、日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務めた近衞忠煇、島津家第32代当主・島津修久は外孫に当たる。つまり、みんな藤原氏なのだ。その藤原氏筆頭の近衛家が表の人間として天皇を補佐し、裏側では上賀茂神社と下鴨神社の賀茂氏が呪術的に天皇を護ってきたのが「平安京」なのである。

 

 

 「平安京」は呪術的に作られた都である。縦と横の大路によってイエス・キリスト磔刑の「T型十字」を隠し、その上にはノアの箱舟がたどり着いたアララト山を象徴した「船岡山」を配し、毎年7月17日のノアの箱舟がアララト山に漂着した日を祝って「祇園祭」が行われてきた。「祇園」は「シオン」であり、天のかみ「神」に対し、地のかみを「祇」ということで、「祇園」は「国津神の園」の意味となり、物部系神道によって護ってきた場所となる。つまり、表を秦氏が仕切り、裏側を鴨族を含む物部氏が護ってきたこととなる。

 

 この意味は非常に重要だ。「平安京」とは秦氏が創建した「原始キリスト教徒」の都でもあるが、物部神道を奉じた「原始ユダヤ教徒」の物部氏にとっても都なのである。つまり、イエス・キリストが現れるまでは、もともとはユダヤ教徒の国であった古代イスラエル王国の都・エルサレムだったからで、だからこそ「平安の都」とはヘブライ語「エル・シャローム=エルサレム」という意味が隠されているのである。つまり、「ヤ・ゥマト:神の人々」が集まった都であり、「終わりの日」には天皇陛下の元に再び全ての「ヤマト」が結集する都なのである。但し、その際に集まることができるのは、「穢れ」のないヤマトだけである。

 

 

 なぜ「穢れ」のないヤマトだけなのか。それは船岡山にイエス・キリストが再臨するからである。極東エルサレムの平安京は、西の果てのエルサレムと同じ位置関係で作られた都である。よって、イエス・キリスト=天照大御神が再臨する場所は「オリーブ山」に当たる船岡山となり、イエス・キリストが処刑された「ゴルゴダの丘」に当たるのが朱雀大路の南に位置する「甘南備山」で、「かんなび」とは「神奈備」とも書く。古神道では「神が降り立つ聖域」の意味となるが、神道では「神が亡くなられ山」を意味する。イエスが十字架の磔刑で亡くなった「ゴルゴダ」とは「しゃれこうべの場所」という意味だからだ。

 

 こうした土地の名称もまた「言霊」の呪術なのだ。エルサレムにはソロモン王が建立した神殿もあったが、それは平安京では内裏に当たる。一方で創造神ヤハウェが受肉したイエス・キリストが十字架で磔刑死した場所でもある。その神の怨霊を鎮める為、神社や寺、華道・茶道・香道・歌道の家が徹底的に「清め」と「怨霊封じ」を行ってきた都なのである。だからこそ「穢れ」は許さないのである。

 

 

◆「ヤマト言葉」と同音異義語の仕掛け

 

 和歌を詠むとは、「ヤマト言葉」を正しい音で発することである。「大和言葉」を辞書で引くと、以下のように書かれている。

 

 1 日本固有の言葉。漢語・外来語に対していう。 和語。やまとことのは。
 2 和歌。やまとうた。やまとことのは。
 3 平安時代の、上品な言葉。雅言(がげん)。

 

 「やまとことば」とは「大和言葉」「和語」「倭語」「和詞」とも書く。これを同音異義語という。一方、「和歌」とは何かを調べると、以下のように記されている。

 

 1 漢詩に対して、上代から行われた日本固有の詩歌。五音と七音を基調とする長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)・片歌(かたうた)などの総称。やまとうた。
 2 《万葉集の題詞にみえる「和こたふる歌」から》答えの歌。返し歌。
 3 能で、舞の直後または直前にある謡物(うたいもの)。

 

 「和歌」は「わか」と呼んでいるが「やまとうた」なのであり、「大和言葉」の意味が「和歌」とあるように、2つは1つなのである。そして、「やまとのことのはで放つ歌」ということならば、それは言霊による怨霊封じの呪術なのであり、「終わりの日」のための預言でもあるのだ。逆にいえば、全ては最初から「終わりの日」のために用意されてきたのである。

 

 「和歌」「大和」の「和」という字は「禾+口」で、「口ノ木」となり、その意味は「言霊の木」である。「木」とは「樹木」であり、神道では「神」の数を表すのは「柱」で「主の木」である。つまり「和」という字こそが「言霊の神」を表した字なのである!

 

 そして、「和」の旧字体は「咊」である。新字の「和」は常用漢字なので、子供の名づけに使えるが、旧字の「咊」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけには使えない。なぜなら、天皇家のみに使うことを許されている字だからだ。全ては最初から「終わりの日」のために用意されてときたしたのは、人類最後の元号として定められたのが「令和」だからだ。「令咊」とすると、そこには「命の木」が現れ、「永遠の命」を与える「生命の樹」となるからである。

 

 

 「命」を与えるものは「名」である。「名」を付けることで「命」が吹き込まれるのである。この「命」という字を分解するとどういう意味が隠されているのだろうか。それは「絶対三神が支配する唯一神界」である。

 

 「一」=数霊=御父エル・エルヨーン

 「卩」=文字霊=イエス・キリスト

 「口」=言霊=聖霊ルーハ

 

 つまり、3人の神々の姿に似せて作った「人」にアダムという「名」をつけ、「命」を与えた天界の三神を表す字こそが「命」そのものだったのである!

 

 

 呪術の「呪」とは「ジュ・シュ・のろう・のろい」だが、同音異義語で「シュ」とは「主・朱・酒・首・手・珠・終」という字がある。主=神、朱=赤=血、酒=ワイン=最後の晩餐、首=顔=名前、手=磔刑、珠=宝、終=終末の日で、すべてイエス・キリストに関わる意味を持つ文字になっている。この音を歌として詠むと、「掛詞」(かけことば)となるのである。

 

 さらに「シュ=主=神」で「かみ」となれば「上・髪・頭・守・紙」に加えて「三・正・天・龍・竜・皇・昇・称」も全て「カミ」と読むのである。主人が座す場所を上座(かみざ)と呼び、頭には神が降りてくるからカミと呼び、そこに生えるのは髪。和歌を書くのは紙の上だ。つまり、「ヤマト言葉」 とは、一つの音の中に同音異義語で複数の意味を伝える呪術であり「神の言葉」なのである。その言葉を与えられたのがわれわれ「ヤマト民族」なのである。

 

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」

 (「ヨハネによる福音書」第1章4−5節)

 

 「神の言葉」である「ヤマト言葉」を使うのが日本人なのだからこそ、日本人は常に正しい「言葉」を発することが求められる。もちろん「偽り」の言葉を発することなどもってのほかなのである。この「偽りの言葉」のことを日本では「嘘:うそ」と呼ぶ。「嘘」とは「口+虚(虛)」で、「口の象形」と「虎の頭の象形」+「丘の象形」で、「虛」の上部は「虎」の意味だが、ここでは「巨」と同じ意味を持つようになって、「大きい」の意味とされ、下部の「丘の象形」は「荒れ果てた都の跡、または墓地」の意味から「むなしい」の意味から、むなしい言葉「うそ」を意味する「嘘」という漢字が成りたったとされる。

 


 

 だが、この「嘘」という字は、日本人はみな最初から「うそ」と思っているが、「うそ」は日本のみで用いられる意味なのである。「事実ではない事」「本当ではない事」「いつわり」「正しくない事」「誤り」「適切でない事」「その場や物事にふさわしくない事」を意味している。つまり「口」から「虚」を吐き出している状態を表した字なのである。そして、「虚」という字には「むなしい」「むなしくする(からにする)」「うつろ(内部がからである事、からっぽ)」「丘」「大きい丘」「空(天空)」「むなしくなる(死ぬ)」といった意味がある。

 

 「むなしい」という言葉は、「内容がない」「存在しない」「無駄である」「根拠(理由)がない」「死んで魂がない」という意味だ。つまり、「嘘」という字は「死んで魂がない言葉」ということで、「コトダマなきコトバ」という意味なのである。だからこそ、そんな「言霊なき言葉」=「嘘」を発していると、やがて「むなしくなる=死ぬ」といっているのである。偽りの言葉を放っている大和民族は、遅かれ早かれ皇祖神と聖霊(口)に滅ぼされると警告を与えているのである。

 

 

  試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。 愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。7あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。 父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。 

 

 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。 (「ヤコブの手紙」第1章12-27節)

 

 

 何度でも書くが、『聖書』とは大和民族のために書かれ、大和民族のために残された「預言」である。他人を欺く言葉を発することは、自分を欺くこととなり、言葉の神「聖霊」を欺くこととなる。イエス・キリストを欺いても罰さられることはないが、聖霊を欺くと必ず滅ぼされる。聖霊はキリスト教徒が言うような甘い存在ではなく、「終わりの日」にイエス・キリストとともに「偽りを言う者どもの全て焼き滅ぼす」ために降臨する存在だからだ。

 

 「ヤマト言葉」を使う日本には希望が残されている。終末に世界を救う最後の光は、ここ日本に隠されている。2024年の歌会始のお題は「和」であった。

 

 

 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。(「ヨハネの黙示録」第2章17節)

 

<終わり>

 

 気づいたら66回もの連載となってしまった。だが、これでもまだ折り返し地点に立ったばかりである(笑)。なにせまだ、肝心要の言霊「ニッポン」の謎解きは終わっていないからだ。「日本」と書いて、日本人は誰しも迷うことなく「ニッポン」もしくは「ニホン」と読む。だが、「日」という字の音は「ニチ・ジツ」であり、訓は「ひ・か」だ。「にちほん」「にちぽん」とは読むことはできても「ニホン・ニッポン」とは読まない。実は、ここにこそ「日本」を意図的に「ニホン・ニッポン」と読ませる言霊の呪術の奥義が隠されている。

 

 GWも本業の仕事のため、休みなくフル稼働している筆者は、明日から業務で海外に渡航する。よって、来週まで後半の連載開始はお預けとなることをお許し願いたい。なぜ、国号は日本ではなく大和だったのか。なぜ伊勢は外宮と内宮の2本柱なのか。伊勢神宮の雛形である賀茂神社もまた上賀茂神社と下鴨神社と「上下」2本なのか。全ての鍵は「ニホン」にある。次週からは「言霊と穢れ」の後半となる”「大和と日本」に突入する。また長い連載になりそうだが、ご容赦願いたい。

 

 日本の謎は「名素」と解くことが必要である。幾重にも仕掛けられた「名素」とカッバーラ呪術に挑むには知力と体力と霊感が必要だ。いくら頭で考えても、霊感がピンとこないと「名素解き」はできないのである。それこそが「言霊」の奥義なのだから。