「穢れ」と「言霊」の謎:その65

 

 神道の最高神は「天照大御神:あま・てらす・おお・み・かみ」と読む。その呼び名には「濁音」はない。「御」の字がない「天照大神:あまてらすおおかみ」という表記もある。天照大御神は日本神話に主神として登場する神であり、一般に女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神である。『記紀』においては、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれており、太陽神、農耕神、機織神など多様な神格を持つ。「天岩戸隠れ」で有名な神で、神社としては「伊勢神宮・内宮」に祀られている。

 

 『古事記』においては「天照大御神」、「天照大神」と表記されるが、『日本書紀』においては日神、大日孁貴(おおひるめのむち)、天照大神、天照大日孁尊、大日孁尊、日神尊、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、伊勢大神などと記される。また、神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日孁(おおひるめ)、大日女(おおひめ)などとされている。神道の最高神で皇祖神であるにも関わらず、かくも違う「名前」で呼ばれている。本来なら皇祖神に対して無礼千万な話だが、日本人は誰もそう考えない。

 


必ず女性として描かれる天照大御神

 

 世界の宗教と比べれば、自分たちが崇める神様の名前が場所によって変わるなんてことはない。自称「ユダヤ人」と称するユダヤ教徒たちは自分たちの神の呼び名を忘れ、「アドナイ」などと呼んでいるが、「創造神ヤハウェ」はヤハウェである。「救世主イエス」は「イエス・キリスト」だが、これはギリシャ語の呼び方で、ラテン語では「イエズス・クリストス」、 ヘブライ語だと「ヨシュア・メシュア」。ちなみに「ヨシュア / ジョシュア」は当時のユダヤ人の間できわめてポピュラーな名で、日本でいえば「太郎」である。昔の日本人は、長男が生まれると「太郎」と名付けた理由はここにある。よって日本的に漢字で表現すれば「救世主・太郎」となる。


◆「ヤマト」と「神の名前」
 

 伊勢神宮において、通常は「天照大御神」の他に「天照皇大神/天照皇太神」(あまてらす・すめ・おおかみ)、あるいは「皇大御神」(すめ・おおみかみ)と言い、神職が神前にて「名」を唱えるときは「天照坐皇大御神」(あまてらし・ます・すめ・おおみかみ)と言う。よくよく考えると、これまた変な話だ。皇祖神「天照大御神」をいろんな名で、それも神職自らが異なる「名」で呼んでいるのだ。異なる言語でイエス・キリストを呼ぶのとは話が違う。

 『日本書紀』の表記である「大日孁貴」の「ムチ」とは「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は大日孁貴のほかには「大己貴命」(オオ・ナ・ムチ、大国主)、「道主貴」(ミチ・ヌシノ・ムチ、宗像大神)などわずかしか見られないが、これは物部氏系の社ばかりだ。実際、伊勢は伊雑宮を含め、もともと物部氏の社のあった場所である。

 

 「謎:ナゾ」とは「名素」で、「謎を解く」とは、「名の素」を解き明かすことに他ならないとしたが、「天照大御神」の名を分解すると「天=工+人」「照=日+召+灬(火)」「大=一+人」「神=示+申」で、「カルビムの炎が渦巻く太陽に召された貴き神は、現人神の大工と申す」となり、十字架の磔刑後に復活、不死不滅の体となった人にして、太陽神ヤハウェが現人神として顕現した職業が大工だった存在のことで、2人の天使(ケルビム)が寄り添って太陽へとお戻りになった神、イエス・キリストのことである。

 

 

 「天照大御神」は「イエス・キリスト」であり、現在も皇大神宮(内宮)に鎮座している。ご神体は地下宮に安置されている「聖十字架」、2枚1組の「十戒の石板」、「契約の聖櫃アーク」である。一方の豊受大神宮(外宮)には「豊受大神=創造神ヤハウェ」が祀られ、ご神体は「マナの壺」と「モーセの旗竿」である。それぞれイエスとモーセの「十字架」を祀り、ユダヤ三種の神器を一つずつ祀っている。内宮の神は蛇神といわれるが、それはイエス・キリストが「蛇」で表されるからで、天照大御神の別名「大己貴命」の「己」とは「巳:み:へび」のことである。現人神であり蛇神でもある貴い神は「命」を与えてくれた神だと言っているのである。

 

 外宮に鎮座する「豊受大神」(とようけのおおかみ)と「マナの壺」がもともと鎮座していたのは、元伊勢にして本伊勢「籠神社」であり、その奥宮である「真名井神社」(ま・な・い・じんじゃ)である。「真名」とはユダヤ三種の神器の1つ「マナの壺(真名之壺)」の「マナ:MN」である。ヘブライ語では「これは何か」を意味すると同時に、日本語の言霊で「真の名前」を意味する。「真の名前」とはいうまでもなく「神の真の名前」、「創造神の本当の名前」を示唆している!

 

真名井神社(眞名井神社)

 

 「真名井神社」の正式な表記は「眞名井神社」であり、古来より「匏宮」(ひさごのみや)と称してきた。眞名井神社にとっての磐座は「豊受大神(天御中主大神)」と「天照大神」で、他にも伊射奈岐大神・伊射奈美大神の磐座もある。なんで「ひさご」なのかといえば、縁起物の「鶴亀」の正体でもあり、「瓢」(ひさご)は「瓢箪」(ひょうたん)だからで、瓢箪の下部の「甕」(かめ)と上部の「蔓」(つる)を支配する日本海に浮かぶ海の奥の宮「隠岐」と連動し、最後の天皇陛下の指示を仰ぐことになるになるからだ。

 「真名井神社」のある地は「与謝」(よさ)で、この与謝とは「ヨシュア」の名を持つ聖なる地である。イエスが人類に罪を負ったことで、人類に許しを与えた意味が「与謝」で、だからこど籠神社と奥宮・真名井神社は伊勢両宮の「元(本)伊勢」であり「元(本)出雲」なのである。「ヨシュア」という名は、日本では勝どきを挙げる時に使う「よっしゃー」という言葉の元でもあるが、この「よっしゃー」は、出エジプトの際にイスラエル民族を率いて「約束の地カナン」を攻略したヨシュアにちなんでいる。

 

 「真名井神社」の「真」の旧字「眞」は「眞=匕・県」で、「匕:さじ」は「小刀」の意味だ。「七」の形の「十手:じって」と入れ替わり「眞」→「真」となり、「匕=七」の象形文字の「七」は「十字架から流れ落ちる血」の意味で、「目」は万物を見通す目で、「L」は曲尺の地面、「八」は神棚や祭壇の意味で、「十字架に掛かった絶対神が口の小刀と真実の目で裁きを行う」となる。

 

 「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(「ヨハネの黙示録」第1章16節)

 

 

 何度も書くが、イエス・キリストは受肉した創造神ヤハウェである。従って、内宮と外宮で、同じ絶対神を別の名前で祀っていることになる。旧約の創造神と新約の救世主という二柱の神々として祀っているのである。これは何を意味するのか。

 

 それは、日本の国号である。なぜか。「ニホン」だからである。伊勢の内宮・外宮で「ニホン:二本:日本」なのだ。そして内宮に「聖十字架」、外宮に「モーセの旗竿=十字架」の2本の十字架を祀っており、「日=太陽=太陽神=陽=男神」でヤハウェを、「本=一+人+十」で「十字架に掛けられた現人神」かつ「十=陰=女神:天照大神」としてイエス・キリストが祀られていることを隠している。日本国の正式な発音は「ニッポン」だが、「ニホン」とも呼ぶ理由はここにあるのである。

 

 しかし、本当の伊勢神宮は「伊雑宮」(いざわのみや)である。漢波羅秘密組織「八咫烏」の頭領「金鵄」は、伊雑宮に祀られているご神体は「天照大神の首である」と飛鳥昭雄氏の著書の中で語っている。「首」とは顔のことで、死んだ人間を判別できるのは顔だけだからだ。その人間を「人」とするものは「名前」である。つまり、伊雑宮に祀られているご神体は神・イエス・キリストの名前である。そう、磔刑の聖十字架の上に設置された、イエスの罪状を記した「罪名版」である。

 

 

 伊雑宮は伊勢本宮なのに隠されている。なぜか。それは罪名版があるからなのだ。罪名版に記されているのは罪状だけではない。そこには創造神ヤハウェの名前が刻まれているのだ。『新約聖書』によれば、そこにはヘブライ語とギリシャ語とラテン語で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていたという。

 

 この「ユダヤ人の王」というのはメシア:救世主のことである。具体的にヘブライ語では「YHWSHWA HNTZRY WMLCH HYHWDH」と表記し、これらの単語の頭文字を拾うと「YHWH:ヤハウェ」となる。イエスはユダヤ人達に自らを「ある者:エヘイエイ:EHYH」と名乗った。この三人称単数系が「YHWH」である。

 

  「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。(「ヨハネによる福音書」第8章58−59節)

 

 イエスは人間でありながら、絶対神ヤハウェであること名乗るという冒涜を犯した。これこそがユダヤ教徒たちが主張する「罪名」なのである。さらに、ラテン語では「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM」となり、頭文字を拾うと「INRI」となる。西洋絵画で罪名版を示すためにこの4文字が書かれるが、ヘブライ語に対応させれば、この4文字も創造神ヤハウェを意味することなる。

 

 神の名前をみだりに唱えてはならなかったことでユダヤ人たちは怒り、イエスを磔刑にしたのである。自らの神を殺したのである。これを日本では母音を足して「INARI」とした。稲荷神社の総本山「伏見稲荷大社」の主祭神は「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)で、その名前に尊称の「豊」をつけた「豊宇迦之御魂神」が外宮に祀られる「豊受御神」なのである。すべては名前に仕掛けられた言霊の呪術である。

 

<つづく>