「穢れ」と「言霊」の謎:その64

 

 この世に生まれた最初の人間であるアダムは、神が自分たちの姿に似せて創造した最初の人類で、「赤土=アダマー」から「命名」されたアダムという名を付けられたことで、創造神ヤハウェによって生ける存在となった。人祖アダムは神道におけるイザナギ命で、妻エバはイザナミ命である。地球上の生物に名前をつけたのはアダム、すなわち「イザ・ナ・ギ命」で、「名前をつけた」ということが、この世における「命」の始まりであり、呪術の始原となった。「イザナ」とは「誘(いざな)う」という意味で、人類を誘うために必要なものは「名前」である。イザナギの「ナ」とは「名」なのであり、エバはアダムが命名した最初の人であるがゆえ、現在までつづく「人類」という「生」を宿すことになったのである。

 

 アダムは神から名前を与えられた最初の人だったが、アダム以外にも神から直接「名前」を与えられた人たちがいる。但し、彼らの場合は「改名」であったり、「命名」であったりする。しかし、神が名を「与えた」のなら、改名も命名も同じこと。新しい「命」を与えたことになるからだ。

◆絶対神に「名」を改めさせられたイスラエル民族


 まずはイスラエル民族の祖「アブラハム」である。「アブラハム」は元の名を「アブラム」と言っていたが、絶対神の召命によって、名を「アブラハム」と改名されたのだ。旧約聖書で一番名前が知られている預言者といえば、モーセかアブラハムである。絶対神ヤハウェが特別な聖約を結び、そのことにより新しい名前が与えられる。

 「あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである」(「創世記」第17章5節)

 このアブラハムの妻「サラ」も改名させられている。サラはそれまでの名前を「サライ」と言ったが、絶対神が新しい名前を与えたのである。

 「神はまたアブラハムに言われた、『あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい』」(「創世記」第17章15節)


アブラハムと妻サラ、サラの女奴隷ハガル

 

 アブラハムの一家は、家長のアブラム、妻のサライが神から名前を変えられたが、それだけではない。サラの息子「イサク」は神が与えた名であり、サラのエジプト人の女奴隷ハガルに産ませた「イシュマエル」も神が与えた名前である。100歳まで子供が授からずにいたアブラハムと妻サラは、年老いていながらもやっとみごもったときに喜び、絶対神は、アブラハムに子供が生まれることを伝えるとともに、子供の名前も伝えている。
 

 神は言われた。
 「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。 しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」神はこう語り終えると、アブラハムを離れて昇って行かれた。(「創世記」第17章19-22節)


 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい
主があなたの悩みをお聞きになられたから。
(「創世記」第16章11節)

 イシュマエルはアブラハムとサラの女奴隷ハガルとの間に生まれた子供で、順番で言えばアブラハムの第一子である。異母兄弟のイサクのときと同様に、神の遣いを通して、絶対神がイシュマエルと名づけるよう言われたことを伝えた。イシュマエルはアラブ人の祖であり、その子孫にはスファラディー系のユダヤ人もいる。「イスラム」という言葉は「イシュマエル」を起源としている。

 

アブラハムとハガルとイシュマエル


 アブラハム一家には、後に「イスラエル」とよばれる「ヤコブ」が誕生する。イサクの息子である。ヤコブは、父と祖父母のように主からイスラエルの名前を与えられたが、神の遣い(神自身)と一晩中格闘して負けなかったことで、新しい名を与えられた。この新しい名「イスラエル」は、「彼は神とともに守る」または「神は勝つ」という意味がある。彼の12人の息子たちは、後にイスラエルの12支族として知られるようになる。現在の国名である「イスラエル」はヤコブからきている。その意味でヤコブは「イスラエル民族」の祖なのである。


  「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。(「創世記」第32章27-31節)

 

 

 アブラハムにもヤコブにも、サラにも絶対神は直接語りかけている。さらにヤコブは神と格闘しているのだ。そして、負けなかったからこそ「イスラエル」という名前を与えられたのだ。神が直接「命名」したということは、特別な「祝福」が与えられたという意味である。その「イスラエル」の名をもつ民族の末裔が「ヤマト民族」なのである。が、現在の大和民族は、絶対神に祝福されないようなヘンテコリンな名前ばかりとなってしまっている。

 

◆「命」の謎と「言霊」

 

 不可解なこと、不思議なことを「謎」と称す。「謎」とは「ナゾ」、すなわち「名素」である。「謎を解く」とは、名の素を解き明かすことに他ならない。「命」とは「名前をつけるはたらき」であり、字を分解すれば「人・一・卩・口」になる。名付ける主体を「人」とすれば、「名前」は「一・卩・口」に対応する。字義的に「一」は数字であり、「卩」は「印」である。そして「口」は「言葉」である。

 

 

 印は記号であり、「文字」のこと。口から音声として発せられるのが「言葉」である。つまり、名前は「数」と「文字」と「言葉」によって成り立っていることがわかる。これら3つの要素によって、すべての名前はできているのである。しかも、これら3つの要素は互いに結びついている。言葉は音声だが、これを記号として表せば文字になる。数という概念も字にすれば「数字」となる。音声は音波であり、振動数である。字には画数がある。言葉と文字と数は密接な関係を保つことで、最終的に名前を構成するのである。これを「数霊」(かずたま)・「音霊」(おとだま)・「言霊」(ことだま)というのだ。

 

 

 神道では神様の名前に「命」「尊」をつける。いずれも読みは「みこと」である。本来の意味は「御事」であると同時に「三事」、つまり、「命」における3つの要素を示している。これは神道と密接な関係にある原始キリスト教においても本質的に同じである。

 

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
  (「ヨハネによる福音書」第1章1−4節)

 

 

 ここにある「言」が「言葉」である。「言葉」は「神」である。日本古来の「言霊」のことである。「コトダマ」には「言魂」と「言霊」があり、ここでは後者である。「霊」には形がある。それは「人」の形である。なぜなら、創造神は「神の似姿」として人間アダムを創造したからだ。

 

 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」(「創世記」第1章27節)

 

 言葉なる神は別の神とともにあったというのだから、この時点で神はひとりではない。更に「創世記」には、こんな表現がある。

 

 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」(「創世記」第3章22節)

 

 創造神は「我々」と称している。御丁寧にも「我々の一人」とある。明らかに神はひとりではなく、複数存在するのだ。この世の初めに神がいた。神とともに言葉なる神がいた。言葉なる神の内に命があった。命は名前をつけるはたらきである。名前をつける対象は「人」であり、最初に名付けられたアダムが万物の名前をつけた。従って、命の字に含まれる3つの要素のうち、「言葉は神であった」ということは、残る文字と数もまた、神であったことになる。

 

 

 言葉の神は「言霊」であり、文字の神は「文字霊」であり、数の神は「数霊」である。そう、神は3人いる。「聖書」の絶対神は3人、「絶対三神」である。神道の呪術的な対応では、御父エル・エルヨーンが「数」、御子イエス・キリストが「文字」、そして聖霊ルーハが「言葉」であり、それぞれ数霊と文字霊と言霊に相当する。

 

 『新約聖書』には、イエス・キリストに対する冒涜は許されるが、聖霊に対する冒涜は許さないと記されている。これは聖霊=ルーハは言葉の神で、恐るべき言霊になるからだ。まさに呪術である。聖霊を冒涜すれば、言葉という呪術をもって神の呪いを受けることになるのだ。だからこそ日本人は言霊:コトダマを畏れるのである。

 

<つづく>