「穢れ」と「言霊」の謎:その61

 

 日本人は困った際に、すぐに「あぁ、神様、仏様」と神と仏を同列にして願い事をしたりする。いわゆる敬虔なるキリスト教徒にとっても、真面目な仏教徒にとっても「なんて罰当たりな」と思える表現である。しかし、かの清少納言も「枕草子」に「この年になると仏の罰も怖くない」なんて書いているのだ(笑)。恐ろしい民族であるが、さらに昭和の昔は「神様、仏様、稲尾様」なんていうことすら平気で言ってしまっていた。いくら西鉄ライオンズの鉄腕・稲尾がすごかろうと、神と仏と人間を並べてしまうということをしてしまうのは日本人くらいだろう。

 

 英語で言えば「Oh, My God and Budda !!」みたいなもので、いったいお前は何教徒なんだと外国人に突っ込まれそうな表現である。しかし、今でも日本人は「神様、仏様」をやめない。椎名林檎も曲にして歌っているくらいだ(笑)。しかし、日本人は頭では理解はしていないが、DNAでは理解しているのである。神と仏は同一であると。但し、この場合の「仏」とはブッダのことではなく、ブッダを導いた霊の存在=ヤハウェであり、ブッダが入滅してから500年後に現れる現人神イエス・キリストのことである。

 

 

 さらに日本では、漫画やアニメの世界はもっと恐ろしい。『聖☆おにいさん』である。中村光が描いた世にも恐ろしい漫画で、世紀末を無事に越えた「目覚めた人ブッダ」と「神の子イエス」の二人が、東京・立川でアパートをシェアし、下界でバカンスを過ごしてしまうという恐ろしい罰当たりな漫画だ(笑)。近所のおばあちゃんのように、細かいお金を気にするブッダと衝動買いが多いイエスという、“最聖”コンビの立川デイズを描いた作品だが、このアニメをイタリアやスリランカあたりで放送したら、国交断絶ものだろう(笑)。さすが神をも恐れぬ日本人である。

 

 しかし、これは日本だから描けるのであり、許されるのである。まさに宗教が戦争を呼ぶ海外からすれば、驚異の漫画である。

 

 

◆唱えてはならない神の「名前」

 

 万物を創造した創造神には「名前」がある。「ヤハウェ」である、だが、これはあくまでも「呼び名」であり、ユダヤ教において、創造神の名前を口にすることはタブーである。「十戒」のひとつに「神の名前をみだらに唱えてはならない」とあるからだ。よってユダヤ教徒たちは、代わりに「アドナイ:主」という普通名詞を使っている。

 

 この「アドナイ」(אֲדֹנַי ['Ăḏōnay] ADONAI)という語には、「主 :Lord」という字が当てられる。「Lord」はアメリカのゴスペルシンガーなどが「Oh, Lord」と神への祈りの言葉として頻繁に登場する。「アドナイ」とは即ち「ヤハウェ」を婉曲に指す意味のほか、単数形の「アドニ」(אֲדֹנִ֥י)という形で「私の御主人様 :My Master」即ち奴隷の雇用主など「主」一般を指す意味がある。要は「主」とは、宗教上の用語なのである。だが、日本では「主」を「ヌシ、しゅ」と読む。ここに深い意味が隠されている。


 

 「古事記」や「日本書紀」をはじめとする日本神話及び神道において、「主:ぬし」とは神々や人物の名称に伴われる。それは天地開闢に現れる「天之御中主神:あめのみなかぬしのかみ」、出雲の「大国主神:おおくにぬしのかみ」、大国主の子である「事代主神:ことしろぬしのかみ」、「天之甕主神:あめのみかぬしのかみ」、「大物主神:おおものぬしのかみ」、「一言主神:ひとことぬしのかみ」など、「主:ぬし」を使った神の名は多数ある。

 

 一方、英語圏では、ジェイムズ王訳等の多くのキリスト教徒の聖書において、ヘブライ語の名前 「יהוה:ヤハウェ」 (ラテン文字化: YHWH)は、 全部大文字で表現する「LORD(オールキャップス)」または「L」以外の 「ORD」の部分を小さく大文字で表記するスモールキャピタルが当てられている。英語での最初期の用法は、「七十人訳聖書」及び声に出して読み上げる時に יהוה(YHWH)の代わりに口語のヘブライ語の言葉「 אֲדֹנָי / יְהֹוָה / Adonai / アドナイ」(「私の主」を意味する)を読み上げるユダヤ教徒の実践に従っている。この事情について、ニュー・アメリカン・スタンダード聖書  は、次のように説明している。

 「まだもうひとつの名前がある。特に彼の格別で正式な名前として当てられている。それは、神聖な4文字YHWH (יהוה)(出エジプト記 3:14 と イザヤ書 42:8)。この名前は、ユダヤ教徒に発音されてこなかった。偉大で不可侵の神聖な名前であることへの畏怖があるためである。このようにして、それは一貫してLord(スモールキャピタル)と英語訳されてきた。YHWH (יהוה) の英語訳の唯一の例外は、その主の言葉のすぐ間近にあり、それは、Adonai(אֲדֹנָי / יְהֹוָה / アドナイ)である。その場合、それは混乱を避けるため規則的にGod(スモールキャピタル)と英語訳される。」

 

 「偉大で不可侵の神聖な名前であることへの畏怖があるため、ユダヤ教徒に発音されてこなかった」とあるように、ユダヤ教徒はあまりにも徹底したがゆえ、本来の名前を忘れてしまったのである。しかし、ユダヤ教徒たちは創造神の読み方は忘れてしまったが、創造神の名前は『旧約聖書』に記されている。燃える柴に創造神が顕現した時、大預言者モーセは名前を直接、訊ねている。


 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。わたしはあるという方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(「出エジプト記」第3章13−14節)

 

 この「わたしはある」とは「ありてある者」とも訳される。創造神が、自らを指して称した名前である。ヘブライ語では「エヘイエイ・エシャル・エヘイエイ:EHYH ESHR EHYH」といい、「エヘイエイ:EHYH」は文法的に一人称であり、他人が呼ぶ場合には三人称にする必要がある。これが「YHYH」で、神聖なる固有名詞として転訛した結果、「YHWH」となったのである。これを「テトラグラマトン:神聖四文字」と呼ぶ。

 

 

 だが、ユダヤ教徒たちは「アドナイ:ADNY」と読み替えてきた。その結果、なんと自分たちの神の名の正式な発音を忘れてしまったのである!中世ヨーロッパにおいて、キリスト教徒たちは何かと本来の発音を復元しようとし、苦肉の策として、YHWHにアドナイの母音を組み込んだ。そして、作られたのが「エホバ」である。新興宗教の「エホバの証人」の人たちは「エホバ神」と呼ぶが、そもそも「エホバ:YEHOWAH / JEHOVA」は間違いであり、苦し紛れの造語だったのである。自分たちの神の呼び名を忘れてしまった民族のもとに、絶対神が降臨するはずはないのだ。だからこそ、筆者は現在のイスラエルを支配する白人のユダヤ教徒になりすました人間たちを「偽ユダヤ人」と呼んでいる。

 

 

◆創造神「ヤハウェ:YAHWEH」の意味と本名

 

 ヤハウェとは「ありてある者」という意味であるが、20世紀最高の哲学者マルティン・ハイデッガーが言うように「ある」ことは証明できない。「AがBである」はわかるが、「Aがある」は実証できないのだ。見方を変えると「ありてある者」とは「あるからあるのだ」という問答で、赤塚不二夫の名ゼリフ「バカボンのパパはパパだからパパなのだ」という循環論法のようなものだ(笑)。

 

 

 いったい創造神は「ある」を通じて何をいいたかったのだろうか。モーセやイスラエル人に名前を聞かれたら、ただ「ある」だけで良かったはずだ。もしかしたら、自分の名前を教えることに難を示した、本名を言いたくなかったのではないか。「源氏物語」ではないが、本名を教えると呪詛の対象になる。まぁ創造神に呪詛をかける人間などいないはずだが、これが「神 vs 悪魔」の戦いとなったら話は別だ。なにせ、日本においても「貴船神社」のように悪(牛鬼)を地の底から呼び出して他人を呪詛したりするくらいだ。

 

 つまり、創造神の本名は別にある、ということだ。が、それはあくまでも秘密なのである。ユダヤ教徒は発音するだけでも憚れるのに、本名を文字にすることなどできない。よって、そもそも名前そのものが創造神だと考えられるようになり、ヘブライ語で名前を表す文字「シェム:SHEM」に定冠詞を付けた。「ザ・名前」=「ハ・シェム:HSHEM」は、ずばり創造神を意味するのである。

 

 『旧約聖書』を聖典とするイスラム教では、創造神ヤハウェを唯一神「アラー:アッラーフ」と呼ぶ。アラビア語で神を意味する「イラーフ」に定冠詞「アル」を付けた「ザ・神」が「アル・イラーフ」、すなわち「アラー」だ。イラーフはヘブライ語の「エロハ:ELH」、もしくは「エル:EL」のこと。尊敬複数形では「エロヒム:ELHYM」と表記される。

 

「アラー:アッラーフ」

 

 これは神の固有名詞ではなく、もちろん本名でもない。厳格な唯一神教であるイスラム教からすれば、創造神に本名はないのだ。だが、「名前はない」ということで、敢えて創造神に本名を名付けるとしたら、それは「無名」となる。哲学の話でないし、禅問答でもない。要は「名無しの権兵衛」ということなのだ。名がない以上、呪いがかかることはない。全ての呪術から解放された唯一の存在である。なにせ、個々には名前を持たない漢波羅秘密組織・八咫烏も、集合体としては「八咫烏」という呼称はあり、「天狗」や「烏天狗」という別称で呼んだりする。個人名ではないにせよ、呼び名はあるのだ。

 

 中国の道教において「無名」とは「太極」のことである。中国武術の一派であり、東洋哲学(特に老子)の重要概念である「太極思想」を取り入れた拳法を「太極拳」という。筆者も小学校の時に独学でやってみたことがある。この太極拳の精義のことを「無名・無形」とする。「太極とは、陰陽の理に基づき無名を以て名とした、故に太極と言う」としている。明朝洪武七年(1374年)、始祖「卜耕」は、読書の余暇に、「陰陽開合運転周身の術を子孫に教えて以て消化飲食の理法となし」とあり、これは「太極」に基づく学問で故に「太極拳」と呼ぶ、としている。
 

 陰陽が未分化の状態である「太極」には名前すらない。名前のない太極に敢えて名前をつけた名前が「無名」なのである。無名は名前がないという意味だから、それは、もはや名前ではない。名前でない名前が「無名」なのである。まさに禅問答のような話だが、太極拳の精義のことを「無名・無形」とするのは、創造神ヤハウェには名がなく、姿も見えないからなのである。これはスピリチャルの話ではない。あくまでも「言霊」の究極の奥義である「名」の話である。

 

<つづく>