「穢れ」と「言霊」の謎:その60

 

 日本最初の総理大臣・伊藤博文は、幼少期から名前を変え続けた利助・利介・利輔・舜輔・俊輔・春輔と名を変え、慶応2(1866)〜慶応3(1867)年には「林 宇一」と名乗り、さらに明治元年には俊介となって、後に博文となった。江戸時代の武士よりも頻繁に名前を変えた理由は、伊藤が「志能便・備」、つまり忍者だったからだ。そして、伊藤は長州において、後の明治天皇となる南朝の末裔のお守り役であり、いわば南朝の末裔を北朝の暗殺者から守るための役割を担った一族の者だったのである。

 

若き日と政治家になった後の伊藤博文

 

 他人の恨みを買う可能性が高い仕事に就く人たちは、「名前」を隠す。本名を名乗らない。占い師、芸能人、著述家など、いろんな人達は本名を隠して、別の人格となって活動する。こうした人達に共通するのは、「言霊」を操る仕事だということだ。その言葉は相手を呪術で縛る。歌手の歌に感動して、ずっと忘れないフレーズになるということも、言霊の呪術なのである。日本の場合、いくら歌が上手くても売れないという方々がいるが、歌がうまいのと言霊の呪力が強いというのは同じではないからだ。皆さんも、ぜひ、影響を与えられた歌手や俳優のセリフなどを思い出してみるといい。

 

◆「本名」は隠す

 

 本名を明かすことは、相手に「魂」を委ねることである。今年のNHK大河ドラマの原作である『源氏物語』に見るように、女性が自分の名前を他人に教えることは、相手の想いを受け入れたことを意味した。現代でいえば、やっと口説き落としたキャバクラ嬢が、源氏名ではなく本名を教えてくれたのと同じだ(笑)。しかし、付き合いはじめて、本名を教え、住んでいる場所も教えたりすると、トラブル発生の原因になる。複数の男性と付き合っていることばバレたり、相手の男に奥さんがいあたりした場合、相手の男や奥さんがストーカーに変身したりするからだ。

 

 酷い場合は、自宅のドアに不倫の証拠写真をベタベタ貼られたり、「不倫女」「死ね」などと落書きされたり、犬の生首を置かれたりする(笑)。お隣の韓国の話ではなく、日本の話だ。こうした嫌がらせも、ある意味の呪詛である。いたずら電話だろうが、「死ね」というLINEが送られてくるのも呪術である。よって、呪いの藁人形や呪いの絵馬に限らず、相手に恨みを込めた呪詛を行う人は左道の黒魔術を行っていることとなり、いずれ皇祖神に滅ぼされることになる。これを自業自得という。

 

 

 平安時代に限らず、男性も本名を知られることを極度に恐れたが、逆に相手を支配するためには、名前を知る必要があった。ゆえに、決闘のシーンでは、必ず相手の名前を聞く。戦国時代でも、戦いは名乗りから始まった。名乗ったうえで、改めて命を懸けた殺し合いを開始したのである。昔の戦では、武将は「やあやあ我こそは○○の住人、○○なり!~により~参った」といった感じで自分の名前や出身地、主君の名前などを大音量で名乗ってから切りかかるというルールがあった。

 

 昔は武士の作法として広く行われており、「名乗りの口上」をしている最中は攻撃してはならないという暗黙のルールがああった。それを破ると卑怯者とされ、武士の名折れとされた。この名乗りにどんな役割があったのかといえば、一般的には大音量で自分の名前や出身地を名乗ってから戦うことで、戦場で誰が誰を討ち取ったのかを明らかにするという意味があった。討ち取った相手が大物であるほど多額の恩賞を与えられるため、ちゃんと自分が討ち取った証が必要だったということだ。

 

 しかし、これは下級武士の話で。大将は異なる。戦国時代、大将の側には必ず陰陽師がいたからだ。織田信長も徳川家康も、隣には六芒星の”しるし”を縫い込んだ半纏を身にまとった陰陽師がついており、戦況を占っていたのである。有名なのは「長篠の戦い」を描いた合戦図で、そこには六芒星をつけた陰陽師たちがいる。

 

「長篠の戦い」の陰陽師たち

 

 「名乗りの口上」とは、別の意味では「言挙げ」である。自分の名を名乗り、敵を打ち負かすということを宣言することで、それが実現するように「言挙げ」をしたということなのである。つまり、日本の戦とは、たとえ武器を持とうが持たまいが、常に呪術合戦だったのである。それは、「元寇」の時も、「太平洋戦争」の時もある意味で同じだった。「元寇」の時は、謎の白装束の一団が箱を持って筥崎宮に現れ、呪文を唱えたら元の船から火が出て、その後に大波がやってきて、元の大軍を滅ぼしてしまった。「太平洋戦争」の時、大本営は熱田神宮に対し、三種の神器の「草薙剣」をもってルーズベルト大統領を呪殺せよという命令を出している。要は最後は神頼みで、呪術戦争となるのである。

 

 「名前」がいつくもあるということでは、神道の神々もまた、いくつもの名前をもつ。物部氏の祖神「ニギハヤヒ命:饒速日命」は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と称した。この長い神名にある天照・国照彦・天火明・櫛玉・饒速日命はそれぞれ独立した「天照大神」「国照彦(スサノオ命)」「天火明命」「櫛甕玉大物主命」(くしみかたまおおものぬしのみこと)「饒速日命」という独立した神々になる。さらにこれらの神々には別名・別表記がいくつも存在する。

 

 別名の数だけ別のペルソナの神々が存在するが、実はすべて同一神なのである。これを元伊勢籠神社の故・海部光彦宮司は「多次元同時存在の法則」と飛鳥昭雄氏に明かしていた。神は時空を超えて存在する。名を変え、姿も変える。ある時は男だが、別の場所では女。老人にもあり子供にもなる。火になったり水になったり、雷にもなり風にもなる。神話は史実ではない。神々は分身を作り、独立した存在としてドラマを紡ぐが、その本質はひとつ。多くの神々を存在たらしめているのは、まさに「名前」なのである。

 

 

 神道では人間も死後、神様として祀られる。神様として改めて名前が与えられるのである。徳川家康は「東照大権現」で、豊臣秀吉は「豊国大明神」である。この誰でも神様になれてしまうという考え方は、欧米的な考えではカルトと考えられてしまう。よって、「英霊」が神として祀られる靖國神社はカルト宗教の神社だとされた。よって、戦後、国家神道を叩き潰すため、アメリカは意図的に死刑にして殺したA級戦犯たちを靖國神社に祀らせたのである。

 

 仏教でも死後、戒名が与えられる。死者として新たな存在になったからだ。戒名とは、一般に浄土の世界における仏弟子としての新しい名前(2文字)を指す。 位牌や墓石に刻まれる文字全体を戒名と呼ぶ場合もあるが、本来の戒名はこの2文字のみを指す。この「戒名」とは、仏教において、戒を守ることを誓った(受戒した)者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守る証として与えられるものだ。戒名の授与は、上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。

 

 

 仏教がインドから中国に伝わった際、それと共に戒名も伝わったとされている。但し、仏教受容のため、元々サンスクリット語やパーリ語であったインドの戒名を、中国語に翻訳する必要が生じ、竺法護や真諦といった、中国風の戒名に翻訳された。が、一説には、諡号や道号などの号制度の風習を援用して中国風の戒名が生まれたという説もある。もちろん、諡号や道号などの号制度を作ったのは、中国大陸にいたイスラエル人レビ族の末裔である。仏教自体、イエス・キリストの予型である。釈迦は王子で、イエスも王家ユダ族末裔だ。荒野で修行し、悪魔の誘いを断った話も同じ。そして、最も重要なのは「仏」の字である。

 

 「仏」は「亻+ム」で、「ム」は「私有」を表す。「私は有る」とモーセに言った絶対神ヤハウェの呼び名を漢字1字にすると「ム」となる。その「ム=絶対神ヤハウェ」が「人」として現れる、つまり現人神イエス・キリストが現れるとした世界こそ、釈迦が教えた仏教の正体である。だいたい釈迦の名は「ガウタマ・シッダールタ」で、パーリ語では「ゴータマ・シッダッタ」である。釈迦というのはあくまで漢字で表現されたものであって、本当の名は違うのである。

 

 伝統芸能の世界では、名前を「襲名」する。これは本連載のヤクザの世界の話の時にも書いたが、歌舞伎といえば「成田屋」である。十三代目「市川團十郎白猿」(いちかわだんじゅうろうはくえん)は、本名「堀越寶世」(ほりこしたかとし)が七代目・市川新之助を襲名した後、十一代目・市川海老蔵を経て、十三代目・市川團十郎白猿を襲名している。俳名は「栢筵」(はくえん)、「雷」(かみなり)、「寿海」(じゅかい)で、愛称は「海老さま」「海老ちゃん」である。だが、生まれた時の本名は「堀越孝俊」(ほりこし・たかとし)で、 2015年に「堀越宝世」に本名を改名している。要は市川團十郎は13人存在したことになるが、それぞれ別人ではあるが、團十郎というペルソナは一つなのである。

 

 

 実はこれ、天皇家も同じなのである。「大嘗祭」(だいじょうさい)を経て、天皇霊を宿すことによって、初めて天皇になる。初代・神武天皇から第126代・今上天皇に至るまで、みな「天皇陛下」としては一柱の「現人神」なのである。神道の最高神である天照大神の正体はイエス・キリストであると何百回も書いてきた。大嘗祭では天皇は天照大神と食事をし、これはイエス・キリストとの最後の晩餐を再現したものであり、四国の忌部氏の三木家が納める麻織物である「麁服」(あらたえ)という白装束を体に乗せ、絹織物である「繒服」(にぎたえ)を顔に乗せることで、磔刑で亡くなったイエス・キリストの死を、寝床から起きることで復活を再現し、天皇霊という名の聖霊を宿すことで、天皇は大祭司コーヘン・ハ・ガドールという預言者になるのである。

 

 世界にキリスト教徒は数多くいるが、本当のイエス・キリストの死と復活の儀式を継承しているのは大和民族だけである。なにせこの国の長である天皇陛下はモーセ直系の末裔であり、天皇祭祀を担うのはモーセの兄アロン直系の末裔の鴨族で、12使徒の組織から70人弟子の組織まである。現在のユダヤ教にもコーヘンはおり、偽ユダヤ人たちにもコーヘンという苗字を使うものがいるが、これは原始ユダヤ教のコーヘン・ハ・ガドールの末裔ではない。なにせ彼らは奥義を知らないのである。

 

 本当の仏教である密教が伝わっているのは真言宗のみ。もはやないのはイスラム教の祭祀のみと言いたいところだが、ムハンマドが神と呼んだイスラム教における全知全能の唯一神にて 天地万物の創造主「アッラー」とは創造神ヤハウェのこと。だからイスラム教の儀式はないにせよ、根本となる神への信仰は同じである。なにせ日本人は驚いたときには、意味も分からずに「あらー」という感嘆の言葉を述べるくらいだからだ。

 

<つづく>