「穢れ」と「言霊」の謎:その58

 

 新天皇が即位するのに必要な「大嘗祭」(だいじょうさい)とは、皇祖神・天照大神の預言者になるための儀式であり、天照大神から直接この国の支配者となることを許される天皇家の秘儀である。それは天照大神=イエス・キリストの「死と復活」を天皇自らが再現することである。その際、イエス・キリストが十字架で磔刑となることも再現される。それは、イエス・キリストの両腕と両足を貫いた「聖釘」を当て、金槌で叩く儀式である。

 

 さすがに現代の天皇は外交で海外の元首たちとも会うため、手足を釘で打ち抜かれることはないが、後醍醐天皇までは手のひらを「聖釘」で打ち抜いていた。それが四天王寺に残された「手印」である。手首は神だけに許された位置のため、後醍醐天皇までの歴代の天皇で、「大嘗祭」を行った天皇はみな、手のひらを伊勢内宮に保管されている「聖釘」で打ち抜かれた。後鳥羽上皇の手印も同様の跡が残っている。

 

四天王寺が保管する後醍醐天皇の「手印」

 

 大嘗祭を経ると、新天皇は「天皇陛下」という役職に就くが、それは「天皇=神」の言葉を、下々の者たちに述べ伝える役目を表す。天照大神の預言者「天皇陛下」となるのである。その「天皇陛下」となれるのは、大預言者モーセの血脈を継ぐ者であり、それを支えるのが大祭司アロンの末裔たる賀茂氏を中心とした神道の神職たちである。モーセはシナイ山で絶対神ヤハウェに召命されたとき、「神の名前」を尋ねている。

 

 モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(「出エジプト記」第3章13-14節)

 

 「わたしはある」というのは日本語だが、ユダヤ教徒は絶対神を「ヤハウェ」と呼ぶが、これはあくまでも「呼び名」であり、「名前」ではない。発音は「ヤー」である。日本では友人に挨拶する時、「やぁ」と声をかけ、山に昇っては」「ヤッホ~」と叫ぶ。それは「やまびこ」だという。漢字で書くと「山彦」で、  山の神または妖怪だとしているが、これは日本に渡来した物部氏たちが、山に向かって自分たちの神を「呼び名」で呼んだのである。

 

 

絶対神ヤハウェにまみえるモーセ

 

◆「神」という名前

 

 日本は神国である。古来より日本人は「神の道」を奉じてきた。古神道も神道も同じだが、神道には「八百万の神々」がいるとした。山の神、海の神、風の神、植物に動物、米粒の中にも神がいるとする。だから、昔はご飯を一粒でも残すと「食べ物を粗末にする者は、神様から罰を与えられる」として親から怒られた。そして亡くなった人もまた、神々として祀られる。

 

 アカデミズムでは「多神教」、この世の全てに神々が宿るという汎神論をもとに、神道とは「アミニズム」なる原始宗教で、あらゆるものに魂が宿っていると考える。その対極にあるのが「一神教」で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、みな創造主ヤハウェを唯一絶対神として崇拝する。「畏れ多い」として、その名前を口にすることをはばかり、アドナイ、ロード、アラーなどと称するが、全て同じ神である。創造主ヤハウェ以外に神はいない。

 

 

 一方は全てが神で、他方は神は唯一である。が、極限において両者は同義である。多神教を突き詰めた汎神論は、唯一神へ回帰する。逆もしかりで、唯一神を強調すればするほど、全ての神々は絶対神の別名か化身、もしくは悪魔や精霊の類に過ぎないと強弁することになる。あえて数学的な表現をするなら、0と1と∞(無限)である。無神論は0、唯一神は1、多神教及び汎神論は∞である。1を∞で割ることも、1を0で割ることもできないが、極限を求めれば、前者は0で後者は∞である。全ては1なる存在に掛かっている。初めに1があるのである。

 

 創造神は自らの呼び名を「ある」と言った。これはある意味で究極の「名」である。20世紀最高の哲学者とされたマルティン・ハイデッガーは「ある」とは何かという命題に対する答えを放棄し、人間を「現存在」という言葉をもって置き換え、時間と空間を論じたが、皮肉なことに、その「ある」という究極の実存をもって自称したのが創造主ヤハウェなのである。創造主ヤハウェがモーセに言った「わたしはある。わたしはあるという者だ」は英語では “ I am that I am” という表現になる。 すなわち、「ヤハウェ」というヘブライ語の神の呼び名は、英語で表現すると“Being”(存在)になる。B'zや故・ZARD、倉木麻衣の所属事務所だ(笑)。

 

 ヘブライ語で「ヤハウェ」とは「ありてある者=私は有る」を意味している。大預言者モーセに語ったのは「エヘイエイ・エシャル・エヘイエイ:EHYH ESHR EHYH」だが、この「エヘイエイ:EHYH」の三人称単数系が「ヤハウェ」で、神聖四文字「YHWH」で表記される。テキストだけだと分かり難いので、画像にしておく。

 

 

 だが、ユダヤ教徒は神の名を口にするのを禁忌としてきた。神聖四文字による聖文を「アドナイ」と言い換え、これを「主」としている。というのは「十戒」に記されている創造神ヤハウェとの約束にある「神の名をみだりに口にすることなかれ」を守っているからである。なぜ、そこまで「名前」にこだわるのか。理由はひとつ。名前に力があるからだ。

 

 日本では、神のことを「神様:かみさま」と敬称をつけて呼ぶが、あくまでも「神:かみ」というのは呼び名である。神の名前ではない。ヘブライ語で名前のことを「シェム:SHM」という。これに定冠詞を付けた「ハ・シェム:HSHM」は、ずばり「神」を意味する。つまり「究極の名前」とは「神」なのである。「神」とは名前、全ての名前の名付け元である。全てのモノに名を与えたのであるが、その人類の祖に「アダム」と名付けたのは創造神だからだ。「アダム」とは、赤土のことで、ヘブライ語で赤土のことを「アダマー」という。そこから最初の男に名をつけられたのが「アダム」である。

 

 

 「神」とは、つまりは森羅万象、あらゆるモノの名前の「名付け親」なのである。筆者も部下の子供の「名付け親」になったことがある。責任は重大であるが、筆者の場合は漢字分析から姓名判断をする師に教えを受けていたので、単に字画で名前をつけなかった。単に「字画が良い」とするのは坊さんで、聖書文字「漢字」に込められた意味を理解せず、子供にトンチンカンな名前をつけてはならない。名前は「呪」であるからだ。よって「神」という字を気軽に名前につけてはダメだ。

 

 「神」が付く名前・漢字一覧というサイトを見たら、なんと231件もある。これを罰当たりという。人気なのは神葉(しんば)、神楽(かぐら)、神月(かずき)、天神(てんしん)、神(じん、しん、あお)、龍神丸(りゅうじんまる)、神威 / 神武伊 / 神夢維(かむい)、大神(たいが)とかなりTVや漫画の影響を受けていそうな名前だ。さらに続く。神七 / 神奈(かんな)、神愛(かいと)、神蔵(かぐら)、優神(ゆうしん)、凰神(おうが)、神幸(こうゆき)、楓神(ふうじん)、神多郎(しんたろう)、神人(しんと)、啓神(けいしん)、鳴神(めいか)、神月(かつき)、神夜(かよ)、神凛(かりん)、神凪 / 神菜(かんな)、神鳴(きよな)、愛雛神(あすか)、星神(せいか)、瑠神(るか)、神子(みこ)、愛神(あいしん)、地神(じかん)、神助(じんすけ)・・・。

 

 いやはや恐ろしい国だ。神をも畏れぬとは、こういうことを言うのである!自分の子供に「神」の字を使ってしまおうなどと考えてはいけない。どう考えても名前負けするに決まっているからだ。さらに、その子供が犯罪者になったり、AV嬢なんかになったら終わりである。天罰だと思わねばいけない。

 


 

 では、そもそも「神」に「神」という名前を名付けたのは誰なのか?究極の話だ。が、ここで論理が破綻する。創造主ヤハウェは自分が何者かを認識できていたのか。もはや哲学の世界となってしまうが、すべてはひとつ、スピリチャルでいうところのワンネスならば、そもそも客観的な自己を認識できるはずもないはずだ。だが、その答えは日本にあるのだ。それは「體」という字にある。

 

 西洋では国のことを「国家」と表現するが、日本では「国体」、正確には「國體」(こくたい)と称した。国民体育大会の略ではない。「国家」というのは「国」という「家」と書く。よって「家」なのであり、その思想は建築にある。創造主ヤハウェは偉大な宇宙の建築者で、イエス・キリストも大工だった。だからこそ、フリーメーソンでは、曲尺とコンパスと「G」で創造神を表現する。「The Great Architect of the Universe」、偉大なる宇宙の建築家としている理由はここにある。目に見えない国という組織を家屋と見立てた。が、そのフリーメーソンの中のフリーメーソン、それも人類最古のフリーメーソン国家の日本人は、国を「カラダ」に見立てたのである。

 

 

 「体」という字は本来は「劣る」という意味で、英語の「ボディ」の意味で用いるのは間違いであり、正しくは「體」を用いるべきと漢和辞典には書かれている。同様に「国」という字も「國」とするのが本来で、古来、日本人は國を人体、すなわち人體に見立てたのである。

 

 「家屋」と「人體」、両者は決定的に異なる。無機質な建築物をいくら大きくしようとも、そこに「生命」は宿らないからだ。対する「人體」とは「生命の受け皿」である。個を超えた「體」があり、そこに霊と魂が宿るのだ。これを理解できなくば、創造主ヤハウェの叡智に至ることはない。スピリチャルの言うワンネスの矛盾を超える答えが、ここにあるのだ。何度も言うが、日本は神国である。創造主ヤハウェに祝福された神の国なのである。

 

 ヘブライ語で「神の民」は「ヤマト:YH AMHWT」=「大和」である。「ヤ」はヤハウェの短縮形、「民」を意味する女性名詞「ウマー:AMH」の複数形が「ウマト:AMHWT」。「民」という字は本来は「奴隷」を意味する。よって正確には「神の人々」で、意訳すれば「神に祝福された人々」である。筆者が「ヤ・ゥマト」と書き始めたのは、飛鳥昭雄氏の影響であるが、その日本=大和が、「創造神ヤハウェに祝福された国=神国」であることを証するのは「天皇陛下」である。

 

 

 「天皇陛下」は王ではない。中国やヨーロッパのような「皇帝」でもない。あくまでも「祭祀王」である。皇祖神・天照大神への祭祀を行う者たちの長であり、絶対神の大祭司にして、聖霊を宿した預言者なのである。思い出していただきたい。「聖霊」とは「言霊」のことで、「言葉の神」である。その「言葉の神」を宿している存在だからこそ、天皇陛下の「御言葉」とは「神の言葉」となるのである。だからこそ、天皇陛下は軽々しい発言はできないのである。

 

<つづく>