「穢れ」と「言霊」の謎:その57

 

 

 「言の葉:ことのは」という美しい日本語がある。秦基博の曲名や自然食品を扱うカフェのことではない。新海誠監督のアニメには『言の葉の庭』という作品もある。「言の葉」という言葉を調べると、以下のように書かれている。

 

 1 ことば。言語。 「同じう言ふことのはも、いみじう尊し」〈源氏物語〉

           [訳] 声をそろえて言うことばも、たいへん尊い。
 2 歌。和歌。 「やまとうたは、人の心をたねとして、よろづの—とぞなれりける」〈古今集・仮名序〉

           [訳] 和歌は、人の心をもととして、たくさんの言葉(=歌)となったものである。

 

 「ことのは」とは「言葉」の語源で、「言」と「事」は同じ意味である。「ことば」 として発せられた「こと」は事実にもなり得る重いものだったので、言った「こと」でも事実を伴わない軽い意味をもたせようと「端」を加えて「言の端」「ことば」になったと考えられている。

 「ことのは」とは上代東国方言で「言葉、人のうわさ」を意味する言葉だが、本来は「ことのへ」である。「へ」とは「神」を表すヘブライ語で、「絶対神ヤハウェ」のことである。ならば、「ことのへ」とは「ことの神」「ことの絶対神」という意味になり、要は「言葉の神」となる。これはどういうことなのか。古の日本人は言葉には「呪力」が宿っていると考えた。言葉は「霊」である。「言霊」を「ことだま」と読むことからも「魂」を意識しているのが分かる。つまり、正しくは言葉には霊と魂=「霊魂」が宿っているということなのだ!

 

 

 

「霊」と「魂」とは別のものである


 とかく日本人は「霊魂」(れいこん)という言葉を口にするが、そのくせ霊と魂の違いというものを説明できない。霊能者や占い師、スピリチュアルリストを自称する人たちに「霊と魂」の違いは何かと聞いても、きっとまともな答えは返ってこないだろう。特にスピリチュア系の方の本やブログには「霊は死んだ人の霊で、魂は純粋な光」などと勝手なイメージが書かれているが、どうも個人のイメージ表現にとどまっている。つまり「分からない」のである。

 

 「一球入魂」とはいっても「一球入霊」とはいわない。「魂を込めて…」とは言うが、「霊をこめて…」などと言ったら危険な人だと思われてしまうかもしれない。「心霊写真」とはいっても「心魂写真」とはいわない。霊と魂は全く別の概念なのである。霊は写真に写る。つまり、霊には「形」があるということだ。これに対して魂には形はない「霊体」という言葉があるように、霊は「体」である。肉体と同様、生物としての形があるが、魂には形はない。

 

 

 結論からいえば「幽霊」というのはプラズマである。電磁波である。だが、そんなことは子どもの時は知らなかったから、幽霊という存在は怖いものだった。特に筆者が子供の頃には中岡俊哉氏の「恐怖の心霊写真集」という本が抜群に怖かった。なにせ全て本物の心霊写真だ。特に背景のストーリーなんかを読むと、海に入ると脚を引っ張られるとか、墓場にいくのはやめようとか、色々と考えつつも怖いもの見たさで、ついつい都内の心霊スポットを訪れたりしたものだ。

 

 ここにまた一つ謎がある。なんで「霊写真」と言わずに「心霊写真」というのか。「心の霊」ということなのか「心=霊」ということなのだろうか。「心霊写真」とは英語では「spirit photography、ghost photography」となるが、「霊、エクトプラズム、死神、神仏などが写りこんでいると主張される写真のこと」とされている。この「霊、エクトプラズム」は分かるが、「死神」なんて写真に映るのだろうか。というか、それ以前に「死神」とは悪魔ではなく「神」であり、カッバーラでいえば「亡くなったイエス・キリスト」のことで、神霊ヤハウェの状態である。絶対神ヤハウェが写真に写るなんてはずはない。よって神や仏が映るなんていうのは昔も今もフェイクであり、「聖母マリア」が写ったなどという話は大概が偽物である。

 

 また、写るはずの被写体の一部あるいは全部が写っていないものなども心霊写真のカテゴリーに入れられる場合がある。こちらの場合は、体の欠けている部分の病気などに気をつけなさいというメッセージだとされる場合が多い。問題は霊が写り込んでしまう場合である。日本語では「幽霊写真」「霊感写真」などさまざまな呼称があったが、1970年代半ばのオカルトブーム期において、「心霊写真」の名称で定着した。この頃に子供時代を過ごした筆者などは、中岡俊哉の心霊写真集、つのだじろうの漫画「うしろの百太郎」や梅津かずおの恐怖漫画などに恐れおののいたものだ。

 

 

 霊は一定の質量をもった存在である。27グラムといわれるそのプラズマが霊体と呼ばれるものだ。霊体やら火の玉が墓場にいるのはなんとなく理解できるが、近くの公園にいたり、壁の中から出てくると、やはり怖い。しかしながら、筆者は一度も幽霊を見たことはない。今から20年以上前に、怪談集の『新耳袋』のイベントを著者の中山市朗氏を呼んで深夜に行ったことがある。その時に会場に出たらしく、客のざわめきが止まらないため灯を明るくしたところ、見えていた人たちが胸をなでおろしていた。

 

 だが、その日のイベントに来ていたが、先にタクシーで帰ってしまったメディアファクトリーの女性担当者が、どうやらその女の霊を連れて帰ってしまった(笑)。これは後日談として『新耳袋』に掲載されている。『新耳袋』というのは全部取材したものを載せているから「オチ」がない。それがたまらなく怖かったりする。恐ろしい顔をした女の幽霊を連れて帰ってしまった担当の女性は、タクシーを降りるまで振り返れなかったと言っていた。なにせ運転手が「目が潰れるから、絶対に振り返ったらダメですよ、お客さん」と言ってたらしい(笑)。運転手もきっとたまげたに違いない。

 

 この「たまげた」という表現であるが、これは「魂が消えた」という意味である。といっても意識が一瞬飛んだ状態のこと。つまり、魂とは「自意識」であり、いうなれば「自我」のことである。自我や意識がなくなっても、肉体が存在するように、霊という体も存在し続ける。「言霊」という文字を「ことだま」と読んだ裏側には、2つの意味が込められている。一つは「言葉は霊体」であり、もう一つは「言葉は自我」である。前者の意味について、『新約聖書』には、有名な一節がある。

 

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」

 (「ヨハネによる福音書」第1章1節)

 

 

 ここで「言:ことば」と訳されているのは、ギリシャ語の「ロゴス」である。新共同訳聖書では、言には「ことば」というフリガナが付されている。「言葉」である。読めばわかるように、言葉は神だと書いてある。しかも、言葉の神は神とともにあったとある。つまり、「言葉の神」と「神」は別の存在として語られているのである!

 

 あたかも神と言葉の神という別の存在がいるような表現である。結論からいえば、そのとおりである。少なくとも、神は二人いる。絶対神のほかに「言葉の神」がいる。いったい、それは誰か?日本人なら分かるはずだ。「言霊」である!

 

 言霊とは、すなわち「言葉の霊」なのである。この世には言葉の霊体が存在し、これを『新訳聖書』では神であると称している。正体はクリスチャンが口にする「御父と御子と聖霊」の中の「聖霊」である。カトリックの教義では「三位一体説」により、普遍なる父なる神の御霊であると解釈され、ロシア正教では聖霊ではなく「聖神」と表記される。霊であるからして、れっきとした「體」(からだ)をもった存在である。このことを「ヨハネによる福音書」では冒頭で宣言しているのである。

 

 漢字では「カラダ」のことを「體」とも書く。ここにこそヒントが隠されているのだ。つまり、「言霊とは聖霊」なのであり、れっきとした霊の體をもった神なのである。肉体はないので、幽霊のように憑依もでき、3次元空間に縛られることもない。時空を超えて複数の人間に入ることもできれば、逆に抜けることもあるのだ。絶対神からの預言、すなわち御神託を述べ伝える時には、必ず聖霊の力を借りる必要があるのだ。そして、その「聖霊」が降りてくる存在、それが「天皇陛下」なのである!

 

 

 新天皇が即位した後に行われる天皇家の秘儀は「大嘗祭」(だいじょうさい)である。大嘗祭を経ると、新天皇は「天皇陛下」という役職に就く。天照大神と天皇が共食し、「真床覆衾」(まどこおぶすま)に横たわる。その時には白い麻の「死装束」の「麁服」(あらたえ)を體にかけ、白絹織り物の「繒服」(にぎたえ)で顔を覆う。ここで、人間・天皇は一度死ぬ。だが、その際、天皇霊を身に宿すといわれ、その後に起き上がる。死から蘇るのだ。そして天照大神の預言者「天皇陛下」として復活するのである。

 

 全てはイエス・キリストの死と復活を再現している。神との共食は「最後の晩餐」の再現である。つまり、最後の晩餐から磔刑死、3日後の復活までを再現することで、そこに「神の霊」が降りてくる。イエス・キリストの霊、つまり神霊ヤハウェが新天皇の元に降りてくることで、大和の国を支配する権能を与える。だが、それだけではない。「聖霊」が降りてくるのである!なんために聖霊が降りてくるのか。新天皇の體の中に宿るためである。言霊の神が新天皇に宿ったとき、新天皇は「天照大神」の「コトダマ」を下ろせる預言者・天皇陛下となるのである!これこそが「大嘗祭」の奥義なのである!

 

 では、もう一つのコトダマはどうか。霊ではなく「魂のことだま」、つまり「言魂」である。こちらは神ではない。呪文に近いものだ。言葉が心理的に与える影響を期待している。現代の心理学でいうところの睡眠効果=催眠術みたいなもので、相手を睡眠状態にすれば、意のままに操ることができる。最近はこれは一般的には「メンタリズム」という言葉で語られている。苫米地英人博士やメンタリストDaigoがよく使っている言葉だ。

 

 それぞれの魂には必ず「名前」がある。名前がすべてであるといっていい。だからこそ、古代は自分の本名を知られることは命を奪われるに等しいことだったのである。ゆえに霊能者や占い師、呪術者たちは、本名を明かすことを嫌う。偉そうな名前をつけたがるし、へんてこりんなカタカナネームを名乗ったりする。世に出る人たちは、常に芸名やペンネーム、偽名を使い、個人情報たる生年月日と住所を隠す。姓名をロンダリングする在日コリアンは別だが、在日の芸能人がこぞってカタカナネームやローマ字ネームにするのもある意味では同じことだ。

 

 もし、それが知られてしまえば、たやすく呪いを掛けられてしまうからだ。よって、霊能者や呪術者でなくとも古の日本人は決して本名を明かさなかったのである。だからこそ、幼名から元服した後の名、大人になってからも名前を変え、死んだ後にも「諱(いみな)」や「戒名(かいみょう)」を付け、別の人格に変えたのである。なぜなら、死んだ後も呪われることがあるからだ。死んだ後は関係ないなんて思ってはダメだ。藤原不比等のように子孫が呪われることになるからだ。

 

 

 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(新改訳改訂第3版)

 

 神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。(新共同訳)


 2つの訳語が異なっている。新改訳では「たましいと霊」「神に対して弁明をする」だが、新共同訳では「精神と霊」「神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べる」である。『聖書』では、「魂と霊」とは異なるものだと最初から伝えていたのであり、その『聖書』の民である大和民族は最初からそれを理解していたのである。それが「言霊:ことだま」という言葉だったのである!

 

<つづく>