「穢れ」と「言霊」の謎:その55
 


 広義の「非人」とは、犬神人(いぬじにん)・墓守・河原者・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼・八瀬童子、等々の生業からくる総称とあった。京都「祇園社」(八坂神社)に属した下級神官のことを「犬神人」とするのは、「犬=狗」で、狗とは「天狗」で八咫烏のこと。天狗の神というのなら、それは天照大神=イエス・キリスト。つまり、八咫烏の配下の者となった忌部氏のこととなる。なにせ疫病を退散させた祇園会(ぎおんえ)を行ってきた八坂神社で下級であっても神官で、「神人」に順ずる者である。境内や天皇の御幸路の死穢の清掃、さらに葬送・埋葬などに従事したのだ。普通の人間は、葬送・埋葬は行えず、天皇の御幸路の死穢の清掃もやってもならず、2000年前のイエスの遺骸を片付けた者たちの末裔が忌部氏だからだ。

 

 「いやいや、八咫烏はもともと忌部氏じゃないですか」と言われそうだが、忌部氏の中でも左道の闇の呪術を使った者たちがいた。風水の話のところでも書いたが、敵とする人物の墓に呪術で攻撃して、子孫たちを呪う「陰宅」という風水があり、藤原不比等の墓への呪いをかけた者たちには忌部氏がいた。藤原氏=秦氏の預言者で、古代日本を封印した不比等を呪った物部氏たちは多く存在したが、陰宅風水に加担した忌部氏たちは、秦氏の呪術者たちに封印されることになった。それは現在も続いている。

 

 さらに、「犬神人」で気になる点は「祇園社の本所である延暦寺の兵卒となることもあった」とされていることだ。忌部氏なら「兵隊」にはならない。だが、延暦寺の兵になったのならば、それは「物部氏」となる。物部氏は元来、大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であり、有力軍事氏族へと成長していったとされている。物部氏の職掌について、本位田菊士は「屯倉の設置と管理」「軍事と外交」「医療と呪術」「狩猟・飼育と食物供献儀礼」「殯儀礼」を挙げている。そして、物部氏の総社である奈良県の「石上神宮」(いそのかみじんぐう)は、物部氏滅亡後は大和朝廷の武器保管庫だったと伝えられており、祀られている御神宝は「七支刀」(しちしとう)である。

 


物部氏の総社「石上神宮」と神宝「七支刀」

 筆者はこれまで何度も被差別部落の民とは物部氏だと書いてきたが、なんで彼らは「物部」と名乗ったのか。実は「物部」となったのは後の話では、かれらは最初から「部」の民ではなかった。そこには「言霊」の呪術が関係している。


◆「物部」と「石上」という姓

 

 現在、「物部」を名乗る人は非常に少ない。また「物部」を名乗る神社も少ない。「物部」という地名は全国にいくつかはあるが、物部氏が古代日本で最大の豪族だったのならば、もっといっぱい「物部」の名が付く人や場所があってもおかしくはない。実際、「物部村:ものべむら」という地名が残っているのは、全国に5箇所しかない。栃木県芳賀郡 の現・真岡市、滋賀県栗太郡の現・守山市、京都府何鹿郡の現・綾部市、兵庫県津名郡の現・洲本市、高知県香美郡の現・香美市の5箇所である。

 京都府の綾部市は出口ナオ・出口王仁三郎による「大本」発祥の地である。高知県の香美市の物部村は、名称自体ができたのは昭和31年と新しく、明治に入ってからできた上韮生(かみにろう)村と槇山村の2つの村が昭和31年合併して物部村となり現在に至っているが、起源は平安時代以前といわれ、平家落人の子孫がこの地方の豪族として栄えたとされている。物部村全体は奥物部県立公園、東北端の山岳渓谷地域は剣山国定公園である。実はこの地域は「物部」だらけである。町名も物部である。

 

 

 

 土佐国物部村だったこの地に伝承される陰陽道・民間信仰に「いざなぎ流」がある。この「いざなぎ流」は、土佐国で独自に発展した陰陽道・修験道・仏教・神道などが混淆して成立した民間信仰とされるが、これは物部氏が伝えてきた呪術である。伝承によれば、天竺の「いざなぎ大王」から伝授された24種の方術に基づくものとされ、法具は無く、儀式の都度に定式の和紙の切り紙(御幣)を使う。民間信仰だが、祭祀の「祝詞」「呪文」は体系化されており、定式的に伝承されている。

 

 「いざなぎ流」の祭儀は「太夫」と呼ばれる神職によって執り行われるが、太夫は家元制度や世襲でもなく、特定の教団組織もなく、男女の性別も問わないという珍しいもので、地域の中の適格者と認められた人物が膨大な「いざなぎ流」の祭文と祭礼の様式を伝承するという。中世の京都で発展した陰陽師の家元である土御門家(安倍晴明の末裔)や賀茂朝臣氏(賀茂氏の末裔)とは歴史的な直接の関連性が確認されない状況が長らく続いたが、近年になって物部村の民家から土御門家による免許状が発見されたことで、江戸時代には土御門家から地方で独自発展した陰陽道の流れを汲む信仰と公認され、太夫も地方の民間陰陽師として認可されていた事は明らかとなっている。

 

 但し、土御門家から公認されたというのは後の話で、それまでは「物部流」だったということで、逆に考えれば、勝手に呪術を行っていた物部氏の末裔たちを、安倍晴明の末裔の陰陽道で封印をしたということである。だからこそ陰陽道、神道の影響があるのである。仏教がどう影響しているのかは分からないが、修験道が入っているのならば、もちろん物部氏で古神道となる。「いざなぎ」とは、いざなぎ流の起源を物語る「いざなぎ祭文」に登場する「いざなぎ様(大神)」に由来するという。その祭文には、日本に生まれ経文の修行を始めた占い上手の「天中姫宮」(てんちゅうひめみや)が人を救うための祈祷(呪術)を求めて天竺にわたり、「いざなぎ大神」から人形祈祷や弓祈祷などの祈祷法を習い日本に伝えた、ということが語られている。

 

 
「いざなぎ流」の人形祈祷


 「いざなぎ流」は宗教とはいえ、統括するような組織はなく、「太夫」がさまざまな知識を習得し管理しており、世襲制ではなく、なりたいものが師匠に弟子入りをして伝授してもらうという形式をとっている。但し、一人前の太夫である証である「許し」をもらうまでに10年はかかると言われている。よって太夫は普段は他の住民と同様に、林業や農業に従事し、依頼があると出かけていくのだという。この太夫の役割は4つあり、氏神や家の「神祭り」、病気治しの「病人祈祷」、弓を叩いて神憑りし託宣(占い)をする「祈祷」、山の神や水神をなだめ、自然災害を防ぐ「鎮め」がある。

 

 「いざなぎ流」は法具は無いが、儀式の都度に定式の和紙の切り紙(御幣)を使うのが特徴である。「切り紙」という表記にはなってはいるが、「切神」ということだ。これは「切り絵」と同じで、和紙で「神の姿」を作るということだ。いざなぎ流の「人形祈祷」とは、紙でその度ごとに御神体を作ってしまう呪術で、御神体がないのはそのためなのである。その意味では、「切り絵」をする芸人や落語家というのは、「いざなぎ流」の流れを組むこととなり、つまり物部氏となる。


 

 本筋の「物部」の話に戻るが、684年、天武天皇による八色の姓の改革の時に、連(むらじ)の姓(かばね)から朝臣(あそん)姓へ改めるものがあった。686年(朱鳥元年)までに「物部氏」から改めた「石上氏」が本宗家の地位を得たとなっており、大和国山辺郡石上郷付近を本拠にしていた集団と見られている。「石上」とは「いそのかみ」だが、「いしがみ」とよむと「石神」となり、秦氏が「頑固者で石頭」と蔑んだ物部氏の神という意味となる。つまり、「石上」とは蔑称なのであり、秦氏の「言霊」による物部氏の封印となる。

 石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られている。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。だが、石上氏は宅嗣の死後は公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退する。つまり、桓武天皇による平安遷都以降、急速に力を失ったことを示しており、表舞台から物部氏という名前も石上氏とう姓も消えていったのである。ちなみに人気女優の
「石原さとみ」の本名は「石神国子」(いしがみくにこ)である。そう、物部氏である。物部氏が蔑まれた「芸能」=「河原者」とされて以来、この国の芸能者には物部氏が多いのは変わらないのである。

 

石原さとみ(石神国子)と石上神宮

 

 「石原さとみは物部氏である」などと書いているのは筆者だけだが、「石神国子という名前は池田大作がつけた」「石原さとみは在日だ」などという噂がネット上には流れている。池田大作が命名したのかどうかは知らないが、大切なのは「石神」という姓字なのである。「石上神宮」が「いそのかみ」という意味はもう一つあり、それは「磯の神」ということだ。物部氏も「部民」だが、「磯部」(イソベ)という一族がいる。「磯部」がつく地名は福島県の相馬市、茨城県の古河市、つくば市、桜川市、栃木県下野市、群馬県安中市、千葉県成田市、神奈川県相模原市と関東に多い。

 

 「磯部氏」とは、磯部を管掌した氏族で、その出自には複数の系統があるとされる。上野国では、群馬県高崎市の金井沢碑に見える礒部君身麻呂や、『続日本紀』天平神護2年5月条にみえる上野国甘楽郡人の外大初位下・礒部牛麻呂などがいる。名前に「牛」を入れている時点で物部氏だと分かる。また、大和国では、『新撰姓氏録』大和国神別において「久斯比賀多命」(くしひかたのみこと)の後裔として「石辺公」が挙げられている。この「久斯比賀多命」とは何者なのか。

 

 『古事記』によると、大物主神は陶津耳命の娘・活玉依毘売と結婚して、「櫛御方命」(くしみかたのみこと)をもうけたとある。 この櫛御方命の子が飯肩巣見命、その子が建甕槌命(鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神という)で、 その子が意富多多泥古、『日本書紀』では「大田田根子」である。大田田根子は、崇神天皇の御代に「三輪山」の神主となった。もちろん三輪山は物部氏の聖地である。三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』に、天事代籤入彦命(事代主神)と大陶祇命の女、活玉依比売命の子、 天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)(一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)とあり、 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄で、 『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている。

 

 大神氏(おおが)は石上の神官で物部氏であるからいいが、賀茂氏の祖であり石辺公の祖でもあるというのだ。石辺公とは三輪氏族で、物部氏である。「石辺」は「石部」でもあり、「磯部」でもある。「磯」というのは「石や岩の多い波打ちぎわ」のことである。そして、この「磯」の名がついた重要な場所がある。それは隠された伊勢本宮である「伊雑宮」のある磯部である。ここは内宮・外宮が鎮座するより前からあった物部系の社であり、すぐ側には「石神」がある。さらに京丹後の「磯」には加茂神社があり、室町時代には上賀茂神社の社領であったとされている。丹後には日本最古の社である「籠神社」が鎮座し、同じ与謝郡与謝野町岩屋には「阿知江磯部神社」もある。籠神社の神官一族の故・海部光彦宮司は「海部氏は鴨族です」と言っていた。だから鴨主命が入っているのである。お分かりだろう。天日方奇日方命とは物部氏の祖「徐福」のことであり饒速日命のことなのである。

 

 

 

 「物部氏」の呪術師たちはユダヤ密教たる「カッバーラ」を理解していたことで「河原者=カバラ者」とも呼ばれたが、物部氏という氏族を示す性格には、古代軍事氏族という一面がある。攻伐への参加が乏しいとして、その軍事的性格に疑問を呈する意見も存在するが、そうではない。軍事氏族としての力を封印されたのである。なぜか。戦争では大量の「血」が流れる。「血」は「穢れ」である。だから「血」を流させないようにし、さらに名前を「石上」として封印をしたのである。平安京を建立する3年前、桓武天皇は軍隊を廃棄したのだ。軍隊は「穢れ」を生み出すからで、以降、300年、日本には正式な軍隊は存在しなかったのである。

 

 もちろん、ユダヤ教徒・物部氏が「燔祭」と「血の儀式」をやめなかったことも同様の理由である。だが、そのことについては、これまで何度も書いてきた。問題は「物部:もののべ」という名称なのである。なんで「ものべ」ではなくて「もののべ」なのか。物部氏は武門の棟梁たる一族であった。「部:べ」とはヤマト王権制度の中の「部民制」(べみんせい)において「部」の民、つまり王権への従属・奉仕をする体制をいう。大和朝廷に従うまで、「物部氏」は「物氏」だったということなのである。「物部」と書くと「もののべ」「もののふ」とも読むが、「もののべ」とは「もののふ(物部)」の読みの一種とある。

 

 「武士」と書くと「ぶし/もののふ」よ読み、「武」の一字でも「もののふ」と読む。つまり、物部氏とは「もののふぶ氏」だったのである。しかし、何度命令しようが、原始キリスト教に改宗しない、穢れとなる「血の儀式」をやめなかった「もののふぶ氏」たちを、秦氏が「言霊の呪詛」で物部氏を封印したのである。この「言霊の呪詛」を「歯(葉)抜け」と呼ぶ。「歯」を抜かれたのである。反抗することを「歯向かう」というが、「歯」を抜かれたことで、歯向かう力を削がれたのである。つまり言霊の呪術によって「牙」を抜かれてしまったのである!

 

 

 「歯」という字の中には「米」が入っている。「氣=エネルギー」であるが、もともとは「人」を上下に2つで、上下の歯の並びのようである。金文と小篆は「止」の字の符号が増えて、読音を表示し、上下の犬歯の相互の嚙みあわせを表示している。「歯」という字には、以下のような意味がある。

 

 ●「獣の牙」
 ● 「ア」の形をした物、「ア」に似た働きをするもの」
 ● 「年齢(よわい)」「年」「数」「数える」「年齢を数える」

 

 そして、「歯」が抜けるとどうなるか。「サ行」や「タ行」など発音できない音が出るのだ。お分かりだろうか。「言葉=言霊」とならなくなるのだ!つまり呪術ができないようになるのである。実際に物部氏の「牙」を抜いたのではない。言霊の呪術によって「葉抜け」とされたのである。

 

 物部氏の王家であり神官一族だった「あまべ氏」とは、もともとは「天部氏」だったのだ。だが、物部一族の力を封印し、大和朝廷の従わせるため、「名」を変えさせたのである。「天部」を「海部」としたが、部民にされるまでは、もともとは「天氏:あまし」だったのである。そして「もののふぶ氏」だった「物部氏」とは、もともとは「物氏:ものし」だったのである。しかし、大和朝廷に従わせるための「部民」にさせられた。しかし、「海部」はまだしも「物部」には言うことを聞かずに大和朝廷に反抗する連中が耐えなかったのである。なにせ、神武天皇より先にこの国にきたという自負もある。イエス・キリストが誕生する前からこの国にいて、絶対神を信奉してきたのだ。なんでヤハウェじゃダメなんだ、という感じだったのだろう。

 

 彼らは秦氏と朝廷に従わずに逆らった。そして、最後に秦氏の呪術師たちは、再び「言霊の呪術」を行った。それは、彼らのことを蔑むため、力を削ぐため、呼び名を強制的に変えさせたのである。それが「もののべ」だったのである。

 

 「物」という字には、2つの意味がある。1つ目はもの。天地間にある有形無形の一切のもの。また、ひと。ひとがら。世間。」とあり、それは以下のような言葉として使われている。

「万物・人物・愚物・才物・俗物・生物・動物・植物・鉱物・  物質・物品・物件・物体・物量・物理・異物・好物・博物」

「財物・宝物・食物・臓物・書物・建物・御物・進物・献物・貨物・荷物・逸物・音物・供物・穀物・作物・腫物」

 そしてもう一つの意味は「ことがら」で、「事物・文物・禁物(きんもつ)」という言葉に使われる。

 

 この世のあらゆるモノには心が宿る、霊が宿るとされている。モノとは単なる物質ではない!だが、物氏に部をつけ「もののふぶ氏」として蔑み、さらにそこからもう1文字を抜いたのだ。それは「ふ」である。「ふ」を取ったらどうなるのか。「ふぬけ」になるのだ!「ふぬけ」とは「腑抜け=「はらわたを抜かれた」状態であり、つまりはいくじなし、まぬけ」だと蔑んだのである!これが「言霊の奥義」である。たった1文字を抜かしただけで、相手の呪術の力を削いでしまうのである。

 

<つづく>