「穢れ」と「言霊」の謎:その54
 


 葬儀屋、斎場、死体処理、屠畜、皮革、肉屋、清掃などの職を伝統的に担ってきた人たちは、インドと同様に日本でも「差別民」しして蔑まれてきた。インドのダリットは、最も不浄な存在とされてきたが、それは「死と血の穢れ」があるからで、日本と同じである。職業差別はもちろん、結婚差別もある。関東から上の東日本側には「被差別部落」はない。差別を受けたのは「部」の民として落とされた人たちで、だから「部に落とされた」ことで「部落」と呼んだ。「言霊の国・日本」の根幹に関わる謎こそが「部落差別」である。なぜ、長い年月、物部氏たちは差別をされてきたのか。なぜ「部の民」なのか。


「部落差別」と「物部氏」


 日本にはいわゆる「部落差別」という世界に類のない差別があり、被差別民と天皇との密接な結びつきが明らかとなっている。天皇を「清め=不浄なものの浄化」の職能の最高者とみる説もある。部落差別の根源は「穢れ」の概念である。だが、なぜ同じ民族なのに「差別」されるのか。それは人間や動物の「死」と「血」の穢れに関わっているからである。昔でいえば首切り役人、死体の処理や埋葬、火葬する人たち。また動物の死骸から皮を剥ぎ、その皮を鞣(なめ)す人。動物の死体の油で作る蝋燭や靴などの革製品を作る人、精肉や肉の販売をする人など、社会にとって絶対に必要な職業なのに差別をされるのだ。なぜか。それは職業自体が穢れていると考えるからで、江戸時代の身分制では、彼らは「穢多(えた)・非人(ひにん)」と蔑まれた。

 「非人」とは、一般的には幕藩体制の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称である。出生によるほか,刑罰による「非人手下」(ひにんてか)、生活困窮などにより乞食浮浪して非人になるものとがあり,もとの身分に戻る「足洗い」の制もあった。非人には「抱非人」(かかえひにん)と無宿の「野非人」とがあり、江戸市中および関東周辺12ヵ国の抱非人は各地の「非人頭」(ひにんがしら)を通じて「弾左衛門」(だんざえもん)の統轄下におかれた。

 

 この弾左衛門は、被差別民であった穢多・非人身分の頭領で、「穢多頭」(えたがしら)である。江戸幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領などを除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の穢多非人に号令を下す権限をも与えられていた世襲の家柄である。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々「長吏頭」(ちょうりがしら)の「矢野弾左衛門」と称した。また、浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。

 

「浅草弾左衛門」とその屋敷のあった場所

 

 弾左衛門が浅草を本拠としたことで、浅草は穢多・非人が多く住んでいた。その名残りは現在も留めており、この界隈に履物屋(靴屋)や革製品の店が多いのは、まさに多くの人たちが革製品の製造・加工に十字していたことを物語っている。実際、江戸時代に革製品を売る際には、弾左衛門の焼印のないものは売ってはならないとされ、巨大な利権の代わりに弾左衛門は江戸城内で使う蝋燭を納入していた。

 

 弾左衛門は、非人、芸能民、一部の職人、遊女屋などを支配していたが、このうち職人などは早い時期に支配を脱し、1708年に京都の傀儡師・小林新助が、弾左衛門が興行を妨害した件で江戸町奉行に訴えこれに勝訴したため、傀儡師・歌舞伎も弾左衛門の支配を脱したとある。つまり、芸能の民も吉原の遊女屋も、みな弾左衛門の支配下で、だからこそ浅草には市川團十郎の像があり、芝居小屋がいっぱいあり、浅草の奥に吉原があるのだ。

 1713年初演の歌舞伎十八番の一つ
『助六』は、市川團十郎 (2代目)が悪辣な弾左衛門の支配から脱した喜びから制作したものである。これに刺激を受け、非人頭の「車善七」が訴え出たが、弾左衛門が勝訴している。非人は下層芸能民である猿飼(猿回し)・乞胸と並び、幕末まで弾左衛門の支配下に置かれるにいたったが、但し、一部の猿回し・芝居・能師・三河万才は、安倍晴明の子孫であり陰陽道宗家となっていた土御門家の管理下に置かれていた。この意味は深い。

 

「浅草弾左衛門」の屋敷跡の碑と小説「浅草弾左衛門」

 

 筆者も筆者の母親も、日本の差別には著しい関心を寄せていた変な親子であった。筆者の場合、中学の担任の日本史の先生が、いかに人間は差別をしてはならないかという話を何時間も使って真剣に語っていたため、逆に異様な関心を持ってしまったのが差別を探求するきっかけとなった。母親は子供の時に読んだ島崎藤村の『破戒』と、戦時中に疎開していた北関東の某所の村が被差別部落とは知らず、そこで壮絶な光景を見てしまっていたことが、終生「差別」への興味を抱き続けた原因だった。

 

 今から40年近く前、筆者が母親にプレゼントしたのが、上の画像の塩見鮮一郎氏が記された『浅草弾左衛門』の3巻セットだった(笑)。変な親子である。そんな母親が「なんで寅さんは”車寅次郎”なんて名前にしたのかしら」とか「”車だん吉”なんて酷い名前だ」とか「なんで加山雄三はペンネームを弾厚作にしちゃったのかしら」と言ったことがある。「車」の姓を名乗るのは非人だからで、「弾」は弾左衛門だからだ。いやいや、そんなこと言われたって、フーテンの寅さんは「テキ屋」だし、車だん吉は萩本欽一と同様に浅草で芸を磨いた芸人さんだからでしょとしか答えられなかった。

 

 芸能は「芸+能」で、「能」は天照大神の死と復活を伝えるものである。能の元は申楽(猿楽)で作ったのは原始キリスト教徒の長・秦河勝である。落語にせよ歌舞伎にせよ、古典には必ず神道の影響がある。だが、それを伝えていたのは差別されていた人たちで、秦氏ではなく物部氏である。歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称は「河原者」(かわらもの)で、「 河原乞食」ともいった。 元来、「河原者」とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称であるで、本当は違う。「カッバーラ者」である。カッバーラの奥義を知る物部氏のことなのである。故に、一部の猿回し・芝居・能師・三河万才は、安倍晴明の子孫である土御門家の管理下に置かれていたのである。

 

能と歌舞伎

 

 弾左衛門は「穢多頭」で、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工などの製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して悪評名高い権勢を誇った。弾左衛門支配下の皮革産業は武具製造には欠かせない軍需産業であり、当時の為政者から保護される存在であった。弾左衛門の地位は世襲とされ、幕府から二本差等、様々な特権を与えられ、支配下からの莫大な収益からその生活は豊かであった。巷間旗本や大名と比較され、格式1万石、財力5万石などと伝えられた。 また、一般の庶民と同様、矢野という名はあくまで私称であり、公文書に使用されることはなかった。

 『弾左衛門由緒書』等によれば、
秦氏を祖先に持つとされ、平正盛の家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔して長吏の頭領におさまり、1180年、鎌倉長吏頭藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て中世穢多非人の頭領の地位を確立したとされる。しかし、江戸時代以前の沿革についての確証はなく、自らの正統性を主張するためのものとみられている。秦氏は「穢れ」を嫌う一族である。その秦氏が弾左衛門となることはない。これは差別された物部氏である自分の存在を、虐げられた物部氏より上に置きたいがための話だと推測できる。

 

 1871年明治政府は〈太政官布告(解放令)〉を発し、近世の賤民制度と「穢多」「非人」の称を廃止したが,非人身分の人々およびその集住地域への賤視と差別は解消されず,現代に続く被差別部落の一源流をなした。非人は元来仏教から出た言葉だが、10―11世紀の日本の中世社会の成立過程において、多様な被差別民を包括する身分的呼称として社会に定着。近世社会では賤民身分の一呼称として位置づけられた。ただし中世の「非人」については、身分体系の中でいかに位置づけるかは様々な考え方があり、近世の「賤民」との関係についても十分には解明されていないという。

 

「穢多・非人」を描いた絵(人の死骸がある)

 

 なぜ、解明されないのかといえば、差別される側も起源を理解していないからだ。さらに「被差別部落」に対しては、「触らぬ神に祟りなし」で、一般の人間が被差別部落出身者と結婚することなどあり得なかったことも、その本質が理解されない原因である。が、逆説的に考えれば、彼らは確かに酷い差別を受けてきたことには間違いないが、それは「差別」ではなく「封印」だったのである。物部氏、そして物部氏を敵に回したもう一つの物部氏である「外物部氏」の謎を解かない限り、日本の差別の謎は解くことはできず、さらになんでこの国が「ニッポン」なのか、その謎も解けないのである。

 

 まず、「物部氏」だが、彼らは古神道を奉ずる一族の中でも、大和朝廷成立以降も「燔祭」をやめなかったことで「落とされた部の民」を意味し、かれらの正体は紀元前3世紀に「徐福」(じょふく)とともに渡来したユダヤ人ユダヤ教徒である。日本に渡来する遥か昔から、ユダヤ教徒は「羊」を絶対神ヤハウェへの燔祭の生贄として捧げる儀式を行ってきた。ユダヤ人の太祖アブラハムが、年老いてからもうけた一人息子イサクを生贄に捧げるよう、絶対神ヤハウェによって命じられたもので、神の命令を疑わなったアブラハムに対して、神が代わりに「羊」を生贄とすることを命じられた逸話に基づく神事だった

 

 が、「神の子羊」とされたイエス・キリストが、十字架の磔刑=燔祭を通じて全人類のために贖罪を行ったことですべての人は復活し、主の福音に従う者は神とともに永遠の命を得られるとしたことで、「燔祭=血の儀式」は必要なくなったのである。その思想をもたらしたのは原始キリスト教徒・秦氏であり、神道的に表現すれば、「イエス・キリストが禊ぎ・祓いを行い、人類の穢れを水に流した」となるのである。

 

ヒンドゥー教の儀式「ヤジナ」。炎の中に供物が投げ入れられている

 

 現在、日本では燔祭は行われない。羊や牛や鹿、馬などを燔祭にかけたら、動物愛護団体から猛烈な批判がくることは間違いない。だが、インドではヒンドゥー教で動物を生贄に捧げる儀式「ヤジナ」(またはヤギャ)が行われており、ヴェーダの犠牲の伝統に従って、結婚、法会、その他の宗教的な行事の際に行われる「火の儀式」である。この祭壇の形を見ると、モーセの時代に使っていた生贄を焼くための「青銅の祭壇」に非常に似ている。いや、そうなのである。この儀式の元には古代ユダヤ教の「燔祭」があるのだ。

 

 本連載でも書いたが、諏訪大社で明治初期まで続けられてきた75頭の「鹿の首」を捧げる「御頭祭」をはじめ、各地で生贄の儀式を続けてきた。そうした場所からは牛、馬、鹿などの頭骨が発見される。大阪府の北河内地域に位置する四條畷市(しじょうなわて)の「奈良井遺跡」からは馬頭骨が発見され、伊勢の斎宮の井戸からは馬の首が発見されている。『日本書紀』皇極天皇元年(642年)には「牛馬を生贄にした」と言う記録があり、6世紀末〜7世紀頃の遺跡からは考古学的資料として牛の頭骨が出土する事があり、これは「道教呪術儀礼の影響」とされている。道教とはいうものの、古代ユダヤ教である。

 

モーセの「青銅の祭壇」

 

 この生贄は雨乞い儀式の一環であり、農耕にとって重要かつ貴重な労働力たる牛馬を殺し、それを神に奉げる事によって雨を降らそうとしたものであるとされる。古代ユダヤ教では、この「貴重な労働力」とは、自分にとって最も大切なものを捧げることこそが神への忠誠の証と考えられたことに起源がある。『殺牛・殺馬の民俗学』を著した筒井功氏は、以下のように説明している。
 
 
「雨乞いの殺牛・殺馬祭りで、穢多が中心的役割をになっていた例は、ほかに何ヶ所か知られている。彼らは一般村落からの強い要請を受けて、いわば雨乞いを主宰していたのである。村人たちは、自分たちにはない一種の呪的能力を被差別民に認めて、相当額の謝礼とともに依頼していた可能性が高い。」

 

 雨乞いの殺牛・殺馬祭りの中心を担っていたのは「穢多」で、呪的能力があったとしている。カッバーラの呪術である。「穢多」

とは「穢(けが)れが多い」と書く。一般的には日本仏教、神道における「穢れ」の観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称とされ、非人身分の俗称とする説もあるが、それより古く、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る立場もある。鎌倉時代までには奈良と京都に「穢多」差別があったことが明らかになっている。簡単にいえば、原始キリスト教徒・秦氏が乗っ取った物部氏の社があった場所では、原始キリスト教へ改宗しなかった物部氏たちを賤民に落としたのである。

 一方、「非人」は、主に中世の特定職能民・芸能民の呼称で、次第に被差別民の呼称となるが、もともと非人は「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。「非人」という言葉は仏教に由来するとも言われ、『法華経』などにこの単語が見られる。しかし、そこでは差別的な含蓄は一切なく、単に「比丘」や「比丘尼」などの人間に対してそれ以外の者、具体的には釈迦如来の眷属である「天人」や「龍」といった「八部衆」(はちぶしゅう)を指す言葉として用いられている。「八部衆」とは「天龍八部衆」ともいい、仏法を守護する八尊の護法善神のこととされる。だが、天龍とは龍神のことでヤハウェ、そして「八」もヤハウェであること考えれば、八尊の護法善神とは絶対神ヤハウェの分け御霊である。


 「非人」の語は、時代や地域によって言葉が指す内容が大きく異なる。 非人という語義だが、広義の「非人」とは、犬神人(いぬじにん)・墓守・河原者・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼・八瀬童子、等々の生業からくる総称である。つまり、呪術を扱えた物部氏たちのことである。「人に非ず」とは、普通の人間を超えた特別な能力をもった存在という意味でもあり、穢れに関わる仕事を生業としたことで、普通の人間では扱えない仕事をさせた人々のこととなる。例えば「犬神人」だが、、中世から近世にかけて近畿地方の大社に従属した下級神官のことで、「神人」に順ずる者である。境内や御幸路の死穢の清掃などに従事し、 特に京都「祇園社」(八坂神社)に属した者をいう。 社内の清掃、祇園会の山鉾巡幸の警固、葬送・埋葬などに従事し、祇園社の本所である延暦寺の兵卒となることもあったとされている。つまり、神に使えることができる人なのである。

 

延暦寺の兵卒として描かれる犬神人

 

 「イヌジニン―犬神人―」という漫画があった。著者は室井大資で、内容は澱みが生み出す怪(け)を処理する「犬神人」という謎の組織があり、耳、口、手の特殊能力を持つ若者たちが、人知れず世界の汚れを消去する、というものだったが、「犬神人」が八坂神社の境内や天皇の御幸路の死穢の清掃を請け負ったということであれば、それは「忌部氏」となる。忌部氏は現在も神道祭祀に使う道具を作り、それは仏具も同様である。さらに天皇祭祀の最も重要な「大嘗祭」における「死に装束」である「麁服」(あらたえの)調進の任されている一族である。

 

 さらに「忌部氏の中の忌部氏」は「賀茂氏」である。その賀茂氏の中の賀茂氏は特別に「鴨族」と呼ばれ、神道祭祀の頂点に位置し、その後ろを仕切るのが八咫烏である。謎なのは、なんでその忌部氏が、賤民とされたのか、である。ここには「外物部氏」が関わることになる。そう、物部氏を敵に回した物部氏である。だんだんと頭がこんがらがってくるが、根本は原始キリスト教徒「秦氏」vs 原始ユダヤ教徒「物部氏」による呪術戦争である。この辺の詳細は、本連載の後半で明らかにしてゆきたいと思う。

 

 「穢れ」と「祓い」との関連において、「祓い」は本来「穢れ」を除去するものではなく、穢れをもたらした者が神に対する謝罪などの意味で財物を捧げる行為(天津罪・国津罪などに対する財産刑)を指し、中世日本の神社においては「穢れ」を理由として「祓い」そのものが一定期間中止・延期された事例の存在が指摘されている。尚、「祓詞」では、「祓戸大神」(はらえどのおおかみ)が罪や穢れを清めるとしている。祓戸大神とは「祓」を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味だが、この「戸」とは「天岩戸」のことである。すなわちイエスの遺骸を葬った岩屋の扉のこと。つまり祓戸大神とはイエス・キリストである。そして、その扉の前にいた者たちの末裔、それが「忌部氏」なのである。

 

<つづく>