「穢れ」と「言霊」の謎:その52
 

 なぜ「 气」の中に「米」を入れた「気」の旧字体「氣」だと、エネルギーが放たれることになるのか。「 气」という字は、音読みは「キ・キツ・ケ・コツ」で、訓読みは「いき」である。意味は「いき、ガス、雲気、気体、水蒸気」「求める」とある。部首はそのまま「 气」で、「きがまえ」と呼ぶ。「きがまえ」を「気構え」と書くと、「何かしようとし、また何かを予期して、心を決め準備していること。心構え。」とある。しかし、実は「 气」の字源は「不明」で、一説に、空気の流れるさまを象る象形文字という。

 

 古代中国では、「 气」は空気ではなく、哲学的な意味でいう「气」のことだとする。中国の伝統的な考えでは、「气」はあらゆる形のあるものを構成する物質で、命と精神の発生と存在の基礎になるものであるとする。この「气」には具体的な形はなく、万物が変化する中にあり、「气」が集まることは物事の発生を意味し、「气」がなくなることは物事の消滅を意味する。この「气」はすべての形のあるものの内外にあるという。もはや「哲学」の話である。だが、この太陽系の中で、あらゆる形のあるものを構成する物質とは「プラズマ」のことである。人間の幽体もプラズマであり、光もプラズマである。ならば、「氣」の正体とはプラズマのこととなる。

 

◆「米」の字に込められた奥義

 

 「米」は日本の主食である。その「米」を入れたのは、絶対神ヤハウェが大和民族に与えた食べ物「マナ:まんま」だからである。さらに「米」の字を詳しく見てみると、上の2つの点は、一つは「上向き」でもう一は「下向き」である。これが何を意味するのかといえば、「上向き」は天に昇る「火:匕」で「陽」=「太陽神」、「下向き」は天から降る「水:ミ」で「陰」=「雷神:水神」となり、それは「カミ:神」で創造神にして太陽神:雷神:水神であるヤハウェである。

 

 日本の古くからの風習に「水祝い」(みずいわい)というものがある。これは婚礼の際、または結婚後最初の正月に、新郎または新婦または新郎新婦に水を浴びせかける儀礼であり、ほとんど全国的に行われていたものだ。その起源は、古くは月経を婦人語で「火」といい、「水」は火を消すから「火止まる」。すなわち新婦の月経が早く止まって、「ひとうまる」(人生まる)ともじったのであり、安産を祈り願い、子孫繁昌を祝福するために行われたと伝えられる。しかしこの説は後代の説明で、より古い信仰に基づくと考えられる。

 

 

 米は「稲」から採れ、「いね」は「命の根」(いのちのね)が語源である。絶対神が与えた食べ物「米」を食べることとは、すなわち「氣」を取り込み、「命」を養うという意味が込められているのである。そして、「米=八・十・八」なのは、「八十八の手間がかかるから」だとお米屋さんのサイトにには掲載されているが、「八:ヤハウェ」と「十字架に架かったヤハウェ=イエス・キリスト」は同一神であることを示している。だが、これだけでは終わらない。

 

 漢和辞典で見てみると、「米」は「小・一・小」で出来ているとされ、その意味を「小さな実を表す象形文字」とする。そこで次に「小」を引くと「∴」の三つの小さな点とあるが、これは三柱の「心御柱」を象徴、天界の三神「御父・御子・聖霊」を意味しているが、それは神社の「三つ穴灯篭」でも表されており、出雲大社の本殿前から出土した三本一組の「心御柱」も同様である。もはやカッバーラである。

 

神社の「三つ穴灯篭」と「心御柱」を示す出雲大社の三本柱

 

 さらに「米」は秦の始皇帝が「封禅の儀」で登った聖なる「泰山」(たいざん)に降臨した神から与えられた穀物で、安倍晴明で知られる「泰山夫君」(やいざんふくん)の神とは、〝死と蘇りを司る神〟とされる。イエス・キリストのことである。「稲荷」は「イナリ」だが、そこにはイエス・キリストの十字架の上に掲げられた罪状板に記された「INRI」が隠されており、「荷」は「艹+人+可」で、「可」は「許す」という意味を持つ。つまり「荊棘の冠を付けて人類を許した神が与えたのが”稲”だ」と言っているのだ。

 

「泰山夫君」=イエス・キリスト

 

 この「泰山夫君」とは人の寿命と福禄を司る神であり、物部氏の祖・徐福は始皇帝とともに泰山に登り、そこで絶対神ヤハウェから「稲穂」を授かり、「三種の神器」と「契約の聖櫃アーク」を二つに分けて日本に隠すよう命じられたのである。だからこそエネルギーを表す字が「氣」なのであり、上下に「小=∴」が並ぶ構造が、上の蓋が本物のアークと下の箱が本物のアークを2つにわけたしるしにもなっていたのである!

 

 さらに「∴」=「小」は柱を三角形に並べた〝三柱の三神〟を象徴していることで、それを水面に映ると「逆木」となる。その逆木を「榊」とすれば「生命の樹(命の木)」そのものとなり、その命の木の「米」を入れた「米櫃(こめびつ)」は「契約の聖櫃アーク=箱舟=箱」になり、「八+木」で「生命の樹=ヤハウェの木」となっているのだ。「米」という字がそのまま「生命の樹」を象徴していたのである。だからこそ、絶対神ヤハウェは、「国家神道」で狂った日本人に罰を与えるために「氣」を「気」に変えさせたのである。つまり、カッバーラの奥義である「生命の樹」から、愚かな大和民族を遠ざけたのである!

 


 怖ろしき呪術である。「聖書文字漢字」に秘められた意味は必ず複数ある。旧約の話と新約の話、さらに大和民族の歴史も隠された上に預言でもある。いったい何通りの意味が隠されているのか分からない。よって、「米」の字に隠された奥義はまだ残っている。それは、「米」=「生命の樹」ならば、それは「永遠の命を与える木」であり、その「木:き」とは「氣:き」であるということである。

 

 昔から「米づくり」には「八十八」の手間がかかると言われてきたが、日本の米農家は春夏秋冬、一年をかけて米を作っている。昔も今も変わりない米づくりの流れを季節ごとに示すと、春は、「田起こし」「畦塗り」「種まき」「苗作り」。夏は、「代掻き」「田植え」「追肥」「防除」。秋は、「稲刈り」「脱穀」「乾燥」「もみすり」。冬は、「土づくり」。これに、さらなる細かな作業が加わることことで「八十八」なのだとされている。この「八十八」は福島県の童歌でも知ることがでるが、実は「お手玉の歌」として伝承されている。

 ”米という字を ほどいてみたれば/八十八と 読めまする 読めまする/米を作るにゃ 春夏秋冬/八十八の 手間かかる 手間かかる/米をほろけば(=こぼせば) 神や仏の/八十八の 罰あたる 罰あたる”
 

 

 

 罰が当たるのである。歌詞には「こぼせば」と訳があり、お米を大事にしないと「罰が当たる」という意味で解釈されているが、この「ほろけば」というのは「ほろける」という方言である。『日本方言大辞典』には「落ちる」や「転げ落ちる」の意味を持つ「ほろける」がある。つまり、奢った人間は「生命の樹」から真っ逆さまに落とされ、「死の樹」へと落ちるのであり、それが「罰」だとしているのである。「米」が「生命の樹」だからである。

 

 「米」が「八十八」とするのは、数秘術でいえば88は「8+8=16」で、「1+6=7」の「7」=絶対聖数となり、「十・✗」で「三魔法陣」を示す。縦三本で「三柱の神」(三神)を、横三本で「生命の樹」の「三位階」(至高世界・中高世界・下層世界)を象徴し、全体でカッバーラの奥義「生命の樹」の「箱」としているのである。そして真ん中は「十字」となっているが、これは十字架に掛けられたヤハウェ=イエス・キリストの象徴でもある。

 

「米」とは「生命の樹」の構造そのものを表す文字

  縦横「3×3」はユダヤの「三魔法陣」で、横三段「618・753・294」、縦三列「276・951・438」、斜め「258・456」のどの数字を足しても「15」となり、「1+5=6」で
「666」の全体を六面体の「箱」に囲まれた「6」の結界=人間の世界で、そこから出るには「命の木」=「生命の樹」を昇るしかないことを表している。

 

 だからこそ日本人は自分の子供が「生命の樹」を上昇して至高世界へと至るようにと知らず知らずのうちに願って「七五三」(しちごさん)の祝いをするのであり、さらに「しめ縄」を「七五三縄」とも書くのは、「七五三縄」を張った結界を示しているのである。「しめ=〆=神の手が伸びる」ことで大和民族は結界の中に生きる民族を示しながら、「終末の日」への「預言」にもなっているである。それが「生命の樹」を象徴した「米」という字に隠された奥義なのである!

 


◆「氣枯れ」と原初の「穢れ」

 

 「氣」はエネルギーである。よって、氣が枯れて生命を維持するエネルギーを失うと「死」が訪れる。「氣が枯れた」状態を「キガレ=ケガレ」という。「ケ」は気がカレた状態を表し、「ハレ」の儀式で「ケ:氣」を回復するのである。但し、これが「穢れ」となると、それを持っていてはならない。よって、「穢れを祓う」ことで「気を良める」ことが必要で、これを「清める」とする。ダジャレのように聞こえるが、カッバーラの奥義は「ダジャレ」の中に潜んでいる。


 ユダヤ教、キリスト教では、アダムとイヴから受け継がれた「原罪」は、エデンの園で唯一食べることを禁じられた善悪を知る「知識の木」の実を「蛇=サタン」にそそのかされた女が食べ、女に勧められたアダムも食べたてしまったことにある。永遠の命を与える「生命の樹」の実を食べれば死ななかったが、「死の樹」の実を食べてしまったことで人間は「死ぬ体」となった。神は自分の命令に背いたアダムと女に「何を行ったのか」を問うたが、アダムは神に創られた女が勧めたからとして神と女に責任転嫁、女は蛇に騙されたと責任転嫁をした。、責任を他人に押し付けることを「責任転嫁」という理由は、アダムが「女(イヴ)=嫁」に押し付けたからである。

 

 

 少々長いが、人類の「原罪」と「穢れ」の原点である。「創世記」の該当部分をそのまま以下に記す。

 

 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 主なる神はアダムを呼ばれた。
 「どこにいるのか。」

 

 彼は答えた。
 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 神は言われた。
 「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
 アダムは答えた。
 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
 主なる神は女に向かって言われた。
 「何ということをしたのか。」
 女は答えた。
 「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
 主なる神は、蛇に向かって言われた。

 

 「このようなことをしたお前は
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。
  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。
  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」

 

 神は女に向かって言われた。


 「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
  お前は、苦しんで子を産む。
  お前は男を求め
  彼はお前を支配する。」

 

 神はアダムに向かって言われた。
 

 「お前は女の声に従い
  取って食べるなと命じた木から食べた。
  お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
  お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
  お前に対して
  土は茨とあざみを生えいでさせる
  野の草を食べようとするお前に。
  お前は顔に汗を流してパンを得る
  土に返るときまで。
  お前がそこから取られた土に。
  塵にすぎないお前は塵に返る。」 (「創世記」第3章8−19節)

 

 二人とも罪の自覚も悔い改めもせず「嘘の言葉を言った」ことで、女に対しては産みの苦しみと夫からの支配を、アダムには地から苦しんで食物を取ることと土にかえることを預言されてしまうのである。「原罪」の結果、人の世に「苦しみ・情欲の乱れ・不毛な生・死」が入ったことを示している。これが人類初の「穢れ」である。そして、人類は楽園である「エデンの園」を追われることになる。

 

 逆説的に考えると、「穢れ」た人間は「楽園」には入れないということだ。「楽」の反対は「苦」である。つまり、この世に住む限り、人間は「苦しみ」からは逃れられないのである。そして、大和民族にとっての最大の「苦」とは、救世主を十字架にかけて殺してしまったことである。「苦」という字が、「艹+十+口」で、草の冠(荊棘の冠)をつけられた救世主が十字架で燔祭となった姿を表している字こそが「苦」なのである。

 

 

 一方、大和民族にとっての「穢れ」の始まりは神話の中に記されている。日本神話における「穢れ」は、「天つ罪・国つ罪」との言葉で神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである「大祓詞」(おおはらえのことば)に示されている。「天つ罪」とは、畔放(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、頻蒔(しきまき)、串刺(くしざし)、生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)、屎戸(くそへ)である。

 

 これらは「須佐之男命」が高天原で行った行為だが、禊ぎと祓いと「八岐大蛇退治」によって名誉を挽回したことになっている。黄泉の国から復ったイザナギは「禊ぎ」をしている。これは、「黄泉の穢れ」=「死の穢れ」を払う行為であり、その最中に三貴子などの神々が誕生している。また、祓われた「穢れ」そのものからも神が誕生している。スサノオがアマテラスの屋敷に皮を剥いだ(生剥)馬である「天斑駒」(アマノフチコマ)を投げ入れたことで、「機織女」(はたおりめ)が死んだことが、「死の穢れ」の初出である。

 

 

「夏越の大祓」

 

 「穢れ」については「古事記」の黄泉国譚が初だが、イザナミが穢れているとの記述はなく、穢れたのはあくまでも夫のイザナギである。イザナギの穢れは、黄泉の国へイザナミを追いかけていき連れ戻そうとするなど、禁忌(タブー)を犯したことだとされる。「禁」と「忌」の字の意味は以下のようになっている。

 

 「禁」

 ①とどめる。さしとめる。「禁制」「禁令」

 ②とじこめる。「禁固」「監禁」

 ③いむ。いみさける。「禁忌」「禁句」

 ④いさめる。いましめる。

 ⑤宮中。天子や天皇の居所。「禁中」

 

 「忌」

 ①いむ。いまわしい。きらう。「忌避」「忌憚」「禁忌」

 ②いみ。喪に服すること。「忌中」「忌引」

 ③死者の命日。「忌日」「年忌」

 

 「禁」の字は、エデンの園に生えていた「生命の樹」と「死の樹」のことを神が示したことであり、「示」という字はそのまま「神」のことを示している。よって、「禁」という字はそのままカッバーラであり、さらに神によって遠ざけられてしまった場所「エデンの園」そのものである。そこに「忌」が加わることで、「いまわしい人間をエデンの園から遠ざけた」という話を示していることとなる。

 

 神道と仏教の「穢れ」に対する意識の最も異なる点は、「死」そのものに対する考えで、神道では「死や血」を穢れとするが仏教では神道のようには死を穢れとみなさない。葬式などは、仏教では寺で行うこともあるが、神道では神域たる神社ではなく各家で行う。これは、神聖なものがなんであるかの違いであり、また、「清めの塩」は穢れた自分を清めているものである。数珠を左手に巻くのは左手を不浄として数珠で浄めているのである。死においては、その精神状態が最も重要視されるため、亡くなった方だけでなくその身内も忌中の間は神域に立ち入ることは許されない。

 

 一方、死者を神として祀る神社があったり、また墓である古墳も神域と見なされる。仏教では、死は次へ転生する輪廻という世界の有り様で、これをするような概念は存在しない。日本人に神は畏れられると共に敬われる。また死者は清められ、特定の死者はその魂を神として祀る。これらの神と穢れは相成り得ないもので、神社の手水舎は、外界での穢れを祓うために設置され、これを「御手洗い」という。

 

下鴨神社の「御手洗池」

 

 神社の手水舎の原型は「モーセの幕屋」の洗盤にあるが、神と相対時するとき「幕屋」の中にはモーセ以外は入れない。神聖なる「結界」だからである。これが日本人は徹底的に「手洗い」をするのである。目に見えない「穢れ」を限りなく祓おうとするのである。手を洗い、足を洗い、体を洗い流してから「湯船」に浸かり、皇祖神イエス・キリストを殺してしまった「穢れ」を祓うために「水のバプテスマ」を行うのである。つまり、大和民族は旧約と新約の儀式を毎日行っていることとなるのである。そんな民族は他にはいない。だからこそ「ヤ・ゥマト」で「神の民」なのである。

 

<つづく>