「穢れ」と「言霊」の謎:その42

 

 船岡山の右斜め上には「上賀茂神社」が控え、そこから真っ直ぐ右斜め上に行くと貴船山と鞍馬山があるのは偶然ではない。全ては神道を仕切る一族「賀茂氏」と神道の裏側を支配する一族「八咫烏」がいるからである。古来、貴船神社と鞍馬寺は一体であったという。鞍馬寺では「魔王尊」を祀っている。今から650万年前、金星から地球に降り立った霊王サナート・クラマだという。もちろん神話で、サナート・クラマはヒンドゥー教の神の一人である。鞍馬寺の本尊は毘沙門天だが、多聞天である。

 

 多聞天を含めた持国天、増長天、広目天は、もともと光明神「ミトラ」の性質を神格化させたものである。ミトラはサンスクリット語では「マイトレーヤ」で、「弥勒菩薩」のことである。弥勒菩薩が仏教におけるメシア、カッバーラでいうところの救世主イエス・キリストのことである。鞍馬寺では、「鞍馬山には、神代以前からの古神道や陰陽道、修験道等の山岳宗教の要素も含まれています。宗派に捉われない懐の深さは鞍馬寺の宗教伝統となっています。」と言っているが、これは全ての宗教の根源は同じだと言っているのである。

 

 

 光明神「ミトラ」とは「三寅」とも表記する。鞍馬寺の由緒によれば、毘沙門天は「寅年寅月寅日寅刻」に出現したとされており、境内には狛犬ならぬ狛虎がいるのである。貴船神社では貴船明神が降臨したのは「丑年丑月丑日丑刻」であった。つまり、鞍馬寺と貴船神社は対になっているのだ。丑と寅は、「丑寅」で「艮」、すなわち「鬼門」である。鬼が牛の角を生やして寅皮の腰布を下げているのはここに理由があるのだ。さらに、鬼の手には金棒があるが、これが「呪いの藁人形」を打ちつける金槌を象徴している。

 

 だが、こうした一連の呪術は、みなイエス・キリストの十字架での磔刑が元になっている。日本人が「穢れ」を嫌うことの本質は、自分たちの救世主の「死」と「血」が根源にあるのだ。

 

 

◆「穢れ」という観念とその起源
 

 「穢れ」という観念は現代日本でも神道の「禊」(みそぎ)や仏教の「灌頂」(かんじょう)、海外でもキリスト教での「洗礼」(せんれい)をはじめ様々な宗教儀式に名残りを留めている。穢れているとされる対象としては、死・病気・出産・性交・女性・怪我・排泄ならびにこれらに関するものが代表的である。 穢れとされている性交・出産によって、女性の股から産血に塗れて産まれてくる男性は、生まれながらにして穢れた不浄の生き物となり、男性は生まれながらにして罪人であるというキリスト教の「原罪」にも通ずる。

 

 「原罪」とは何か。簡単にいえば、アダムとイヴから受け継がれた「罪」のことである。原罪の前提となっているアダムとイヴ(女)による罪は、神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが、善悪を知る知識の木の実は「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。しかし「蛇=サタン」にそそのかされた女が知識の木の実を食べ、女に勧められたアダムも

食べてしまった。永遠の命を与える「生命の樹」の実を食べれば死ななかったが、ここで人間は「死ぬ体」となった。

 

 

 その後、神は自分の命令に背いたアダムと女に対して何を行ったのかを問いかけたが、アダムは神に創られた女が勧めたからとして神と女に責任転嫁し、女は蛇に騙されたと責任転嫁をした。ここでの神は人に問いかけることで、罪の自覚を促し、悔い改めの機会を与えるものであったが、アダムも女も、責任転嫁に終始して応えなかった。つまり「嘘の言葉を言った」のである。よって、女に対しては産みの苦しみと夫からの支配を、アダムに対しては地から苦しんで食物を取ることと土にかえることを預言したのである。

 

 神はアダムとイヴのために皮の着物を造って着せた。禁断の知識の木の実を食べたことで、「恥」が生まれたからだ。尚、「創世記3章20節」で「イヴ」という名が出て来る。アダムに名を与えられたのである。罪を一緒に背負うためである。この「原罪」の結果、人の世に苦しみ・情欲の乱れ・不毛な生・死が入ったことを示している。これが「穢れ」の発祥である。死とは生物学的な生命の終わりではなく、人が神のいのちの交わりに到達できないという意味での死である。また、人は成聖の恩寵を喪失したとされる。

 

 実は、この「穢れ」の発祥とともに、アダムが女に「イヴ」という名前を与えたことに「言霊」の奥義たる「名前」の秘儀が隠されているが、その奥義の解き明かしは後述するとして、まずは「不浄」について話していこう。日本の場合、自らの共同体以外の人(他県人・外国人・異民族)やその文化、特定の血筋または身分の人(不可触賎民など)、特定の職業(芸能、金融、精肉、皮革、葬儀、等)も「穢れ」となり、インドのように体の一部(左手を食事に使ってはならない等)なども「穢れ」とされることがある。

 

 

 これらは必ずしも絶対的な穢れというわけではなく、行為などによって異なることが多い。例えば、ある動物に触れるのは構わないが食べてはいけないなどである。ヒンドゥー教では、 「食文化のタブー」が多く、以下のような項目がタブー視されている。

 ・先祖の魂が動物の形に生まれ変わっているかもしれないという考えのため、動物は殺したり、食べたりしない。
 ・卵類も生命の源と考えられているので、食用にしない人がいる。
 ・ブラーマン階級は、食前に儀式として沐浴し、清潔な衣服を身につけ身を清める。
 ・異なったカースト階級の人とは一緒に食事をしない。
 ・牛は神聖な動物として崇拝されているので、ヒンドゥ教徒は牛肉は食べない。
 ・「浄・不浄」の観念:排便後、左手を使って水で洗う習慣のあるインドでは、左は不浄の手とされ食事に使われることはない。人に何かを手渡しするときや、握手するときは右手を使うべきである。   
 ・「穢れ」(排泄物や分泌物、それに人が触れたもの)は強い伝染力もっていると考えられているため、インドでは使い捨てできる素焼きや木の葉でできた食器が好まれる。

 

 かなり「不浄」な行為。「穢れ」ているモノが明確になっているが、実は、イエス・キリストはこうしたことはタブー視していない。

 

 イエスは言われた。

 「あなたがたも、まだ悟らないのか。 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 しかし、 口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(「マタイによる福音書 」第15章10-11節、16−20節)

 

 つまり、尻から出てくるモノより、口から出る「言葉」の方が「穢れ」をもたらすと言っているのだ。ヒンドゥー教では、食事に関しては「不浄」や「穢れ」の観念を元にした様々なタブーがあるが、こと「水」に関しては日本とは違ってかなりユルい。特に「聖なる川」であるはずのガンジスは、日本人からすると「穢れ」だらけなのである。



聖なるガンジスでの沐浴(インド)

 

 日本でも滝や川、海などで「禊」を行うが、インドでは「聖なる川:ガンジス」で沐浴をする人が未だに多くいる。しかし、ヒンズー教徒が「聖なる川」と崇めるガンジス川で、巡礼者が沐浴するのは「危険」と地元紙は警鐘を鳴らしている。インド政府の調査では、最大で基準値の23倍の糞便性大腸菌が検出された地域もあり、汚染が深刻だからだ。しかし聖地の信者たちの危機感は薄く、ガンジス川のほとりで体を洗ったり、洗濯をしたりする人たちも多く、牛も水に入っている(笑)。だから、間違っても顔ゴシゴシしてはいけないし、鼻からガンジス川の水を吸っちゃったら大変なことになる。1時間後には鼻が痛くなり、のどの奥の方に痛みが移動していき、内蔵に入ると極度の下痢に悩まされることとなる。

 

 ガンジス川の流域には上水道、下水道が未整備の地域が多く、また工場排水の影響もあり水質汚染が酷い。特に沐浴場のある中流に位置する聖地ヴァーラーナシー付近の大腸菌レベルは一時、インド政府の定める基準の100倍に上ったという報告もある。だが、多くの信者が水に入ったり口をゆすいだりしている。インドの多数派ヒンズー教徒はガンジス川の水に「罪を洗い流す効果がある」と信じている。沐浴をしている人へのインタビューでは、「心が清められる。濁っていても、これは聖水だ」と恍惚の表情で答えている(笑)。水質汚染を伝えるニュースを聞いても「ガンジス川のことを全く理解していない」と一蹴する。

 

 考えただけでも恐ろしいが、この辺は日本の「不浄」の考え方とは真逆である。インド紙のヒンドゥスタン・タイムズは、ヴァーラーナシーの調査地点では、100ミリリットル当たり500個という基準値に対し9~20倍の大腸菌が検出されたと報じている。「生活排水が処理されないまま流れ込んでいるのが原因。処理能力は約4分の1しかない」とする地元当局者の話を載せている。流域人口が増え、排せつ物のほか工場廃液も増加、川岸で火葬された遺体や遺灰も流されている。もはや全ての「穢れ」がごった煮状態なのである。
 

白山比咩神社での「禊」

 

 「穢れ」の観念は民間信仰はもとより、他の海外の宗教にも見られる。ユダヤ教では古くから様々な「穢れ」の観念が事細かに規定され、これは食のタブーなどに関してイスラム教にも影響を与え、現代でも多くの人々の生活様式に影響を残している。バラモン教の「穢れ」の観念は現代のヒンドゥー教に受け継がれ、また仏教にも影響を残している。月経や女性を穢れとするのはユダヤ・キリスト教、古代インドの思想とその影響を受けた仏教由来のものである。

 

 「穢れ」に対立する概念は「清浄」または「神聖」であるが、穢れと神聖はどちらもタブーとして遠ざけられる対象であり、タブーであることだけが強調されて、必ずしも厳密に区別できないこともある。例えばユダヤ教では動物の血は食に関する限り「不浄な生き物」と同様に忌まれるものであるが、これはユダヤ教においては「血は命であるから食べてはならない」と説明される神聖なものであることに起因するもので、決して穢れたものであるからではない。類似語でユダヤ教・キリスト教では「罪」という言葉で聖書に表されているが、『アダムの犯した罪』が人の原罪である。 

 

◆「神道」と「穢れ」

 

 平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、「穢れ」の思想を持つものが多かったため、「穢れ」の観念は京都を中心に日本全国へと広がったとされている。また、平安時代後期以後、国家鎮護や天皇・貴族のために加持祈祷を行う上位の高僧には、皇族や貴族出身者など上流階級出身者の子弟が増加した。彼らは神祇祭祀の主催者である天皇に仕えるため、身の清さを維持する必要が生じたことで、葬儀など穢れに接する可能性の高い行事へは参加をせず、堂衆と称された下級僧侶や「遁世僧」(とんせいそう)と呼ばれる聖(ひじり)が行うようになり、僧侶間の階層の分化を進める一因となった。

 

 一方、日本における穢れの思想は神道の思想や律令法で導入された「服喪」の概念とも絡み合って制度化されるなど、複雑な発展を遂げていった。10世紀前半成立の『延喜式』では3巻の「臨時祭」の中に「穢悪」(えお)のリストがあり、死や出産、六畜の肉食が挙げられ、他の箇所でも穢れに言及されている。尚、延喜式の「穢れ」に対する忌みの措置は、参加を禁じるためでは無く、その一定期間を過ぎたら出勤するようにと規定している。

 

『絹本著色聖徳太子絵伝』

 

 増田美子氏の『日本喪服文化史』によれば、日本の喪服の色は「白」だった時期のほうが長く、平安~鎌倉時代には上流階級は「黒」になったものの、室町~江戸時代には再び「白」に戻り、明治以降は西洋化により上流階級は「黒」が基本となり、庶民は戦前の大正~昭和前期までに「黒」になっていったとされる。平安時代に上流階級の喪服が「黒」になった原因は、当時の大国で最先端の文化が集まっていた唐の制度を真似する際、『唐書』の「皇帝が喪服として『錫衰(しゃくさい)』を着る」という記述の解釈を間違え、薄墨色にしてしまったのが原因だという。

 718年に養老喪葬令で、
「天皇は直系二親等以上の喪には『錫紵(しゃくじょ)』を着る」と定めたが、実は唐でいう「錫」とは、灰汁処理した白い麻布(上布)のことだったというのを知らずに勘違いし、日本では金属のスズと解釈してスズ色=薄墨に染めてしまったと考えられるのだそうだ。日本では錫紵=墨染めの色のことを指し、これ以降、平安時代になると貴族階級にも広まり、色は薄墨色からさらに濃くなり、黒系統(鈍色:にびいろ、黒橡色:くろつるばみいろ、等)になっていったという。

 

 だが、これだけ「穢れ」を嫌う民族が、現在も穢れ・汚れに関する観念が低い中国を真似るだろうか。現在の首都・北京の公衆便所に入ったことがある方はお分かりだと思うが、隣の人の間の仕切りがない(笑)。世界第2位の経済大国とは思えないトイレなのである。さらに、夜間は電灯がない。一歩間違えればトイレに落ちる。筆者はiPhoneを照明代わりにしたので難無きだったが、照明代わりを持たずに入ったスタッフは悲惨だった(笑)。その意味で日本の公衆便所が良く行き届いているところが多いが、これは「穢れ」を徹底的に嫌うからである。

 

北京の公衆便所。夜は悲惨だ。

 

 藤原実資(ふじわらのさねすけ)は「日本の穢れは天竺・大唐にはないものである」としており、藤原頼長(よりなが)も穢れの規定は中国からの移入である律令にはなく、日本で独自に制定した格式に載せられていることを指摘している。つまり「穢れ」という考え方は日本独自=神道のものなのだ。ちなみに「琉球神道」には血の穢れや死の穢れが無視されており、和田萃は「中世末に日本の神道が琉球に伝わったが、それが熊野信仰であったことと関係があるのではないかと思う」「琉球は東の信仰は強いが、日本の浄土信仰のような西に対する信仰がない」とする。

 

 神道の「穢れ」の排除は、時として「差別」と捉えられる場合が多い。大相撲では、女性は土俵の上に上がれない。もちろん「血の穢れ」を嫌うからだが、現代の人間はこれを「女性蔑視」だとか言うが、とんでもない間違えである。大相撲はスポーツではない。「神事」なのである。土俵は結界が張られた神域である。だから「塩」を撒いて清めの儀式を行うのである。行事が「烏帽子」を被っているのも「神官」の役割を担っていることを示している。国連のLGBTやらジェンダーバイアスなどと何がいいたいのか全く分からないことを叫びながら「性差別」を訴える人たちがいるが、そうした人たちは日本潰しに加担していることに気づいてもいない。

 

 

 全ての「山」を神が降臨する「磐座」(いわくら)、「磐境」(いわさか)とし、畏敬の対象としてきた日本人と、「山」は征服され
る為に存在するとする白人とは考え方が根本的に違う為、欧米型キリスト教は、大和民族の「元初三神」「造化三神」を拝する参
(三)道を歩き参(三)拝する「三位三体」を、「三位一体」に変貌させたように全てを逆に見る傾向がある。日本は「世界から遅れている」から旧態依然とした「しきたり」を変えさせないといけないとする。

 

 2022年の年末には「ファイザー」「モデルナ」「アストロゼネカ」のTVCMがバンバンと流され際、大相撲の懸賞幕にも「モデルナ」があった。日本人を虐殺するそんな「穢れ」た企業から懸賞金をもらっている時点で大相撲も地に落ちてしまったことが分かる。実際、最近の三役はモンゴル人だらけで、もはや横綱のしきたりすら知らないような人間が横綱となっている。全ては「金」のためである。

 「持っている」意味とは「物質」ではなく「精神=心」のことで、大相撲の横綱の
「心・技・体」を例にすれば、恵まれた体格と
技を持つモンゴルの白鳳は、最後まで「心」には至らなかったことが分かる。
横綱の恥になる「勝ちあげ」を連発し、勝てばいいだろうという相撲で記録を更新したが、八百長の胴元を含めて最後まで尊敬は得られなかった。あの「大横綱」と言われた存在は、結果どうなったか。まさかの親方の降格処分となった。

 

 

 令和という時代を甘く見ている輩は痛い目を見ることになる。日本の歴史上、最も「穢れ」を嫌う年号だからである。嘘も穢れである。「ちょっとくらい」も許さない。それが「令和」という時代の恐ろしさなのである。
 

<つづく>