「穢れ」と「言霊」の謎:その40

 

 貴船神社の奥宮に祀られる「高龗神」(タカオカミノカミ)は「山上の龍神」とされ、水の神である。同じく祭神の「闇龗神」(クラオカミノカミ)は「谷底暗闇の龍神」とされ、さらに同一神だとされている。龍神は水神で、日本神話ならスサノウだが、その正体は絶対神ヤハウェだ。よって、同一神とあればイエス・キリストになるはずだが、それなら「闇ではなく光」を表す漢字もしくは、「艸(草冠)」を付けた字が用いられるのが普通である。だが、そのどちらでもない。では、いったいこの闇龗神とは、何を表しているのであろうか。

 

「高龗神」と「闇龗神」

 

 「高龗神」を祀る神社は全国で本社が約1,300社、境内社が約300社の計1,600社もある。それらの本宮とされているのが奈良県吉野郡川上村迫にある「丹生川上神社上社」(にうかわかみじんじゃかみしゃ)である。旧社格は官幣大社の式内社及び二十二社の論社であるが、なんとここは「龍神総本宮」と名乗っている神社である。つまり、「高龗神」を祀る神社は「龍宮」という意味となり、その総社がここなのだと言っているのだ。

 

「丹生川上神社上社」と扁額

 

 ここの拝殿の扁額には「神雨霑灑」(しんうてんさい)と書かれている。難しい表記だ。神雨はいいとして、「霑」の読みは「テン」で「うるお-う、うるお-す」 で「ひたひたと一面にぬれる」の意である。「灑」は「サイ」で、「そそ-ぐ」、ひたひたと水をそそぐの意である。合わせて「神の雨がうるほしそそぎ、恩恵をほどこす」という意味である。「丹生川上神社上社」では、その由来を以下のように記している。

 

 丹生川上の地は、日本書紀神武天皇即位前紀戊午年九月甲子の条に、「厳瓮(いつへ)を造作(つく)りて、丹生の川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神地祇を祭りたまふ」と記されており、上古より祭祀を行う聖域であったことが知られます。天武天皇の御代白鳳四年(675)、「人の声聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬(いつ)き祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」という神宣により、御社殿が建立、奉祀されました。

 

 この神武天皇に関する逸話は、神武東征の時の話である。神武天皇が大和に向かう途中、熊野灘で猛烈な暴風雨に見舞われて漂流、次兄、三兄も亡くしたカム神武天皇は軍を率いて熊野の荒坂津(あらさかつ)に上陸。ここで地元の豪族・丹敷戸畔(にしきとべ)を倒すが、土地の神々の霊気により一行は次々に意識を失い、倒れ込む。そこへ熊野の高倉下(たかくらじ)が霊剣「布都御魂」(ふつのみたま)を持って現れる。その剣を手にすると、軍勢がみな目覚めただけでなく、荒ぶる神々もすべて倒れてしまう。かくして神武天皇は熊野での苦難を乗り越え、高皇産霊神(タカミムスビ)が遣わした八咫烏の先導で、熊野川を進んで大和国へ入り、吉野から宇陀(奈良県)を戦いながら進んだとある。

 

神武東征の際に現れた八咫烏と熊野3社で祀られる八咫烏

 

 神武天皇は苦境の中「丹生川上」を訪れ、この地で天神の教示を受け、後に畝傍(うねび)の橿原(かしはら)で即位したと語られている。この故事に因み歴代天皇は苦境に立つと必ず吉野を訪れ、神の守護をもらう。その事に奉謝して創建されたのが、この「丹生川上神社」なのである。本来は一社だったとされる「丹生川上神社」は江戸から大正時代にかけて三社となり、三社の丹生川上神社が古から伝わる「丹生川上神社」の祭祀を継承しているとされている。
 

 ここの社名には「上」がついているが、下市町の「丹生川上神社下社」に対するものである。上と下というなら、賀茂神社と構造は同じだと考えていい。そして、本当の力を持つのは「下鴨神社」と同様に、ここも「下社」である。なにせ「丹生川上神社下社」は日本最古の水神を祀る神社なのである。ならば、こここそが水神でもある龍神を祀る「裏総本宮」なのである。そして下社には貴船神社と同様に「闇龗神」が祀られており、それは谷底に棲まれる龍神のことだと伝えている。

 

「丹生川上神社下社」

 

 さらに、ここも貴船神社、伊勢神宮と同様に、三社で構成されており、上社・中社・下社を参拝する丹生川上神社三社めぐりが行われている。お分かりだろうか。貴船神社でも「本宮〜奥宮〜結社」の順番で「三社詣」が行われているのは、ここ丹生川上・中・下の三社が貴船神社の元宮だということである。とすれば、丹生川上神社とは、丹生川神神社だということだ。コトダマの暗号である。「上」は「カミ」であり「神」であるのだ。

 

 そして神武天皇をここに導いたのは八咫烏である。つまり、この三社の仕掛けを施したのは八咫烏なのである。上賀茂・下鴨・河合の三社でなる「賀茂神社」の本宮は「河合神社」であり、そこには「八咫烏」を祀る小さな「任部社」があり、こここそが本当の賀茂神社である。貴船神社も三社で、道を隔てた反対側には烏天狗の聖地「鞍馬山」が座している。同じなのである。さらに、八咫烏の聖地「熊野」の山を超えるとここ吉野になる。全ては八咫烏の歩いた跡なのだ。

 

丹生川上神社三社巡りの御朱印

 

 「丹生川上神社」は古来、祈雨・止雨をはじめとして天変地異や国家・朝廷の大事に際しては臨時祭を行う重要な神社であり、本来は1つの神社しか存在しなかったという。しかし次第に衰退、江戸時代に入った頃には、「丹生川上神社」の所在すら分からなくなってしまったが、そんな折、「丹生大明神」という神社が、丹生川沿いにあったという。そこで、この神社が「丹生川上神社」だろうという説が有力になり明治4年(1871年)に認定される。これが現在の「下社」である。

 しかし、今度は丹生川沿いの丹生大明神こそ「丹生川上神社」に違いないという異論が出る。そこで、吉野川上流にある
「高龗神神社」(たかおかみじんじゃ)が「丹生川上神社」に相応しいという説が登場する。では、仕方ないということで、明治7年(1874年)に「高龗神神社」を丹生川上神社の「奥宮」として「上社」に、それまでの丹生川上神社を「下社」に改めた。が、大正になって、今度は高見川流域の「蟻通神社」(ありとおしじんじゃ)が本来の「丹生川上神社」であるという説がでてくる。そこで、また、大正11年(1922年)に「蟻通神社」が「丹生川上神社」に認定された。しかし、すでに上社と下社が存在しているため、ここは「中社」にしようとなったのだという。

 

 かなりいい加減な話に聞こえる。しかし、その昔、「丹生川上神社下社」で雨を祈る時には「黒馬」、晴れを祈るときには「白馬」が献上されたという。平成24年にも神馬の奉納があり、現在も境内では黒馬と白馬の2頭の馬が、参拝者を迎えてくれる。水神に「馬を奉る」ことから「絵馬」の起源とされ、この社は「神馬」と「絵馬発祥の神社」とされているのである。

 

 

 貴船神社は「呪いの藁人形」の発祥の地だが、ここが「絵馬」の発祥の地ということは、京都の安井金刀比羅宮で奉納される「呪いの絵馬」に通じる。なにせ貴船神社の「呪いの藁人形」が「奥宮」の御神木に打ち付けられるからで、この下社が「本宮」ならば同じこととなる。さらに水神に馬を奉ることが絵馬の起源」という話には別の意味も隠されている。それは「燔祭」である。

 

 「水神に馬を奉る」とは、馬を燔祭の生贄にしたということだ。諏訪大社では明治初期まで行ってきた「御頭祭」では、75頭の鹿の首を捧げてきたことが分かっているが、ここでは馬を捧げていたはずである。その「しるし」は、丹生川上神社下社の拝殿と本殿をつなぐ「階」(きざはし)にある。ここは神社建築としては珍しく、拝殿の後ろの丹生山山頂に鎮まる本殿まで木製の階が続いているのだ。それも七十五段なのである!となれば、なぜ貴船山の隣が「馬の鞍」という名前の「鞍馬山」になっているのも逆さの暗号だと分かる。

 


七十五段続く本殿への階
 

 下社ではこの七十五段の階段を「階」(きざはし)と呼んでいる。つまり、これは「カッバーラ」である。三神を祀り、そこ(本殿)に至る段階を敢えて「階」としていることで、天界へと至る「ヤコブの梯子」と同じ意味を与えている。そして、神への生贄としての捧げ物として「馬」を燔祭にしたのである。つまり、ここは丹生山を絶対神ヤハウェが顕現するシナイ山と見立てたのである。よって、この儀式を行っていたのは「物部氏」である。

 

 これを示すように、ここには変わった「石」がいくつも置かれている。その一つが「牛石」なる岩である。これまで何度も「牛」の名が付く地名は、物部氏が牛を使って燔祭を行っていた場所だと書いてきた。また四天王寺をはじめ、各地にひっそりと残されている「牛」の象や「牛」の社のある場所は、もともと物部氏の社があった場所だとしたが、この下社=本宮に「牛石」なるものが残されているということは、物部氏が奉じていたことを示している。

 

 神武天皇の説話に「丹生の川上に陟りて、用て天神地祇を祭りたまふ」とあるのは、もともと「祇=国津神=唯一絶対神ヤハウェ」を祀っていたが、神武天皇とともにやってきた秦氏が「天神=天津神=イエス・キリスト」を祀らせたという意味になる。

 

下社の「牛石」

 

 さらにここには「蛙石」(かえるいし)や「産霊石」(むすびいし)なる岩がある。「蛙石」はダジャレなのだろうか。はたまた「黄泉から還った」ことで「よみ・がえる(黄泉ガエル・甦る・蘇る)」という意味を込めたのなら、それは亡くなった神が蘇ったことを示し、イエス・キリストの存在を暗示する。暗示としたのは、下社には貴船神社と同様に「闇龗神」が祀られており、それは谷底に棲まれる龍神のことだと伝えているからだ。ならば、この「闇龗神」とは、イエス・キリストが霊の状態(神霊ヤハウェ)で、まだ「黄泉の国」にいる状態を示しているのである。


 貴船神社に祀られる「高龗神」が「山上の龍神」とされ、それは「水神」(龍神)であり同じく祭神の「闇龗神」を同一神としている理由はここにあるのではないだろうか。そして、「産霊石」(むすびいし)なる岩がある理由は、ここが「縁結び」の発祥地だということなのだ。右道の呪術を行えば良縁と結ばれるが、「呪い」という左道の呪術を行えば「縁を切る」こともできるということなのだ。この「縁を切る」には、恨んだ人間を呪詛で殺す、誰かの不幸せを望んで「縁を切らせる」ことも含む。だが、そのためには「魔物」と契約し、願望成就と引き換えに自らの命も捧げることとなる。

 

「産霊石」(むすびいし)

 

 「奈良時代、雨乞いの神として朝廷が重要視した神」とは、「丹生河上神」であった。「祇=国津神=唯一絶対神ヤハウェ=雷神=龍神=水神」を祀ったのである。『続日本紀』の天平宝字七年五月二十八日条には「奉幣を畿内四一方のか国の諸社に奉った。そのうち丹生河上神には、奉幣の他に黒毛の馬を加えて奉った。日照りのためであるとある。燔祭である。この後も丹生河上神の名はしばしば登場し、朝廷が丹生河上神を水神として重く信仰していたことがわかる。のちに都が平安京に遷された後、丹生河上の役目を担ったのが、平安京の北方を鎮護する「貴船神社」だ。平安時代以降、貴船神社は水の神の社として深く信仰されてきた。

 

 貴船神社は水の神の社としてだけでなく、「復縁の社」としても知られる。これによって、現在は「縁結びのパワースポット」などと呼ばれるが、そうではないのだ。縁を結ぶも切るもここで行ったのである。鎌倉時代後期の僧侶である無住は、著書『沙石集』に、藤原保昌(沙石集では「保政」)に捨てられた和泉式部が、復縁のために貴船神社を訪れたと書いている。「敬愛の祭祀」を執り行ってもらうのだが、儀式の後、巫女は着物の前を手繰り上げて陰部を叩き、三度廻ったとある。そしてあろうことか、和泉式部にも同じことをせよと迫ったのだ。

 

 実はこのとき、たまたま当の保昌が貴船神社に詣でており、面白がって陰から見ていたのだが、和泉式部が「ちはやぶる神のみる目も恥づかしや 身を思ふとて身をやつすべき」と詠んだので、その慎ましさが愛おしくなり、「私ならここにいるぞ」と呼びかけて、彼女を連れ帰ったという。だが、貴船神社で復縁を祈れば、必ずしも叶ったわけではない。その叶わなかった女の物語として伝えられてきたのが、能で演じられる「鉄輪」(かなわ)である。そう、「呪いの藁人形」である!

 

「能 鉄輪」

 あらすじはこうである。貴船神社の社人に「丑の刻に都の女が詣でるから、神託を伝えよ」と、夢のお告げがあり、待っていると果たして一人の女が現れる。話を聞いてみると、自分を捨てた夫が新しい妻をもらったので、報いを受けさせるために毎夜参っていたのだと答えた。社人は女に、
三つの脚に火を灯した鉄輪[五徳]を頭に載せ、顔を赤く塗るなどして、怒る心を持つなら、望みどおり鬼になる、と神託を告げ、女とやり取りするうちに怖くなり、逃げ出す。女が神託通りにしようと言うやいなや、様子は変わり髪が逆立ち、雷鳴が轟く。雷雨のなか、女は恨みを思い知らせてやると言い捨て、駆け去る。

 

 女の元夫、下京辺りに住む男が連夜の悪夢に悩み、有名な陰陽師、安倍晴明を訪ねる。晴明は、先妻の呪いにより、夫婦の命は今夜で尽きると見立てる。男の懇願に応じて、晴明は彼の家に祈祷棚を設け、夫婦の「形代」(かたしろ)を載せ、呪いを肩代わりさせるため、祈祷を始める。そこへ脚に火を灯した鉄輪を戴き、鬼となった先妻が現れる。鬼女は捨てられた恨みを述べ、後妻の形代の髪を打ち据え、男の形代に襲いかかるが、神力に退けられ、時機を待つと言って姿を消す。

 


 

 一般的はにこれが「丑の刻参り」の始まりとされ、様々な絵にも描かれている。のちに藁人形に五寸釘を打ち込む儀式も加わるが、それがいつごろからなのかはよくわかっていない。だが、女の恨み、嫉妬心の恐ろしさを、禍々しい鬼の姿で表現する能であるが、一方では「丑の刻参り」でかけられた恨みの呪いを祈祷ではね返す、呪術の力を示す話とも言える。右と左の呪術の戦いである。しかし、平安京の守り神とされた稀代の陰陽師・安倍晴明に鬼女は撃退されるが、一時力を失っただけのようで、いつまた現れるか知れない。

 

 「能・鉄輪」では、安倍晴明の存在感もかすむほどの、捨てられた女の凄まじい恨みを緩急鋭い謡や囃子と、なまなましい型で伝える。だが、この話は、単に女の恨みの凄さを伝えているだけではない。それは、表の話で、本当は貴船神社の奥宮の存在の怖さを伝えているのである。伝承では「貴船明神」が降臨したのは丑年丑月丑日丑刻であったという。貴船神社の奥宮の境内には「牛一社」という小さな祠がある。主祭神は「木花咲耶姫」(コノハナサクヤヒメ)だが、本来は「牛鬼」だったという!「牛鬼」とは乃ち魔物である。神ではない!

 

貴船神社の奥宮の境内にある「牛一社」

 

 「丑の刻参り」絵には「牛」が描かれるのは「牛一社」を示したものであるが、この「牛鬼」とは魔物である。貴船神社の奥宮には「神」が祀られているのではないのだ。「悪魔」を封印しているのである。呪いの藁人形は魔物の力を使った呪術。つまり、地獄に封印されている悪魔の力を借りて、呪殺する黒魔術なのである!願いは叶えてくれるが、その引き換えとして、自分の命を取られる。悪魔と取引した人間は必ず地獄に引きずり込まれ、二度と戻れなくなる。

 

 呪いの呪術は、イエス・キリストの十字架磔刑が元であるが、なぜ藁製の人形なのか。答えは「藁」の字にある。「藁」は「艸・高・木」で「高・木」は「高木神」のこと。造化三神の「高皇産霊神」の別名で天照大神のこと。艸:草冠は荊の冠を被ったイエス・キリストのことで、「生命の樹」である十字架に磔にすることを意味している。3本のロウソクは絶対三神だが、鏡像反転で、絶対三魔を呼び寄せるカッバーラの「死の樹」の呪術となる。光があれば闇もあるのだ。それも深い闇だ。

 

「牛一社」の御神木に打ち付けられた「呪いの藁人形」

 

 カッバーラの呪術に精通した闇の呪術師たちがいたのである。いや、今もいる。彼らもまた八咫烏たちと同様に「闇の仕掛け」を施している。それは一般人がいかにも食いつきそうな甘い言葉で誘ってくる。ある時はパワースポット、またある時はスピリチャル。チャネリングだ、宇宙存在だ、占いだ、悪霊祓いだ、心霊スポットだ、などとして、好奇心をそそる見えない世界へと誘うのである。これまでも何度も書いてきたが、不用意にオカルトの世界に近づいてはいけない。なにせ霊能者であっても騙されるのだ。

 

 呪術とは見えない世界との取引であり契約である。呪殺をするには、それに見合った対価を払う必要があり、自分の命が要求される。人を呪わば穴二つなのである!

 

<つづく>