「穢れ」と「言霊」の謎:その36

 

 「正座」が昔は「つくばい:蹲」と呼ばれていたことで、「土下座」の意味となり、モーセの幕屋、日本の葬式、イエスの岩屋、茶室となり、茶室の外に置かれた「水揚げ石」とはイエスの絶命を意味していたと、あちらこちらにつながってしまった。もはやこの先はどうなることやらである。しかし、ここで手を抜くと「穢れ」と「言霊」の本質的な謎に迫れない。よって、もう少々お付き合い願いたい。

 

 「正座」と「水揚げ石」については、どうしても触れておかねばならないものがある。それは「花街」と「古武道」である。いったいどこがどうつながるのか。

 

◆「水揚げ」をする「花街」

 

 『キャバクラ用語集』では、「水揚げ」のことを以下のように説明している。

 
水揚げとは、主に交際や結婚などをきっかけにキャストがお店を辞めることを指す。本来は漁業で使われる言葉だが、キャバクラなどのナイトワークを水商売とも呼ぶことから「水商売をあがる」と言う言葉が「水揚げ」にかけられている。お客さんが好きになったキャストに対し「〇〇ちゃんを水揚げしたい」と言うときは自分の願望を表している。キャストが「そろそろ水揚げされたい」と言うときは、結婚などでナイトワークを引退したいという気持ちの表れ。

 

 

 ちなみに、2021年に実施された「現役キャバ嬢・ホステス聞いたナイトタイム・アンケート」の調査結果では、43%が「水揚げされたい」と望んでいるらしい(笑)。まぁ、どうでもいい話なのだが、夜の世界というのは「穢れた水の中で生きる」ことである。よって「水揚げ」とはキャバ嬢が水商売から「足を洗う」ことである。この辺はヤクザの世界と一緒であるが、そもそも「水揚げ」とは、江戸時代から売春防止法施行以前の時代に芸妓、遊女が初めて客と寝所にて接することであった。そのとき処女を喪失することになっていたからである。

 そもそも「みずあげ」とは、商人が荷物を舟より下ろして初めて店頭に出すことを「みずあげ」と言ったことにちなんだという説がある。漁業の世界では船の荷物を陸に揚げることを「りくあげ」と呼び、漁獲高のことを「水揚げ」と呼ぶ。一方、万葉時代には処女を
「未通女」と書いて「おとめ」と呼んだので、未だ男性に逢わない若い女性を「揚げる」ため、これを「未通揚げ」と呼んだとある。「アゲアゲ」のパーティーというのも同じなのだろうか(笑)。

 遊女の場合、
「禿」(かむろ)から「新造」を経て、一人前のお披露目をした後に初めて客と同衾することが「水揚げ」であった。この「水揚げ」を通して、遊女は一人前となり、事実上お客をとるようになるのである。但し、「芸妓」の場合はそれまでの年少芸妓、見習い芸妓の立場から、一人前の芸妓になる通過儀礼的な側面が強かったという。それに続いて特定の旦那を持つ、という段階を踏むことが多く、「水揚げ」に選ばれる客は、その道に熟達した通人(つうじん)の中から、特に財力の豊かな者が、抱主の依頼に応じたり、その承認のもとに自薦したりしてこの任に当たるのが常であったという。

 

祇園の「芸妓」 

 「任に当たる」という表現が妙に刺さる(笑)。だが、これまた非常にユダヤ的である。なぜなら、こうした遊女の仕組みの起源は「平安京」にあり、それが京都の「祇園」(ぎおん)の花街となったからで、江戸時代以降の遊女の仕組みを調べると、そこはあくまで「商売」の話ばかりとなってしまう。それでは花街と「水揚げ」の本質は理解できない。「祇園」は京都市中央部、東山区の「八坂神社」を中心とする地区にある。本連載でも書いたが東山には 
「平安京の三大葬送地」の一つである「鳥辺野山」があり、古代にはここで貴人たちの遺体を鳥に食べさせる「鳥葬」が行われていた。鴨川の向こう=平安京の外にある場所である。つまり、都の中に穢れを入れさせない装置としての「遊郭」が置かれたということではないのか。

 

 「祇園」という地名は八坂神社の旧称「祇園社」(祇園感神院 :かんしんいん)にちなむものである。八坂神社西門前から鴨川以東の四条通南北両側一帯のことで、現在も京都の代表的な花街である。戦国期には荒廃したが、江戸初期頃から、八坂神社や清水寺への参詣者を相手に水茶屋が軒を並べて門前町を形成するようになった。「茶くみ女」が妍 (けん)を競い、1713年(正徳3)には祇園町北側の内六町が開かれ、やがて京都の遊里の中心は「島原」から「祇園」に移った。この「島原」とはもう一つの花街で、島原は寛永17年または寛永18年に六条三筋町から移転した日本初の幕府公認の遊女街であった。

 


 

 「祇園社」は現在の「八坂神社」で毎年7月に催される「祇園祭」で有名だが、この「祇園社」は656年頃に建てられ、「牛頭天王」(ごずてんのう)を祀っている。「牛頭天王」は日本における神仏習合の神で、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた神である。「蘇民将来」伝説の「武塔天神」と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。簡単にいえば国津神「スサノウ」のことで、スサノウを祀っているのは古神道の物部氏である。つまり、現在は三つ巴の神紋を掲げることで表は秦氏系の神社だが、「祇園社=八坂神社」とはもともと物部氏の社だったのである。

 

 「祇園社」が物部氏の社だったといえるもう一つの理由がある。それは「祇園社」という名前に表れている。「祇」は音が「キ・ギ」だが、訓読みは「くにつかみ」なのである。天のかみを「神」と書くのに対し、地のかみを「祇」とする。「祇園」という名称がいつ発生したのかは分からないが、最初からここは「国津神の園」、物部氏の土地だったのである。と考えると、なぜ東山の地に国津神の社があり、そこを「祇園」という名前で呼んだのかも見えてくる。要は秦氏がここに「物部氏」と「穢れ」を集めたのである。

 


 だが、これは逆に考えると、「穢れ」を除くための呪術装置でもあったと考えられる。「娼婦の起源は巫女」「遊女は聖なる存在だった」とする説がある。聖なる存在=巫女と交わることで穢れを落とすという考え方である。これを「飛躍と偽善にみちた幻想の産物ばかりである」と唱える研究者がいるが、それはあくまでも「遊女=売春婦」ということを前提としており、その本当の起源を遡っていない。

 

 鎌倉時代には巫女を養っていた多くの神社や寺院が破綻し、生活の糧を求めて旅に出る巫女が現れ「歩き巫女」と呼ばれるようになった。巫女は主に各地で呪術を提供していたが、売春とも広く関係していたとされる。しかし巫女が売春をする宗教的な理由は知られてはいない。この「歩き巫女」とは特定の神社に所属せず、全国各地を遍歴し「祈祷・託宣・勧進」などを行うことによって生計を立てていた。旅芸人や遊女を兼ねていた「歩き巫女」も存在したため、遊女の別名である「白湯文字」(しろゆもじ)「旅女郎」(たびじょろう)という呼称でも表現される。

 

 「歩き巫女」は「鳴弦」(めいげん)によって託宣を行う「梓巫女」(あずさみこ)、熊野信仰を各地に広めた「熊野比丘尼」(くまのびくに)などが知られるが、この「鳴弦」とは「鳴弦の儀」のことで、「弦打の儀」(つるうちのぎ)とも呼ばれる。弓に矢をつがえずに弦を引き、音を鳴らすことにより気を祓う魔除けの儀礼である。魔気・邪気を祓うことを目的とするが、「つるうち」という言葉は「鶴討ち・鶴打ち・鶴撃ち」という意味があったのではないだろうか。「鶴」とは「鳥」である。原始キリスト教の象徴である。よって、物部氏が鶴=原始キリスト教・秦氏に討たれた、ということを伝えているのではないのか。

 

「鳴弦の儀」(宮地嶽神社)

 

 さらに、鳴弦」が「鳴弦の儀」と「弦打の儀」の2種類の呼び名があるのは、「鳴弦」の場合は秦氏が行う神事の場合の呼び方で、「弦打」が物部氏が行う神事の場合の呼び方なのではないのか。「鳴」の字は「なく」なら「鳥・虫・獣が声を出す」ことで、「なる」なら「物が音を発する」ことで「雷鳴」などに使う。「ならす」なら「音を出すようにする」ことである。だが、根本は「口+鳥」で、鳥=神とすれば、「神の口から出る音」となる。一方の「弦打」を「鶴を討つ・撃つ」と考えた場合、物部氏による秦氏への呪詛となる。


 「歩き巫女」は「鳴弦」によって託宣を行う「梓巫女」と熊野信仰を各地に広めた「熊野比丘尼」がいたというが、「梓巫女」とは「イエス・キリストの巫女」を意味する。イエス・キリストの巫女とは「マグダラのマリア」のことだ。「梓」は「木+辛」で、「十字架を立て、神を木に架けたたことでつらい」という意味が込められている。イエス・キリストが十字架で磔刑となった時、その前にいたのは母マリアとマグダラのマリアである。「巫」という字が「坐」と同様に2人の罪人とともに十字架に架けられたイエス・キリストを示す字である。

 

 マグダラのマリアを「娼婦」としたのは、後世のキリスト教であり、断じて娼婦ではない。マグダラのマリアは女十二使徒の筆頭である。日本の場合、巫女が託宣を下ろす場合、そこには男性の審神者(さにわ)が必要で、審神者は秦氏の預言者のことである。一方の巫女は全て物部氏系であるため、「梓巫女」とは原始キリスト教=神道を伝えるための巫女だったことになり、一方の「熊野比丘尼」は八咫烏の遣いとなる。熊野は八咫烏の聖地だからだ。

 

「歩き巫女」

 

 「歩き巫女」は「ワカ」「アガタ」「シラヤマミコ」「モリコ」とも呼ばれる。ワカ」とは、若宮と呼ばれる神社に仕えていた巫女のことで、若宮は神道の宮だから秦氏に仕える巫女となる。「アガタ」「シラヤマミコ」「モリコ」は「山伏の妻」のことをいう。山伏は修験道の修行者のことで、 山を神や仏に見立てて「山に伏す」と表す。つまり、山に降りてくる絶対神を奉ずる物部氏の古神道、ユダヤ教徒である。つまり「梓巫女」と「熊野比丘尼」と同じことを表している。

 

 民俗学者の柳田國男によれば、「歩き巫女」はもともと「信濃巫」「ノノウ」(「のうのう」と言う呼び声あるいは聖句から)と呼ばれる諏訪神社の巫女で、諏訪信仰の伝道師として各地を歩いていたという。もし、そうなら「梓巫女」と「熊野比丘尼」とは話が違ってくる。なにせ諏訪大社の信仰なら古代ユダヤ教の話となり、明治まで鹿を使った「燔祭」を行っていたからだ。さらに「ノノウ」は現在の長野県東御市から出て、日本各地を歩いた「歩き巫女」で、戦国時代には甲斐武田氏のためにこの巫女を訓練し、情報収集に使ったといい、これが「くの一」として呼称されることがあるというのだ。つまり女忍者である。

 

 筆者の知り合いで「八咫烏」の家系につながる霊能力者の方がいるのだが、その方と話した際に「歩き巫女は間諜(かんちょう:女スパイ)だから、様々な武将から情報を収集する役目を担った。中には遊女としてその役目を担った者もいた」と告げられた。ならば、巫女が女スパイとして活動するために娼婦の姿となっていた者もいたこととなる。現代の女スパイが体を使って外国の高官の情報を得るのと同じだ。実際「八咫烏」はある意味で日本最古の諜報機関でもある。江戸時代の虚無僧(こむそう)は僧の姿で全国の情報を収集、それを京都に集めていたことを考えれば、江戸時代の諸国の遊郭で働いていた遊女の中には、確実に女スパイとしての巫女がいてもおかしくはない。

 

 

 柳田國男によれば、歩き巫女たちは、長野県小県郡にあった「祢津村」(ねつむら)のあたり(現在の東御市中央部)に巫女コミュニティを構えることになったが、後に「死人の口をきく」口寄せを行う巫女として各地に再びさすらうこととなったという。各地でマンチあるいはマンニチ(万日供養から)、ノノウ、旅女郎(新潟)、飯縄あるいは飯綱(京都府下)、コンガラサマ(舞う様がミズスマシに似るため、岡山県)、をしへ、刀自話(島根県)、なをし(広島県)、トリデ(熊本県)、キツネツケ(佐賀県)、ヤカミシュ(伊豆新島)と呼ばれた歩き巫女たちは、17~8歳から三十代どまりの美女で、関東から近畿にいたる各地に現れ、「巫女の口ききなさらんか」と言って回ったという。

 

 総じて神を携帯し各地を渡り歩き、「竈拂ひ」(かまどはらひ)や「口寄せ」を行ったという。「外法箱」(げぼうばこ)と呼ばれる小さな箱を舟形に縫った紺色の風呂敷で包んで背負い、白い脚胖に下げた下襦袢、尻をからげて白い腰巻をする、という姿で、2~3人連れ立って口寄せ、祈祷を行い、春もひさいだので、山梨、和歌山県辺りでは「白湯文字」というのだとしている。この「外法箱」とは、外法の源を秘め入れた箱」だという。 「市子」(いちこ)、「口寄」(くちよせ)などの巫女が、「呪法」「妖術」に使う偶像を入れて持ち歩き、術を行なうとき、よりかかったり、そばに置いたりしたものだという!

 

「口寄」

 

 正しい道を外れることを「外道」(げどう)というが、「外法箱」とはやってはならない呪いの術をかけるための道具をいれた道具箱のことなのだ。柳田國男は、これらの巫女の行う儀式は、外法箱に枯葉で水をかけ、うつ伏して行ったとしている。中の「神」は確かではないが、堀一郎によれば「五寸ほどのククノチ神(弓を持った案山子)像、捒物のキボコ(男女が合体している木像)、一寸五分の仏と猫頭の干物、白犬の頭蓋骨、雛人形、藁人形」が入っていたという記録がある。また「呪いの藁人形」が登場してしまった。しかし、なんで猫の頭を干した(乾燥させた)ものや、白犬の頭蓋骨なのか。

 

 「外法」とは、「仏法以外の教法。仏教以外の思想や宗教。外道。」「人の髑髏(どくろ)を用いて行う妖術。外術(げじゅつ)。」とある。つまり、仏法の正しい教えからはずれた法術のことで、これは「黒魔術」である。一般に人がむやみに近づいてはならない世界である。どうやら、再び「呪い」の世界に足を踏み入れる必要がありそうである。

 

<つづく>