「穢れ」と「言霊」の謎:その33


 日本人は古来より「言挙げ」による天罰を恐れ、どんな時にも「かしこまる」生き方をしてきた。 神道の祝詞「かしこみかしこみ」を表す漢字の表現には「恐み畏み」「畏み畏み」「惶み惶み」「謹み謹み」「恐み恐み」があるが、そこには皇祖神に対する畏敬の念を持ち続け、奢ることなく、慎み深く生きよという意味が込められている。だからこそ、日本人は何事に「かしこまりました」という表現を用いてきたのである。

 

 もちろん「畏(かしこ)まる」相手は皇祖神・天照大神で、乃ち磔刑で亡くなった自分たちの救世主イエス・キリストである。しかし、なぜ日本人はどこまでも「畏まる」のかといえば、それは「言挙げ」によって皇祖神の逆鱗に触れることだけではない。日本人がDNAレベルで最も「畏(おそ)れる」のは、自分たちが十字架という木に架けて殺してしまった救世主の「呪い」である。それは救世主の怨霊と言ってもいい。なぜなら、日本人が古来から畏れるのは、常に「怨霊」だからである。しかし、救世主が大和民族を呪うのではない。2000年前の大和民族の祖先たちが放ってしまった「言霊」に対する恐怖心なのである。 

 

 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。(「マタイによる福音書」第27章22−26節)

 

 

 これこそ、大和民族を根底から支配する「言霊」であり、自分たちの神に対する最大の冒涜となる「十字架につけろ」という怖ろしき「言挙げ」だったのである。日本人は古来より「怨霊」を怖れてきた背景には「御霊信仰」(ごりょうしんこう)がある。御霊信仰とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」(ごりょう)とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰のことであるが、ここにも「言霊」が隠されている。「御霊:ごりょう」とは読んでいるものの、これは「おんりょう」であり、「怨霊」を「御霊」と呼ぶことの中に言霊の技があるのだ。

 

◆「ありがとう」という言霊

 

 日本人なら誰しも当たり前のように「ありがとう」「ありがとうございます」と言う。もはや当たり前過ぎて、誰もこの言葉の意味を考えて使ってはいない。「有難う」という言葉は、形容詞の「有り難し」の連用形「有り難く」の「く」の部分が「う」と発音されるようになり、「有難う」という言葉になった。 「ありがとう」は本来「有ること」が「難しい」という意味を持っており、滅多にないことや貴重であることを指す。 その後、貴重な出来事に対しての感謝の言葉となり、現在は一般的なお礼の言葉として使われるようになったとされている。

 

 

 そもそもは「貴重な出来事に対する感謝」とあるが、「貴重な出来事」とはいったい何なのだろうか。別の辞書で「有り難き」を調べると、以下のように出てくる。


 (1)存在がまれである、むずかしい。 なかなかありそうにない。 めったにない。 

 (2)(特に、「ある」が世にある、生きる意の場合)世に生きることがむずかしい。

 また、「あり‐がた・い」 を調べると、まず「ありがた・し〔形ク〕」で「存在することがむずかしいの意」とあり、意味の説明として、以下の5つを挙げている。

 (1)存在がまれである、むずかしい。なかなかありそうにない。めったにない。
 (2)(特に、「ある」が世にある、生きる意の場合)世に生きることがむずかしい。生活しにくい。生き長らえにくい。
 (3)(めったにないくらい)優れている。立派である。
 (4)(その事柄、行為などがめったにないことで)またとなく尊い。かたじけない。もったいない。おそれおおい。
 (5)(好ましい状態や、人の好意などに出あって、めったにないことと感謝する気持をこめて)喜びたい気持である。喜ばしく思う。うれしく、喜ばしく思われる。かたじけない。

 

 さらに「有る・在る」を調べると、以下のように解説されている。

 

 目の前に見えるとか触れて固さを感ずるとか、何らかの感じをその人に起こさせるものを認めると共に、他の人もそれを認めるだろうと期待する(信ずる)場合、また、感覚を越えたものについても、思考の対象としてこれに似た情況が考えられる場合に、そのものが「ある」という。あるということは、直接にはこのような仕方を通してとらえるから、当の事物が我々の世界に現れること、そのものとして持続すること、どの位置かを占めること、何かとの特定関係(特に所有関係)を平均以上に有すること等を、結果的に表す。(例:「光があれば陰もある」)

 

 まとめると、存在がまれで「有ること」が難しいくらい滅多にないことや貴重であり、立派で尊く恐れ多いが、自分も他人も目の前に見えて触れたり感じることができることなので、喜ばしい、という意味だということだ。もはや何のことなのかと思ってしまうだろうが、答えは至極簡単である。それは「ある」という言葉に集約されているのだ。なぜなら、それは「神の呼び名」だからである。

 

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 神は、更に続けてモーセに命じられた。
「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名。」(「出エジプト記」第3章14-15節)

 

  イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(「ヨハネによる福音書」第8章58節)

 


 

 「わたしはある」とは「神の呼び名」だと絶対神ヤハウェはモーセを通じて、イエス・キリストはイスラエル人たちに直接伝えたのである。神が人間の前に直接現れて、自分の「呼び名」を告げたのである。絶対神が人間の前に顕現して、直接語ったのだ。こんな出来事は「滅多にない」ものだ。人類創世以来、今から3400年くらい前に1回、さらに2000年前のたった2回しか起きていない出来事なのであり、さらに絶対神が自分の「名前」を語っているのである。それこそ簡単に人類を滅ぼすことができるような恐れ多い存在で、しかも全人類の罪を背負ってくれた尊い存在が、われわれ大和民族の前に現れたのである。そんな「有り難い」ことは他にはないのである!

 ここは、「言霊」の謎解きをする上で最も重要な点である。なぜなら、神の名とは、神の本質でもあるからだ。「わたしはある」とは、「神は過去に存在し、現在も存在し、未来永劫存在する」ということである。よって、この「わたしはある」とは、神の自在性、独一性、永遠性を現しているといわれれる。「ある」は英語では「Be」であり、「わたしはある」を英語の聖書では「I am that I am」と訳している。非常に哲学的な話である。だが、英語で考えてはいけない。言霊が宿っているのは古代ヘブライ語であり、乃ち大和言葉だからだ。

 

 「かしこまる:畏」という字の日本だけの意味には「かしこし」「かしこまる」があり、ともに「ありがたい」「感謝」の意味が込められているのは、霊体のヤハウェの声を聞いたことがあり、古代ユダヤの地で骨肉の体を得て現人神になったヤハウェ=イエス・キリストに直に接したことがあるのは、大和民族の先祖とそこにいた人間だけだからである。厳密にいえば、磔刑で亡くなったイエスが復活体となって福音を説きに行った場所にいた人間も含まれるが、それとて全て失われたイスラエル民族が住む場所に限られる。イスラエル民族のDNAを持った人間だけである。

 

 

 失われた10支族、失われた2支族が住んでいた場所で、復活体のイエス・キリストが福音を伝えに行った場所は、古代の日本と古代のアメリカだけである。失われた10支族、失われた2支族は、古代イスラエル王国が滅亡して、ユーラシア大陸に広がった。だが、そこには福音を伝えに行った形跡は見られない。なぜかと言えば、移動した国に住んでいた別の民族と混血してしまったからだ。イスラエル民族は、特にハムの末裔との婚姻は、厳格に禁じられていた。約束を破った民のもとには訪れなかったのである。

 

 さらに「かしこまる:畏」という字の日本だけの意味の中に、「申し訳ないと思いながら感謝する」「謝りの言葉を言う」というものがある。これは自分たちの救世主だったのに、十字架に架けて殺してしまったことへの罪の意識から謝罪をするのであり、自分たちの子孫が呪われるはずが、まだ生かされていることに対しての感謝と申し訳なさからきている。但し、日本人全員がそうだという訳ではない。あくまでもイエスの時代のユダヤの地にいて、イエスを救世主と信じきれなかった人たちの末裔=秦氏が行ってきた謝罪がこの字の意味に繋がっているのである。

 

 「その血の責任は、我々と子孫にある。」といった連中の末裔は、今も無神論者だったり、自民党員だったり、統一教会員だったり、創価学会員だったりするのである。つまり、天皇家と神道を滅ぼすことに加担している連中であり、mRNAワクチンを積極的に接種した人たち、もしくは他人に接種することを強制・推奨した連中は、「言挙げ」による「血の責任」を取らねばならない子孫たちなのであり、悪魔に魂を売った輩どもなのである。よって、終末の日までに「血の責任」をとらされることとなる。ヤマトの言葉で言挙げをしてしまった瞬間に、彼らの末裔の運命は定められてしまったのである。

 

荊の冠と五寸釘でイエスの血を流した責任

 

 「有り難い」とは、血塗られたイスラエル人の末裔との混血が広がってもなお、大和民族が皇祖神に滅ぼされず、現在も生かされていることに対する「感謝」であり、人類の代わりに全ての罪を背負ってもらえたことの「感謝」でもある。それなのに、大半の大和民族は今でも体たらくな状態にあり、すっかり皇祖神の教えすら忘れてしまっていることに対する「謝罪」の言葉なのである。だから、何につけても「有難う」「有難うございます」「有り難い」と言い続けてきたのである!ある意味で、これは大和民族が自分たちに自身にかけている呪術ともいえる。つまり、「ありがたい」という言葉こそが日本人が日本人であることの意味なのだ。

 

 だが、注意しなければならない言葉がある。それは「ありがたや」である。「ありがた‐や」は「有難屋」と書く。「有り難い」と同じ意味だと考えている人は、他人に施しをしてもった時などに「ありがたや〜」などと言うが、「ありがたや」とは、「神仏をむやみに信仰する人」「権威者の言うことを無批判に尊ぶ人」のことだからだ。つまり、現在のカルト宗教にハマっている人たちや、自民党やNHK、大新聞の言う事を無批判に信じてしまう人たちのことである。「ありがた‐や」の「や」は「ヤー」で「ヤハウェ」のこと。祝詞や和歌でない限り、みだりに語尾に「や」を付けてはならない。滅ぼされることになる。

 

<つづく>