「穢れ」と「言霊」の謎:その32


 「言霊」と「祝詞」の関係について、非常に興味深いことを書かれているのが、「白山比咩神社」(しらやまひめじんじゃ)の村山和臣宮司である。石川県白山市三宮町にある「白山比咩神社」は、富士山・立山と並ぶ日本三名山のひとつである霊峰『白山』(はくさん)を信仰する神社である。「白山」から全国に広がる白山信仰と全国に鎮座する約3000社もの白山神社の総本社である。


 「白山比咩神社」を初めて知る方は神社名の読み方が分からない方も多いが、『比咩』 =は「ひめ」 と読み、お姫様の「ひめ」と同じ意味となる。が、一方で「秘め」でもある。これぞ「言霊」の呪術である。創建は古く、第10代・崇神天皇7年(前91)、本宮の北にある標高178mの舟岡山(白山市八幡町)に神地を定めたのが創建と伝わり、応神天皇28年(297)には手取川の河畔「十八講河原」へ遷ったが、氾濫のためしばしば社地が崩壊するので、霊亀2年(716)に手取川沿いの「安久濤の森」に遷座したとされている。

 

「白山比咩神社」

 

◆「言霊」と「丁寧語・謙譲語・尊敬語」

 

  村山和臣宮司は日本語と祝詞について、以下のように講話で話されている。

 

 私たちが日常使用している敬語は尊敬語、謙譲語、そして丁寧語であります。近頃の学校教育では敬語を教えない傾向にありますが、だからといって、目上の人や年長者にぞんざいな口調で話すのはいかがなものでしょうか。 ましてや最近、公の放送でも「○○だそう」と言って「です。」ぬきが多く使われています。 また、若い人々の会話では「マジで」・「スゴイ」・「ヤバい」この三つの言葉で物事の会話が成り立っているという恐ろしい時代になってしまいました。

 尊敬語とはたっとび、うやまうこととして、人や、その人に属する物ごと、動作を高めて表現することばであります。謙譲語とはへりくだって、人に譲ることとして、話題の人、主に自分や自分側の人に属する物ごと、その行なう動作などを含めて表現し、その相手方を高めることばであります。丁寧とは丁重ということで、ゆき届いて、礼儀正しいことをさし、注意深く大切にあつかうこととしています。 従って丁寧語とは事柄をていねいに述べて、相手に敬意をあらわすことばとしています。「口は禍いの元」といいますが、陰口、ため口、悪口等は厳につつしまなければならないと思います。

 

 

 「口は禍いの元」とは、言ってはならない言葉を発する=「言挙げ」をすることで、神に殺されることを警告したものなのである。さらに、日本語の中でも最も外国人が理解できないのが敬語である「謙譲語・丁寧語・尊敬語」の使い分けである。自分より下の人間に対しては「謙譲語」を使い、自分と同等の人には「丁寧語」、そして自分より上の人には「尊敬語」を使い分ける。現代の日本人でも、これを正しく使い分けることは至難の業だが、それは日本人の多くが「言霊」を怖れなくなっている証である。

 

 誰を尊敬するのかといえば、「かしこみかしこみ」の神である。下手な言葉を放つ=「言挙げ」をすることで滅ぼされないように注意して言葉を選ぶ必要があったのである。そして、たとえそれが目下の相手であっても、間違った日本語=大和言葉を使うことは、神を見下すことになり、「言挙げ」をしたことで滅ぼさることになるということなのである。

 

 村山宮司は正しい日本語の使い方について、さらに続けている。

 

 神様にお供え物をする時は丁重に、捧げ持ってお供えします。つまり三方(さんぽう)でも折敷(おしき)でも鼻息がかからないように、目の高さで持ち、更に覆面(マスク)をして恭うやうやしく丁寧にお供えするのであります。 もちろん神饌調理でも浄衣にマスクは欠かせません。

 祭典ではこの後、祝詞奏上となるのですが、この祝詞も恭しく且、丁寧に奏上しなければなりません。喉に力を入れ、いわゆる濁声(だみごえ)は適しませんし、澄んだ声で奏上し祝詞の最後には恐み恐み(かしこみかしこみ)も申すと言いますが、この「かしこみ」も以前は「恐み畏み(おそれみかしこみ)」と書かれており、又「畏み畏み(かしこみかしこみ)」「惶み惶み(かしこみかしこみ)」とか「謹み謹み(かしこみかしこみ)」と記されておりましたが、現在では「恐み恐み(かしこみかしこみ)」が多くなりました。いづれにしても、恭しく奏上するのであります。

 

 ご神前には鏡が備えてあります。これは「彼我見(かがみ)」と読めば解りやすいと思いますが、彼方の自分と対峙するものであり、自分の「祈り」を写し出すのであります。「祈り」とは以前にも申し上げましたが、強調の「い」に「宣る」つまり宣言するということで、神様に強く宣誓するといった意味であります。 そしてその「いのり」全てが丁重に扱われた時、神様からも丁寧にお導きいただけるものと思います。つまり神様でも人でも、自分が丁寧な言葉で相手を丁重に扱えば、相手も自分を丁重に扱ってくれるのであり、ぞんざいに扱えば自分も相手からぞんざいに扱われるのであります。

 

 

  宮司の説明で興味深いのは、「祈り」とは強調の「い」に「宣る」=神様に強く宣誓するという意味だとしている点である。つまり「祝詞:のりと」の「のり」は「宣り」であり、神への誓いということなのである。さらに「鏡=彼我見」だという。これを字のままに読めば「彼:か=神が我を見る」で、神社に備えられた「八咫の鏡」の形代である「鏡」を神の姿にしていることが分かる。なにせ記紀神話では「八咫の鏡」は天照大神の姿が映ったもので、「鏡を私だと思って祀りなさい」とニニギノミコトに命令している。

 

 さらに祝詞の最後に言う「かしこみかしこみも申す」には、5種類の表記がある。以前は「恐み畏み」と書かれていたが、現在は「恐み恐み」が多いと話されているが、なんで「恐み・畏み・惶み・謹み」が全て「かしこみ」なのか。それはどの漢字を当てようが大切なのは「かしこみかしこみ」という音なのである。「濁声は適しませんし、澄んだ声で奏上し」と宮司が話されているように、濁音のない澄んだ声でないと神への「祈り」にはならないと言っているのだ。つまり、祝詞をあげるのは神への誓いであるがゆえ、穢れた言葉を放つと「鏡=神」から自分に跳ね返ってくる、滅ぼされるという警告である。

 

◆なぜ日本人は「かしこまる」のか

 

 なぜ、日本人は「承知しました」という意味で、「かしこまりました」と言うのだろうか。「かしこまりました」は、「わかりました」や「理解しました」という意味をもつ言葉で、接客などにおいて、お客様に対して使われることが多い表現である。 「かしこまりました」は「わかりました」の謙譲語で、漢字で書く際は「畏まりました」となるが、読みにくいため、ひらがなで使用されることが多い。 「畏まる」には目上の人の前などで、「恐れ敬う気持ち」を表して謹んだ態度をとるという意味がある。要は一般人も「かしこみかしこみ」と言っているのである。

 



 「畏まる」には4つの意味がある。
「①恐れ慎む。恐れ敬う。恐縮する。」「②わびる。謝罪する。」「③慎んで正座する。」「④慎んで命令を受ける。」であるが、これらは全て「相手を神だと恐れ敬え」という「言挙げ」をしないようにという注意なのである。会話やメールなどで、あまりにもかしこまった言い方をすると「へりくだりすぎ」と思われたり、嫌味を言われているような気になってしまうものだが、その根源は「言挙げ」への恐怖があるためなのだ。

 

 「畏」という漢字の意味を調べると、以下のように書かれている。

 

 ①「おそれる」
  ア:「危険を感じて不安になる」「危険を感じてためらう」「危険を感じて身体や手足がふるえる」
  イ:「よくないことが起こるのではないかと心配する」
  ウ:「不吉なものとして避ける」「嫌う」
  エ:「危険を感じて従う」
  オ:「近づきがたいものとして尊敬して礼儀正しくふるまう」「尊敬する」「尊敬して従う」


  オの用例としては「畏敬」(いけい)がある。「畏敬の念を抱く」などと使われる。アの用例に「畏縮」(いしゅく)があり、これは「おそれて縮こまること。かしこまって小さくなること。」という意味だ。つまり「緊張して縮こまること」を「いしゅく」と言い、一般的には「萎縮」と書く。どちらも「いしゅく」だが、「畏縮」は「緊張して」という意味で、「萎縮」は「生気が無くなること、しおれること」という意味である。「萎(な)える」ということだが、「生気が無くなる」とは「死」を意味する。神に滅ぼされるからだ。

 

 ちなみに「萎」という漢字は、音読みで「イ」、訓読みで「な」「か」などと読むが、「萎む」とした場合、何と読むのか。「大辞泉」によると、「萎む」の正しい読み方は、「しぼむ」である。「風船がしぼむ」などと使われるが、「萎」の字の意味は「いっぱいにふくらんでいたものが張りを失い、縮む」である。ポイントは「張りを失う」である。なんで「張りを失う」のかと言えば、自分たちの救世主が十字架の上で亡くなったからであり、救世主イエス・キリストの体が張りを失った=生気が無くなった=死んだ」からである!

 



 もはやこれだけでも十分だが、「畏まる」には他にも意味がある。


 ②「つつしむ」
  ア:「間違いや深く考えずに行動したり言ったりする事がないように気をつける」、「注意深くする」
  イ:「控え目にする」
  ウ:「大切にする」、「価値のあるものとして重くみる」

 ③「恐ろしい目にあう」、「危険にあって警戒する」

 「何事も控えめにする」という日本人の性格の基にあるのは、「慎む」「謹んで」という言葉にあらわれているが、これらも全て「言挙げ」によって神に罰せられないように生きるためであり、決して「大言壮語」な生き方をしてはならないと伝えていることなのである。さらに、「畏まる」には日本のみで用いられる意味がある。

 ④「かしこ」
  ア:「婦人が手紙の末尾に書く語。「つつしんで申し上げました」の意味を表す。」
  イ:「おそれ多い(身分の高い人や尊敬する人などに対して、 失礼になるので申し訳ない)」、「もったいない」
  ウ:「優れていること」、「すばらしいこと」

  エ:「物事の善悪・損得などの判断が優れていること」、「頭がいいこと」

 

 手紙の末尾に「かしこ」と書かれた手紙を受け取ったのは、いったいいつだったか忘れてしまった。それくらい日本人は「かしこ」という言葉を手紙に添えなくなった。この「かしこ」に当てる字は「畏」「恐」「賢」である。「畏」と「恐」は「かしこまる」だが、「賢」は「思慮・分別などに優れていること、利口なこと」を表す。つまり、子供に「お利口さん」というのは、「思慮・分別があり、さらに言葉の使い方に優れ​ていること」を言っているのである。神に滅ぼされないように言挙げをしない賢い子供ということで、「頭が悪い」というのは「言葉の使い方が悪い」「言葉の使い方が間違っている」ということなのだ。

 


 

 「畏まる」にはあと2つ日本のみで用いられる意味がある。


 ⑤「かしこし」
  ア:「おそれ多い(身分の高い人や尊敬する人などに対して、失礼になるので申し訳ない)」、「もったいない」
  イ:「ありがたい」
 ⑥「かしこまる」
  ア:「身分の高い人、目上の人の前などの前で尊敬する気持ちを表し、控え目な態度をとる」
  イ:「控え目な気持ちを表し姿勢を正して座る」、「正座する」
  ウ:「命令・依頼などをお受けする」
  エ:「堅苦しい感じがする」、「窮屈である」
  オ:「申し訳ないと思いながら感謝する」
  カ:「謝りの言葉を言う」
  キ:「言い訳する」
  ク:「言動を控え目にする」


 上の説明に「ありがたい」「申し訳ないと思いながら感謝する」「謝りの言葉を言う」というものがある。日本人の根幹をなす言葉である「感謝」、つまり「ありがとう」である。「ありがとう」とは「有難う」で、「有り難い」「有難き」と使う。この「感謝」を表す「ありがとう」という言葉にこそ、日本人と言霊の奥義が隠されている。

 

<つづく>