「穢れ」と「言霊」の謎:その26

 

 実は「指切り」の起源は遠い昔、平安時代に遡るという。平安時代には検非違使庁によって罪人に対し腕を切り落とす断手刑が実施されており、対して指を切り落とす「指切り」は鎌倉時代初期には味方討ちをした御家人もこれを科した記録がある。この「指切り罰」は江戸時代初期まで盗人、撰銭令(えりぜにれい)の違反者、キリスト教徒へ科刑した資料が散見されており、江戸時代に入ると指切りの法制自体の記述はないが、「指詰め」の形で私刑として存続したようである。

 他にも、室町幕府が永正9年(1512年)8月に定めた『撰銭令』の条例(令自体は永正2年に発布)には、違反した者は、
「男は頸(くび)をきり、女は指をきらるべし」との肉体刑が記されている。12世紀末の『吾妻鏡』には、戦時中、御方討(味方討ち・同士討ち)をしてしまった者は、「指切の刑」に処されたことが記述されている。「指詰めよ」というならヤクザと一緒ということだが、問題は「検非違使」(けびいし)である。

 

 検非違使は、日本の律令制下の令外官の役職であり、「非違を検察する天皇の使者」の意。簡単にいえば、検非違使とは、平安京の「非」法・「違」法を「検」察する官職のことだ。 平安京内における違法行為を摘発し、犯罪人を捕らえる役人として誕生。 やがて時代とともに、訴訟及び裁判までも扱うようになり、平安時代において強大な権力を持つ組織へと発展したもので、戦前の特高警察、戦後アメリカが作らせた検察と同じだと思えばいい。

 

検非違使の様子

 

 検非違使は平安時代の弘仁7年(816年)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇によって軍団が廃止されて以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果、平安京の治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務していた。官位相当はない。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。

◆現代の検非違使「自衛隊」


 検非違使の何が問題なのか。検非違使は「軍隊」ではないが、「軍事力」を持つ組織なのだ。何かと似ていないだろうか?そう、「自衛隊」である。「自衛隊」というのは、実際は軍隊であり、世界有数の軍事力を誇っているにもかかわらず、日本政府はずっと「軍隊ではない」と言い張っている。Global Firepowerが、世界145カ国の軍事に関わる総合力を高い順に評価したものが「軍事力ランキング」で、各国の軍備・兵力・財政・地理的条件・資源など、50以上の項目からなり、基準として判断する。そのランキングで、日本は2023年に8位にランクインしている。

 

 2022年の5位から後退した形であるものの、航空機やヘリコプター・装甲戦闘車両の保有数でトップ10入りしており、特殊任務航空機群の強度ではアメリカに次ぐ2位であり、海上自衛隊と航空自衛隊の評価が高い。兵力の点で他国に劣るため8位にとどまっているものの、イタリアやフランスより上だ。つまり、世界中は自衛隊を「軍隊」として認識しているが、日本だけ「軍隊ではない」と言い張っているのだ。なぜか。それは「言霊」のせいである。

 

 

 今さらながら、自衛隊とは何かであるが、自衛隊は、日本の保有する軍隊もしくは防衛を主任務とする非正規の実力である。 陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の3軍種からなり、最高指揮官である内閣総理大臣及び隊務統括を担う防衛大臣による文民統制の下、防衛省によって管理される。英語では「Japan Self-Defense Forces」で、日本の保有する実力組織であり、国際法上は軍隊として取り扱われる。

 

 日本国内では「実力・実力組織」だが、海外では「軍隊」なのである。なんだそれ、という感じだが、実際に憲法で規定されているから「軍隊」と呼んではいけないのである。日本国憲法第9条の下、専守防衛に基づき、国防の基本方針および防衛計画の大綱の規定により、「国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛すること」を基本理念とする(自衛隊法第3条第1項)組織なのである。お分かりだろうか。「軍隊じゃないけど防衛組織だ」ということだ。それじゃ「検非違使」と同じじゃないか。そう、同じなのである。

 

 1950年(昭和25年)6月25日の朝鮮戦争に際して、アメリカ軍は日本国内に駐留していた部隊は国連軍の中核部隊として朝鮮半島に出動させることとなったため、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは7月8日に吉田茂首相に「日本の警察力増強に関する書簡」を送り日本政府に対し治安維持の強化を求めた。これに対して日本政府は国家地方警察(3万人)自治体警察(9万5000人)の枠外で政府に直属した組織警察予備隊(定員7万5000名)の新設を決定。8月10日、日本政府はGHQの指令に基づくポツダム政令「警察予備隊の設置に関する政令」を公布、警察予備隊が組織された。

 

1952年 警察予備隊

 

 1952年(昭和27年)4月26日、海上保安庁内に海上警備隊(定員6000名)が創設、8月1日の保安庁の新設に伴い警備隊に移管、再編され、同年10月15日、警察予備隊は保安隊(定員11万人)に改組された。1954年(昭和29年)に成立したMSA協定で日本は自らの防衛に責任を果たすよう義務付けられ、防衛力の増強が求められた。同年6月2日、防衛2法(防衛庁設置法、自衛隊法)が成立。この成立に際して、参議院で自衛隊海外派兵禁止決議が採択され、同年7月1日、防衛2法が施行。保安庁は防衛庁に改組された。同日、保安隊は陸上自衛隊となり、警備隊は海上自衛隊に改組されたほか、新たに空軍に相当する航空自衛隊が新設され、自衛隊が成立した。

 保安庁においては任務は警察予備隊、海上警備隊の任務を引継いだものであったが、自衛隊法において主任務は
「直接及び間接の侵略に対してわが国を防衛することとし、必要に応じて公共の秩序の維持に当たる」とした。この為の行動として、「防衛出動」「治安出動」「海上における警備行動」「災害派遣」「領空侵犯に対する措置」などが定められ防衛出動や領空侵犯に対する措置など防衛を主眼とした任務の性格が付与された。まぁ読めばその通りなのだが、どこまで行っても「軍隊」ではないのである。まぁウルトラ警備隊みたいなものだ。なんていうと怒られそうだが、実際そうなのだ。

 

 

 3.11東日本大震災の際、多くの自衛隊員が人命救助を始めとする任務で東北へ向かった。淡々と被災者たちを救助する姿にメディアを通じて見ていた日本人は感動した。「さずが自衛隊だ」と。だが、自衛隊が東北へ移動する際、大震災が発生した非常事態であったにも関わらず、路上で自衛隊員を見かけた人が自衛隊員を侮辱していた。「お前ら何してんだ」「制服着るな」「近づくな」などといった罵声を浴びせかける人もいたという。なぜか。自衛隊が嫌いだからである。

 

 なぜ自衛隊に罵声を浴びせかける人は自衛隊が嫌いなのか。それは「軍隊」だからである。「ハァ?」と言われそうだが、その人達の感情は「自衛隊=軍隊=戦前の記憶を呼び起こす存在」として嫌っているのである。人命救助のために命を落とした自衛隊員もいる。日本のために命を懸けているのに、非難されるのである。なぜ、こういう事態が起きるのかといえば、それは「言霊」のごまかしである。軍隊なのに「軍隊ではない」「自衛隊である」というインチキを無理やり続けているからからだ。

 

 「自衛隊をきちんと軍隊と認めよう」などと国会で言った瞬間、その議員は袋叩きとなる。「日本は憲法9条があるんだ」「平和を壊すのか」「平和憲法を理解してない」などなど、この議論になると頭に血が昇る人たちがものすごく多い。日本人が考えたわけでもない日本国憲法を「有り難いもの」「神聖なもの「侵さざるべきもの」と金科玉条の如くに考え人が圧倒的に多い。

 

 なんで、憲法改正の議論になると、日本人は議員から一般人まで冷静になれないだろうか。どうも子供の喧嘩のような議論になるのは、社会党の委員長が土井たか子の時から変わらない。その話し事態したくないと拒否してきたのである。なんでこんな事態が続くのだろうか。それは「言霊」と「穢れ」のせいなのである。

 

◆軍隊を廃した桓武天皇

 

 日本は島国である。対外侵略、外からの侵略ということを考えない時代があった。その影響によって、日本は今も非常に脳天気な民族になってしまっている。その元はどこにあったかといえば平安時代である。天智天皇から1世紀ほど下って、桓武天皇の時代になると、巨大国家「中国」との関係も安定し、当時の「唐」が攻めてくるというような心配もなくなっていた。そこで、桓武天皇はどうしたかというと、なんと平安京遷都に先立つ792年、国家の正規軍を廃止してしまった。つまり、軍隊、軍備を放棄してしまったのである。

 

 但し、完全に軍備がなくなったというわけでは無い。「諸国の兵士を廃止、健児(こんでい)を置く」と歴史の教科書にあるように、地方の有力者の子弟から選んで、廃止した軍隊の代わりに「国府」(現在の地方行政府)や「関所」の警護にあてさせた。当時の憲法に当たる「律令制度」は、ある意味で中国の制度の模倣であったが、中国の律令制度には軍隊は含まれていた。当然のことながら、島国ではない中国は近隣諸国を侵略すると同時に、周辺の異民族から侵略を受けた国でもある。よって軍隊は律令制度の中に組み込まれていた。

 

「唐」の領域

 

 日本では、軍隊のシステムを廃止してしまったが、実はまったく廃止したわけではなく、異民族に対する備えは一応残した。それは「蝦夷」(えみし・えぞ)に対する備えである。この蝦夷を制圧し、大和朝廷の意図に従わせるために派遣された軍団の長を「征夷大将軍」と呼ぶ。「夷」を征する将軍という意味である。この征夷大将軍は、東北地方をある程度まで平定し、武家政権が確立した鎌倉時代以降では、武門の棟梁として政権を握った人物が任命される役職となった。だが、任命するのは天皇である。

 

 蝦夷に対する軍団は残されていたが、都を守る軍団や朝廷の出先機関である地方の国府を守る軍団などは、全て廃止してしまったのである。そして、代わりに健児制という一種の自治警察のような制度を作ったのだ。もちろん、その背景には朝廷の財政難という事情もあったが、決してそれだけではない。なぜなら、大和朝廷は、平安時代が終わるまで、正規の軍隊を持たなかったのである。古今東西、世界の国の中で、中央政府が正規の軍隊を廃止してしまった国などない。日本だけが例外だったのである。

 

 疑問となるのは、もし戦争が起こったらどうするのか、ということであるが、軍隊の役割とは、単に戦争のためだけのものではない。軍隊は警察以上に治安維持に対して有効な能力を発揮するものだ。大規模な民衆暴動には、警察力だけでは対応できないことが多い。その場合、軍隊が派遣され、鎮圧にあたるというのは、20世紀の歴史を振り返っても、21世紀になった現在も変わらない。中国は天安門事件を軍隊で鎮圧したし、韓国は光州事件を鎮圧。アメリカは60年代からの黒人運動、暴動を何度も州兵を使って鎮圧してきた。

 

天安門事件を鎮圧する人民解放軍

 

 軍隊がなくなるとどうなるのか。それは「治安が乱れる」のである。平安時代なら、強盗、野盗、盗賊団のような無法者たちがどんどん力を持つことになる。普通なら警察が対応するが、警察力は軍事力ではない。ましてや相手側が武器をもっていたら警察だけでは鎮圧はできない。さらに軍事力もなかったわけで、となると無政府状態に陥ることとなる。実際、平安時代の後半、日本では、特に地方ではそのとおりになってしまっていた。

 

 だが、それは地方だけではなく、都も同じ状態だったのである。芥川龍之介の短編「藪の中」と「羅生門」を合わせて、黒澤明が作った映画『羅生門』は、カンヌ映画祭でフランプリを獲得した作品だが、この映画の冒頭では、妻を連れて都に行こうとした武士が、途中で野盗に襲われ、妻を奪われた挙げ句に殺されてしまう。つまり、この時代、平安京の周辺ですら治安が乱れていたのである。よって、「平安時代」というのは名ばかりで、朝廷が軍隊を廃止してしまったことで、本当は治安部隊が必要なほど、都も乱れていたのである。

 

黒澤明の映画『羅生門』

 

 羅生門は正式には「羅城門」だが、平安京の正門である。その正門が黒澤明が描いたように、ボロボロに崩れていたのである。つまり、それを修復するだけの予算が中央政府にはなかったことを示している。しかし、その一方で、同時代に栄華を極めた一族がいる。「藤原氏」である。藤原氏は摂政関白を独占、政治を支配するとともに、政治が乱れたもう一つの原因を作った。それが「荘園制度」である。

 

 荘園というのは、要するに私有地のことだ。しかも免税、無税の土地である。現代の宗教法人みたいなもので、自分たちだけの非課税制度の中で、どんどん荘園を増やし続けたのである。そして、自分の土地を藤原氏に名義だけ貸す、つまり形の上だけ献上して、免税の特権を享受しようという連中が出てきたのである。現代でいうなら、自国にほとんど税金を払わないGAFA+極悪人ビル・ゲイツのマイクロソフト、スターバックスコーヒーのようなもので、ロスチャイルドとロックフェラーが考え出した「タックスヘイブン」を藤原氏は1000年前に考え出していたのである。偉い。さすがだ(笑)。なんて言ってはいけない。

 

 都の治安維持をしたくても、疾うの昔に軍隊を廃止してしまったため、どうすることも出来ない。そこで朝廷が考え出した治安維持システムが登場する。それが「検非違使」なのである。だが、検非違使は軍隊ではない。では、いったい検非違使とは何なのか。

 

<つづく>