「穢れ」と「言霊」の謎:その25

 

 ヤクザは「指詰め」をするが、これは反省、抗議、謝罪などの意思表示として用いられてきた。一方、一般人は他人との約束を守る意志を示すため「ゆびきり(指切、指切り)」をする。これは、近世以降の日本において、約束の厳守を誓うために行われてきた、一般大衆の風習である。海外からすると、なんと怖い民族なのだろうかと思うに違いない。

 

 「指切拳万、嘘ついたら針千本呑ます」

 


「ゆびきり(指切、指切り)」


◆呪術「指切り」と「呪いの藁人形」

 

「ゆびきり」は、フック状に曲げた小指を互いに引っ掛け合い、唱えごとをする。呪術である。唱えごとは、「指切拳万、嘘ついたら針千本呑ます」だが、約束を違えたときに課される名目上の罰を内容とする「まじない」の言葉を共に唱えて意思を確認し合う行為だ。「拳万」(げんまん)は「握り拳」(にぎりこぶし)で1万回殴ること、「針千本呑ます」は「裁縫針を1000本呑ませる」という意味である。このまじない言葉は地方によって異なる。

 

  東京都:「指切り、かまきり、嘘いうものは、地獄の釜へぽったりしょ」
 神奈川県:「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
  愛知県:「いびきり、いびきり、3年過ぎたら、乳から下へくされよ」

 

 筆者は東京の生まれ育ちだが、神奈川県の言い方で「指切り」をしてきた。「地獄の釜へぽったりしょ」なんて聞いたことがない。東京のどこでやっているのだろうか。愛知県の「3年過ぎたら、乳から下へくされよ」というのも妙に恐ろしい。なんの呪文なのか、なんの約束事なのか分からない。但し、「指切り」はその成り立ちとは異なり、「エンガチョ切った」と同様に、指を切るという子供の呪術として使われている。

 

 海外の人は怖がると書いたが、こうした指と指をからませて約束を交わすという仕草は東アジアでも見られるものだ。ベトナムでは人差し指で指切りを行うし、台湾、中国、韓国では親指を触れ合わせて約束の証にするという。さらに、アジアだけかと思ったらアメリカにもある。英語では「小指の約束」でピンキー・プロミス(pinky promise)、あるいは「小指の誓い」としてピンキー・スウェア(pinky swear)と呼び、日本と同じく、小指を絡ませる。このアメリカの方の由来ははっきりしないが、実は発祥は日本で、黒船でペリーが日本にやって来たことがきっかけでアメリカに広まっていったという説があるという。もし、そうならば、やはり日本人は恐ろしい(笑)。

 

 

 「指切り」の起源だが、江戸時代、吉原など遊郭では、遊女が意中の男性と客に誓いを立てるため、自らの小指の先を切って渡すという儀式的な風習があった。遊女が男に対し相愛誓約の証として、小指または髪を切り渡したり、腕などに男の名を入れ墨することがあり、これを「指切髪切り入れ黒子」と称したという。天和3年(1683年)の世継曾我には「自らも十郎様とは新造の昔より、馴染を重ね参らせて、ゆびきりかみ切いれぼくろ」の記述がある。また、この行為を特に「心中立て」とも称したとされている。

 

 「心中立て」とは、「男女がその愛情の契りを守りぬくこと、また、それを証拠だてること」という意味と、「他人への義理をあくまでも貫くこと」という意味があるが、何を心の中に「立てる」のかといえば「柱」である。もっといえば「十字架」である。伊勢内宮では、イエス・キリストを磔にした聖十字架を「心御柱」(しんの「みはしら)と呼んでいる。天照大神=イエス・キリストの十字架にかけて「誓い」を立てるのである。

 


遊女たちの「指切り」

 「拳万」(げんまん)は、嘘をついたら拳で1万回殴るに値するほど許せないという意味だが、さらに高じて、針千本が付け加えられたという説もあるが、怖いのはこれが呪術だということだ。それがたとえ髪の毛であったとしても、人体の一部を渡すということは、そこには「念」が籠もる。その念をもって呪詛とするのは、
「呪いの藁人形」も同じである。呪いの藁人形には、呪詛をしたい相手の髪の毛や爪などを人形に入れ、さらに相手の名前や住所などを書いて、神社のご神木に「丑の刻」に打ち付ける呪術だ。

 

 その際、誰にも見られてはいけないというルールがある。見られたら呪詛ができなくなるとされているからだが、「平安時代ならいざしらず、この現代にそんなことをやる人がいるのか」と考える方は、呪いの藁人形の起源とされる京都の貴船神社に訪れることをオススメする。貴船神社の立札にも掲載されているが、貴船の神が丑年丑月丑日に降臨したことにちなみ、「丑の刻にお参りすると心願が成就する」ことから、恨んだ男を呪い殺そうとした伝説が生まれたという。

 

 

 これを昔の話だというのは大間違いである。確かに丑の刻に白装束で、頭に金輪と3本のロウソクを立てていたら、すぐに捕まるし、呪いだとバレる。「呪いの藁人形」をご神木に打ち付ける行為自体は減少してはいる。だが、今はそれが絵馬として何気に神社に奉納されているのだ。京都市東山区にある通称「縁切り神社」の別称で知られる安井金比羅宮に訪れると、呪いの絵馬だらけなのだ。

 

 不倫している女が、相手の男の妻を呪い殺そうとしていたり、逆に不倫されている妻が不倫相手の女に呪詛をしていたり、元彼が現在同棲している女と別れることを望む絵馬やら、子供ができないように願う絵馬など、もう呪いだらけなのだ(笑)。笑ってはいけないのは分かるが、恐ろしい内容が書かれている。それも実名、住所付きだ(笑)。週刊誌のネタだらけのような神社なのだ。

 

 

 「あの人を呪い殺して下さい。天罰が下りますように。」

 「絶対 別れさせてください。胎児も死なせてください」

 「奥さんと別れてください」

 「緑 死ね」

 「××××が即死しますように」

 「家族の幸せのために、父が年内に死亡してくれますように」

 「あのエロじじいが、私にストーカーをしなくなるようお願いします」

 

 もう本当に恐ろしすぎる。「怨霊」よりも生きている人間の方がよっぽど恐ろしいのである。安井金比羅宮の鳥居には、「悪縁を切り、良縁を結ぶ」と書かれているものの、これだけ多くの呪詛が集まっているということは、悪しき怨念が圧倒的に良き願いを凌駕していると言わざるを得ない。

 

 ネット上には「スピリチュアルなパワーが強いから行かない方がいい」とか「カップルで行くと別れることがある」とか「呪いの絵馬の噂があるから」などとも書き込まれている。まぁ何でもかんでも「スピリチュアルパワー」としてしまうところも大きな勘違いだが、実際、縁結びと言っても実は難しく、間違った縁結びをすると、逆効果になって大切な縁が切れ、変な人間との悪縁が結ばれてしまうこともあるのだ。

 

安井金比羅宮の鳥居

 しかし、なんで安井金比羅宮なのだろうか。神社の由緒によれば、ここは第38代「天智天皇」の御代に、藤原鎌足が一堂を創建、紫色の藤を植え「藤寺」と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まっている。そして、第75代
「崇徳天皇」(すとくてんのう) は特にこの藤を好まれ、久安2年(1146年)に堂塔を修造し、寵妃である「阿波内侍」(あわのないし)を住まわされたとしている。だが、崇徳上皇が「保元の乱」(1156年)に敗れて讃岐(現、香川県)で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされたという。

 さらに由緒では、
「治承元年(1177年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇に奏上され、法皇のご命令により建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています」と伝えている。

 

 そして、御神徳としては「主祭神の崇徳天皇は、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は古来より断ち物の祈願所として信仰されてきました。また、戦によって心ならずも寵妃阿波内侍とお別れにならざるを得なかった崇徳上皇は、人々が御自身のような悲しい境遇にあわぬよう、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶切って下さいます。男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切っていただいて、良縁に結ばれて下さい」としている。

 

 

 なにが問題なのか。それは主祭神である「崇徳天皇」である。崇徳天皇とは、「日本三大怨霊」の一人であり、日本の歴史上最強の怨霊である。日本三大怨霊の他の二人は、菅原道真、平将門だが、崇徳天皇の恨みの呪詛は桁違いなのである。なにせ、天照大神の預言者が、天皇家を呪詛したのである。日本三大怨霊の謎については後述するが、日本最大最強の怨霊が祀られているということは、ここに「恨み」を集めているということになる。つまり、「穢れ」の集積地にしているのだ。

 

 さらに、なぜここに人々の怨念という「穢れ」を集めるのかである。怨霊としての崇徳天皇を京都に祀ったのは、今出川通堀川東入ルの飛鳥井町にある「白峯神宮」である。ここは讃岐五色台の白峯寺境内に葬られた崇徳上皇の「御霊」(みたま)を京都へ奉還して祀り、名称も讃岐の白峯からつけられたところである。ここでなかったら、桓武天皇の皇太子に立てられたが、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、絶食して没したことで怨霊となった崇道天皇(早良親王)が祀られる「御霊神社」でも良かったはずだ。

 

 なぜここなのか。安井金比羅宮のある場所は「東山」である。東山は今でこそ「清水寺」など観光名所だが、昔は京都の三大葬送地の一つだった場所なのである!

 

「鳥辺野」の墓所群

 

 京都の三大葬送地とは、嵐山の北西に位置する「化野」(あだしの)、東山の清水寺~大谷本廟付近の「鳥辺野」(とりべの)、そして市内北部、船岡山西側の「蓮台野(紫野)」のことで、その起源は平安時代まで遡る。疫病が流行していた平安初期、真言宗の開祖・空海は土葬を奨励するが、それができたのは皇族など身分の高い人たちのみで、貧しい庶民は遺体を野ざらしの状態で放置する風葬(野葬、鳥葬)が一般的であった。

 これに対して鳥辺野は、裕福な人たちの風葬地という位置づけで、その結界は「六道の辻」として2つの石柱で示されている。一つは
六道珍皇寺の前、もう一つはその少し西側(松原通沿い)にある西福寺の東角にあり、この辻より北が現世、南があの世(鳥辺野)とされているのだ。この地区には、大谷墓地(大谷本廟の近く)や東大谷墓地(大谷祖廟の近く)があり、後者南側に位置する京都霊山護国神社には幕末の志士、坂本龍馬のお墓もある。

 

 

 上の地図を見ていただくと位置関係が分かる。安井金比羅宮の左下に六道珍皇寺、右下に清水寺があり、その右の置くに「天智天皇」の山科陵がある。駅の名前も「御陵」、つまり天皇の墓である。ここら辺一帯は「死の穢れ」を集めた場所なのである。「そんなことを言っても天皇陵があるじゃないか」という意見もあるだろうが、天皇陵はしっかりと祀られているが、その他の人たちは裕福といえど「風葬」された地である。鳥に死骸を食べさせていた場所である。

 

 さらに東山は「鴨川の向こう」にある。関西では「川向う」は差別用語とされているが、東京の人間には分からない。穢れた者を淀川の向こうに追い払ったのは豊臣秀吉であるが、問題はそこではなく「平安京」の呪術である。鴨川から西は平安京だが、都に穢れを入れないように、川の向こうに埋葬地を配置したのであり、それは「化野」「蓮台野(紫野)」も同様に、平安京の外なのである。これは呪術である。行ったのは陰陽師である。さらに平安京を守護するための装置は「御霊神社」にも施されている。

 

御霊神社だらけ

 

 上の画像は「御霊神社」で検索すると出てくるGoogle Mapの結果である。まぁあるわあるわ、平安京を護るように御霊神社がいくつも配置されている。これは何を表すのかといえば、怨霊を「御霊」として祀ることで、その怒りのパワー、恨みのパワーを平安京を護るための呪術として活用しているのである。「御霊」とは「ごりょう」ではなく、本来は「おんりょう」なのであるが、それを祀って「ごりょう」としているのである。これは「言霊」の呪術である。

 

 御霊神社は、第38代光仁天皇の皇子であり、桓武天皇、能登内親王の同母弟であった「早良親王」が、謀反の罪に問われ淡路島に流されて怨霊となり、親王の怨霊を怖れた桓武天皇が祀ったことから始まっている。後に「崇道天皇」と追諡されたが、実際は皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。つまり、親王の怨霊を「天皇」として祀ることで怒りを鎮める呪術である。京都には上御霊神社と下御霊神社の両御霊神社があるが、崇道天皇(早良親王)、政敵だった井上皇后、他戸親王など8人の霊が祀られている。

 

 平安京は呪術だらけなのである。恨みをもって死んだ御子を天皇として祀り、平安京を守護するパワーに変換してしまうのである。だが、「呪いの藁人形」や「呪いの絵馬」は左道の呪術である。これは 本来やってはならないものだが、最近は「呪術」がテーマになっているアニメが増えたことで、神社で密かに行う呪詛だけで済まされていない。なにせAmazonや楽天、Yahooでも「呪いの藁人形グッズ」が当たり前のように販売されているのだ(笑)。この国はおかしいのである。

 

 中にはご丁寧に呪いを実践するためのDVD付きで販売されているものもある(笑)。呪いの藁人形だけだと¥1,780で買えるが、釘にトンカチ、DVD付きでも¥5,000ほどで買えてしまうのだ。さらに「人形浄流符」(ひとがたじょうりゅうふ)なるものも売っている。ご利益としては、「絶縁札 絶縁符 護符 金運 開運 運気 上昇 お守り 恋愛運 仕事運 結婚運 豪運 自由 喜び 幸せ 幸福 貧乏悪運 水面 上司の嫌がらせ 友人 借金 賭博 無病息災 貧乏 仕事 etc」とあり、【2個販売】で5,400円。もちろん送料無料だ(笑)。

 

 本気で縁を切りたいのなら、その人の不幸を願うより、幸せを願った方がいい。自分の呪詛によって相手が不幸になれば、その不幸は周囲にふりまかれ、鏡に映されたように自分にさらなる不幸が及ぶことになるからだ。「人を呪わば穴二つ」とは、人に害を加えようとして墓穴を掘る者は、その報いが自分にも及び、自分の墓穴も掘らなければならなくなることをいうが、人を不幸に陥れようとすることは、自分もまた不幸になることを覚悟せねばならない。これは警告しておく。

 「指切り」から「呪いの藁人形」へと話が飛んだが、江戸時代の遊女が行った「心中立て」と同じく、「以後隠すことなく元に戻らない決意の証」を示す「指切り」として、小指を切り取ることはやくざの間では処罰の方法として行われた。「指詰め」である。しかし、いったいいつから「指を切る」という行為が始まったのだろうか。これは平安時代の「検非違使」(けびいし)である。そして、平安時代に「指切り」を行っていた検非違使たちは、現代へと続いている。実は、ここにこそ、現代日本社会を蝕む「言霊と穢れ」の思想が隠されている。

 

<つづく>