「穢れ」と「言霊」の謎:その23


 前回の「差別用語」のくだりで、勝新太郎主演でヒットした映画「座頭市」について書いたが、「市」は名前だから関係ないが、この「座頭」というのは差別用語なのか?調べてみると、江戸時代には「盲人」にも階級があったのだ。当時、幕府は障碍者保護政策として職能組合の「座」を設けて、排他的かつ独占的職種として「琵琶法師」を容認した。座には検校、別当、勾当、座頭の4階級があり、座頭は一番下の階級である。つまり、座頭市は「座頭の市さん」である。

 



 自称”人道主義者”たちのいう「差別用語」とは、相手の感情を害する恐れのあるものについての言葉全てを言っているが、例えば仮に「貧乏人」という言葉を「差別用語」にしたとしよう。「金持ち」と「貧乏人」を考えてみると、金持ちが貧乏人に対して「おまえは貧乏人だ」と言えば、言われた方は気持ちが良いとは思えないが、貧乏していれば貧乏人であることを否定することは出来ない。これを言葉を換えて「おまえは低所得者」だと言えば許されるのか、ということになるが、言葉を換えたからと言われた側の感情は大して変わることはない。

 人と人との会話、報道や放送においては「差別用語」とした「貧乏人」という言葉が問題になるのではなく、相手の人格を経済力のみで推し量ろうとする、人としての品位の問題に帰する事柄であり、「貧乏人」と言う言葉自体が差別用語となるのはおかしい。座頭市は、セリフの中で「あっしは盲でござんすから…」と何度も言うが、聞いた相手は初対面でも座頭市という人物は全く目が見えないのだと直ぐに理解ができる。だが、「盲(めくら)」は「差別用語」だから「あっしは身体障害者でござんす」「あっしは視力障害者でござんす」「あっしは視覚障害者でござんす」と言い換えなければならないのなら、視力障害や視覚障害では全盲なのか弱視なのか近視か遠視か色盲なのか色弱なのか全く判らない。


 「盲」と言う字を調べると「盲:めくら」と出てくる。盲人、盲導犬、全盲などにも使われる。「盲」がいけなくて全盲や盲人が良いというのなら、その理由が理解できない。「盲」がいけないというのなら、盲人や全盲は「完全視力喪失人」とし、盲導犬は「完全視力喪失人誘導犬」としなければならないのではないか。ここに「言霊」の落とし穴がある。「もう」はいいが、「めくら」はダメなのである。「音」はいいが、「訓」はダメということなのである。

◆「同和」に隠された意味

 

 2003年6月15日に亡くなった指定暴力団四代目会津小鉄会長だった高山登久太郎は、元公安調査庁の菅沼光弘氏に「ヤクザは同和対策事業」と言い切ったという。非常に的を得た表現である。菅沼光弘氏は、2006年に行われた日本外国特派員協会での記者会見で、「日本のヤクザの半分は同和。30%は在日」と言い放ったところ、外国人記者への翻訳者が「同和」という言葉の翻訳に困ったという。

 

左:高山登久太郎氏 右:菅沼光弘氏

 

 高山登久太郎氏は在日韓国人のヤクザだった。本名は「姜外秀」といい、半島から渡来した両親は朝鮮人(戦後は韓国人)で、大阪市東成区今里に出生。1941年(昭和16年)の暮れに太平洋戦争が勃発。戦時中は徴用に借り出され、軍需工場で働いた。この人は在日本大韓民国民団中央本部中央委員、滋賀韓商常任顧問にもなった人だが、「任侠」に生きた人だった。なにせこの人、戦後まもなくのドサクサの際、日本人の婦女を暴行したり日本人に乱暴狼藉を働く「三国人」に怒り、同胞たちを血祭りにあげた人物だからだ。菅沼氏に語っていた若き日の回想の中で、「俺は朝鮮民族だが、それ以前に日本人だったからだ」と同胞たちと戦ったことを語っている。 

 

 「同和」という言葉の由来については、昭和天皇が即位した際、昭和3年(1928 年)の「群 臣百官ニ賜ハリタル勅語」にある「人心コレ同シク民風惟レ和シ汎ク一視同仁ノ化ヲ宣へ…」 という言葉から取ったという説がある。 このほかにも大正天皇が「同胞融和」といった 言葉を取ったという説もあるが、「大正」からの改元にあたり「昭和」の元号が決定する際、候補として最後まで残ったのが「同和」であった。一般名詞としての「同和」(どうわ)は「人々が和合すること(和衷協同)」を意味する。同和火災・同和鉱業・同和興業・同和警備など、同和の名称を名乗る企業名はこの意味に由来する。

 日本の差別問題において、部落差別解消のための運動の事を「同和」と呼ぶ。この場合の「同和」は「同胞融和」(どうほうゆうわ)の略語で、戦前は「融和」(融和運動)と略される事が多かったが、戦後は「同和」と略されるようになった。一般人と部落民との結婚を「同和結婚」、部落解放促進のための教育を「同和教育」、部落の環境改善のための事業を「同和対策事業」、その際に指定された地区を「同和地区」という。この用語の由来である「同胞融和」という概念が天皇制・皇室崇拝に通じるとの立場から、「いわゆる同和」との意味合いでカギカッコをつけて「同和」と表記する場合もある。

 

右側が「同和地区」。左側との差は歴然だ。

 

 菅沼光弘氏が語った「ヤクザの半分は同和」というのは、部落出身者は就学、就職、結婚における差別が激しく、普通の仕事に就くことができなかったため、仕方なくヤクザの道を選んだ人が多かったということだ。同様に在日韓国人・朝鮮人にヤクザが多いのも理由は同じで、戦前は日本人だったのに、戦後は日本人ではなくなったため、普通の日本の会社に就職できなかったからだ。高山登久太郎氏は、この辺の事情について、菅沼氏に以下のように語ったという。

 

 「就職先は総連(朝鮮総連)、ヤクザ。あとはヘップ屋になるしかなかった」

 

 高山氏が言う「ヘップ屋」というのは「履物屋」、つまり靴の製造工場のことで、なんでヘップと呼ぶのかといえば「オードリー・ヘップバーン」のヘップだからだ。当時、映画『ローマの休日』が大ヒットし、映画の中でヘップバーンが履いていたサンダルが大流行。大阪にはこのサンダルを作る履物工場がいっぱいあったからだという。この「履物屋」は被差別部落の人たちにとっての生業の一つだ。動物の皮を剥いでなめした革を使って靴を作っているからだ。

 

 高山氏は「ヘップ屋じゃカネが稼げないからヤクザになるしかなかった」とも語っている。戦後に在日のヤクザが増えた理由はここにあるが、かたや日本人ヤクザの多くは同和地区出身者だった人が多く、どこも受け入れてくれない彼らを受け入れたのが「任侠」の世界だった。ヤクザと呼ばれるのは後世で、元々は「任侠」である。山口組六代目・司忍組長も自分たちのことを「任侠団体」と呼んでいる。ヤクザと呼ぶのは一般人やメディア側であり、「任侠をなくそうとしてきたのはアメリカである」と菅沼氏も語っている。

 

山口組六代目・司忍組長

 

 一方でヤクザの世界は裏稼業である。そして「汚い仕事」も引き受けた。一般人が忌み嫌う「汚い仕事」で、人が進んでやりたいと思わない仕事のことである。この「汚い仕事」を言い換えると、「やっかいな仕事 汚れ仕事・人の嫌がる仕事・人に嫌がられる仕事・人がやりたくない仕事・きつい仕事・ハードな仕事・汚くなる仕事」である。俗に言う「3K 」の「きつい・汚い・危険」な仕事であり、この手の仕事の手配は今もヤクザが仕切る。ヤクザの利権だからだ。中でも最も「汚い仕事」は原発である。

 あなたが職を失い、どこにも再就職ができなかった時、「いいカネになるよ、原発」と言われて、汚染水や放射能廃棄物の仕事に就くだろうか。ほとんどの人は「さすがにそんな仕事は…」と断るはずだ。やるのは自分の戸籍まで売り払ってしまった人とか、表では働けない人たちが多い。しかし、誰かがやらなきゃいけない仕事である。全部が全部そうだとは言わないが、危険な産業廃棄物の処理はそういう方々が担っているのである。

 

 

 誰かが「汚いもの」を処理しなければならない。それは人間や動物の死体も同じだ。こうした人間や動物の「死」に関わる仕事は被差別の人たちが担ってきた。「死」は「穢れ」である。一般人が嫌う「穢れる仕事」を担ってきた人たちの多くは「物部氏」の末裔である。だが、物部氏の中でも原始キリスト教に改宗した人たち、大和朝廷に従った物部氏たちは被差別民にはなっていない。実は、ここにこそ日本の差別の深層がある。大和朝廷の時代から、徹底的に差別されてきた物部氏のことを「外物部氏」と言う。外側の物部氏という意味である。

 

 外物部氏が徹底的に秦氏によって弾圧されてきたことには理由がある。そこに「言霊と穢れ」の奥義が隠されているが、この謎解きについては本連載の後半である「言霊」の謎解きとともに書いていきたい。まずは「穢れ」である。 「穢れ」は神道、仏教の観念で、不潔・不浄等、理想ではない状態=正常ではない=異常のことで、併せて「罪穢れ」と総称されることが多く、穢れは死・疫病・出産・月経、犯罪等によって穢れた状態の人は、祭事、宮廷への朝参、狩猟者・炭焼等では山に入ることなど、共同体への参加が禁じられる。

 

 ヤクザには「血」がつきものだ。団体間での抗争、殺人などを通じて「血の穢れ」がまとわりつく。さらにヤクザが行う慣習に指を刃物で切断する「指詰め」がある。「指詰め」とは、反省、抗議、謝罪などの意思表示として用いられ、組織の掟を破った構成員に対して科す慣習である。慣例的に詰める割合は、三寸とも三分とも言う。昭和時代までのヤクザは、主に日本刀を武器として用いていたため、小指を詰めれば、刀の柄を握る力が半減する。そのため、指を詰めることは即ち「ヤクザとしての大事なものを相手に差し出すほどの深い反省」を意味している。また、どんなに切っても箸や鉛筆が持てるように利き手の三本指だけは残すとも言われる。



 しかし、なんでヤクザは反省、抗議、謝罪などの意思表示として指を詰めるのか。そして、いつから始まった慣習なのだろうか。「指詰め」は罰として強要されるものとは限らず、
掟を破った者が指詰めよりも重い罰から逃れることを期待して、反省の意思を示すために自発的に行う場合もある。自分が直接責任のない問題の責任を被る時や、対立する暴力団同士を和解させる時に、指を詰めることで自分の誠意を示し、問題を仲裁することがある。このような目的で切り落とした指は「生き指」と呼ばれ、反省を示すために切り落とした指である「死に指」とは区別される。

 

 ヤクザが「指詰め」をするのはモーセを通して行われた絶対神ヤハウェへの「賠償の献げ物」なのである。正確にいえばその代わりである。贖罪のために指を詰めるのだ。こんなことを言う研究者は誰もいないだろうが、彼らはユダヤ人原始ユダヤ教徒である。親分に恥をかかせた謝罪の意味で、命を奪われる代わりに「ヤクザとしての大事なものを相手に差し出すほどの深い反省」を表すために指を詰めるのである。この場合の「親分」というのは、人間としては組織の組長でもあるが、本質は絶対神ヤハウェであり、イエス・キリストである。つまり、ヤクザの「大親分」というのはイエス・キリストなのである!

 

ヤクザの襲名披露

 

 こんなことを書くと、完全に頭がおかしくなったと思われるかもしれないが、いたってまともである。ヤクザの組長の「襲名式」は神前式で行われる。そこには「三柱の神」を祀る。具体的には真ん中に「天照皇大神」、右手に「八幡大菩薩」、左手に「春日大明神」である。つまり、ヤクザの親分に襲名するには三神に誓いを立てることが必要なのである。もちろん天照皇大神は伊勢内宮に祀られる「天照大神」で現人神イエス・キリストのこと。

 

 八幡大菩薩とは全国48,000社あまりの八幡神社の本宮「宇佐八幡神宮」が祀る「八幡神」のこと。「八幡:ハチマン」は昔「八幡:ヤハタ、ヤハダ、ヤーダ」と呼び、ヘブライ語では、「イェフダー」で「ユダヤ」の意味となる。ユダヤの神だから「八:ヤ:ヤハウェ」であり、「幡=旗=機=秦:ハタ」で秦氏が旗頭として奉じたイエス・キリストでもある。「秦」の字を分解すると「三人ノ木」となり、絶対三神唯一神界を説いた存在、つまりイエス・キリストとなる。

 

 「春日神」(かすがのかみ)は、神道の神で、「春日明神」または「春日権現」とも称される。春日大社から勧請を受けた神のことであり、神社の祭神を示すときに主祭神と並んで春日大神。春日大明神などと書かれる。「春日神」を祀る神社は春日神社などという社名になっており、日本全国に約1000社ある春日神社の本宮は奈良の「春日大社」である。「春日神」とは、春日大社の祭神である四柱の神の総称であり、それは「武甕槌命」(タケミカヅチ)、「経津主命」(フツヌシ)、「天児屋根命」(アメノコヤネ)、「比売神」(ヒメガミ)の4柱の神である。


 

 武甕槌命は「鹿島神宮」の主祭神、経津主命は「香取神宮」の主祭神で、この両社はもともと東の端に物部氏が創建した社である。正確に言うと、2社とも東に逃れた「外物部氏」の総社だった神社である。だが、この2社とも秦氏によって制圧され、表向きは秦氏系神社となっている。なぜなら武甕槌命と経津主命は、高皇産霊尊(タカミムスビ)から葦原中津国の平定を命じられ、天安河原から出雲へ降り立ち、大国主命に国譲りをさせた武神である。国津神を征圧した天津神である

 

 もう一人の「天児屋根命」は、天岩戸伝承で、「天太玉命」(アメノフトダマ)と共に「真榊」(さかき)の前で占いを行い、天岩戸の前で祝詞を奏上、天照大神を岩戸の中から出した神である。そのため祝詞、言霊の神と評される一方、中臣氏及び藤原氏の祖神(おやがみ)に当たる存在である。

 

 残る「比売神」も藤原氏の祖神とされるが、比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての「玉依姫命」(たまよりひめ)や、応神天皇の皇后である「仲津姫命」とする説がある。八幡神の妃神なら、イエス・キリストの妻・マグダラのマリアを示し、母神ならイエスの母マリアで、応神天皇の皇后であるなら海部氏の姫巫女である。2人のマリアも仲津姫命も全て「巫女」である。となると、ヤクザの親分の襲名式は、原始キリスト教の神事ということになる!

 

 

 ヤクザの親分の襲名式には、「榊」が二本立てられる。これは「生命の樹」と「死の樹」を示している。カッバーラである。どういうことかといえば、もともとは大和朝廷と秦氏に逆らう東国の物部氏=外物部氏だったが、秦氏のカッバーラの呪術によって征圧され、原始キリスト教に帰依したということなのである。つまり、ヤクザの親分の親分はイエス・キリストなのだ!

 

<つづく>