「穢れ」と「言霊」の謎:その22

 

 絶対神ヤハウェが与えた戒律は非常に厳しい。命令を聞かない、禁を破るとすぐに絶たれてしまう。モーセを通じて与えられた教えをずっと守ってきたため、物部氏は頑なである。中でも「血の儀式」をずっと続けてきた。その意味で正統なるユダヤ人というのは物部氏のことで、国を失うとともに、ヤハウェが与えたモーセの律法の解釈を勝手に変えてしまったユダヤ人とユダヤ教というのは別のものである。

 

 つまり、ユダヤ教の本質も、キリスト教の本質も日本にしか残っていないのである。日本は隠された裏側が原始ユダヤ教で、隠された表が原始キリスト教の国なのである。「隠された」という表現を使うのは、日本人のほとんどがそのことを理解しておらず、やれ自分は「神道だ」「仏教だ」と思っていても、それはあくまで表層上のことでしかない。ヤマト民族の本質はユダヤ人、それも人祖アダム直系の「黄人」であり、どんな時も「預言者」に導かれてきた民族なのである。

 

 

 現在の世界の宗教の根幹は全てこの国にある。そして、常に預言者がいる。ユダヤ教、仏教、キリスト教、イスラム教には預言者が不在なのである。”自称”はいるが、それは偽物である。世の中が「終末」を迎える最も大切な時期に預言者がいない。つまり、どの宗教にも神が降りてこないということである。なぜなら、彼らは「ヤマト:ヤ・ゥマト:神の民」ではないからだ。こういうことを書くとすぐに「選民思想だ」なんて言う人がいるが、良くも悪くも選民だから仕方がないのである。

 

 選民というのは特別に偉いという意味ではない。「神民だ」とか「皇民だ」なんていうのは戦前の国家神道というカルト宗教の話で、この国の民は特別な使命を負っているという意味だ。よって絶対神から特別に厳しい処置をされてしまう。人類の行く末がどうなるかは、全て大和民族にかかっている。その考え方、その生き方、その言葉にである。この国の民が放つ言葉には「コトダマ」が宿っているからだが、その本質を理解している人もまた少ない。心も体も霊体も、そして言葉にも「穢れ」が覆っているからだ。その穢れを取り除かなければ、この国に未来はない。

 

 

◆「差別用語」

 

 物部氏は現在も「封印」されている。「穢れ」を持つ物部氏も、「穢れ」のない物部氏もである。「穢れ」のない物部氏というのは古神道の神官たちや裏陰陽道の呪術者たちのことであり、彼らには原始キリスト教に改宗した物部氏と改宗していない原始ユダヤ教徒としての物部氏が存在する。一方で、「穢れ」を持つ物部氏の多くは、現在も「差別」を受けた民として生きている。いわゆる「被差別民」のことである。「被差別民」とは、その所属する社会や共同体から享受されるべき利益を不当に制限されている集団を指す。

 

 日本では被差別部落に住んでいた・住んでいる人たちが受けている差別の問題のことを、一般的に「同和問題」と呼ぶ。海外の人に「同和問題」を英語で説明しようにも説明できない。当該する単語がないからだ。単に「差別を受けている人」では全く意味をなさないからである。「なんで同じ民族なのに差別があるのか?」と外国人に尋ねられたら、答えに窮するのが一般的な日本人だが、現代日本社会でも、東京以北の大都市圏には被差別部落が存在しないため、学校の授業でも教えない。よって「部落」について何も理解していない人が多い。

 

 「穢れ」と「言霊」の謎を解く時、避けて通れないのが、被差別部落と同和問題である。なぜなら、「差別用語」が立ちはだかるからだ。「差別用語」というのはクレームを恐れるTV局によって解釈が勝手に広がり、今や視聴者に不快な気分を与える言葉は「放送自粛用語」となっている。本来、放送禁止ではないのだが、勝手に自粛もしくは別の言葉に言い換える。「××という××」といった意味不明な表現によって、余計になんの話なのかが分からなくなるという本末転倒なことが起きている。

 

 差別用語とは、「他者の人格を個人的にも集団的にも傷つけ、蔑み、社会的に排除し、侮蔑・抹殺する暴力性のある言葉。使用したことにより、名誉毀損罪など、法的に損害賠償責任が発生する可能性が高い言葉であり、公の場で使うべきでない言葉の総称である。具体的には、特定の属性(国籍、人種、民族、家系、門地、学歴、性別、宗教、性的指向、障害性、既往、職業など)の人々に対する否定的差別を意図して使用される俗語や表現を指し、侮蔑するための蔑称を含む。

 差別用語と公的に認定されていなくても、差別的に使用される表現は「差別用語」または「避けられるべき言葉」とみなされることがあり、言葉によっては議論の結果「差別用語」とされないこともある。ただし共通解はなく、人によって解釈や捉え方が異なる。また過度な侮蔑は差別的とされる。これに加え、最近は「ジェンダー」やら「LGBT」に関連する性差別用語などと称する外来語までも差別の対象にされるため、もはや何をもって差別なのかという本質を理解できない状況に陥っている。

 

 

 差別語に現れるのは被差別部落出身者、障害者、女性や性同一性障害などの社会的・性的マイノリティーに対する偏見、異文化と異民族に対する蔑視などが根底にあるが、現在、差別用語への対応としては、様々なものがある。一般に日常会話においては禁句、主要な放送メディアにおいては放送禁止用語として扱われ、差別用語の事実上使用禁止=「放送自粛」「自主規制」がされ、差別用語の「言い換え」が行われる。

 

 この自主規制は、主に大手民放メディアにおいて、人権団体による差別糾弾を表面的に回避する手段の一つとして行われており、差別用語の一部もしくは全部の言い換えに反対する人々が、この差別用語の言い換えを、言葉狩りや文化破壊として批判している。また、差別に反対する側からも「単なる言い換えでは、現実を覆い隠すのみ」とした批判もある。やむを得ず「差別用語(放送禁止用語)と同じ発音」の言葉を使用する場合、当該の差別用語を連想させないよう、別の言葉に言い換えられることもある。

 

 例えば日本語では「軍事基地の敷地外」は字義的に「基地外」となるのだが、日本では1975年以降は「気違い」を連想させることを避けるよう「基地の外そと」と言い換えられている。糾弾を受けたくないためのインチキである。これはまだいい方で、動植物の標準和名の成分として用いられている語の中にも、差別用語が含まれているとして、ザトウクジラ、メクラウナギ、シナモクズガニなどには改名の動きがある。


 差別用語に関する規制の違う時代に発表された文学・映像作品についても、再版や放映に際しては、現代的基準で差別用語を書き換える、発言部分の音声を消去するなどの対応が取られてきたが、近年では表現の自由やオリジナリティなどの観点から「差別を助長する意図はありません」「作品のオリジナリティを尊重し、そのまま放送します」旨の注釈を加えた上で、オリジナルのまま放送されるケースが多い。

 

 

 「放送禁止用語」とは、テレビやラジオ等のマスメディアで使用が禁止されている言葉のことだが、そもそも法的に禁止されているわけではない。よって、実際には放送禁止用語というものは存在しない。かつてNHKでは「放送問題用語」としていたが、2008年に事実上廃止。今では「放送注意用語」「放送自粛用語」などとも呼ばれるが、あくまでメディア側、特にマスコミの自主規制であるため、差別的な言葉、暴力的な言葉、卑猥な言葉などの、いわゆる“不適切な言葉”が放送禁止用語となっている。
 

 もはや自虐的としか思えないほどの自主規制の風潮に物申すドラマが現在放送されている。TBSテレビ 金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』である。さすがクドカン。敢えて注釈テロップを逆さ手にとって不適切な言葉を連発している。TVドラマはほとんど見ない筆者も、このドラマだけは毎週欠かさず見ている(笑)。裏側では様々な軋轢もあるとは思うが、こうした自主規制の風潮を意図的に取り上げつつエンタテインメントに仕上げているクドカンの才能には頭が下がる。まだ日本も捨てたもんじゃない。

 

 

 大手メディアが自主規制するのは、「公序良俗」に反する言葉とかが多い。まぁバカなアナウンサーは「公序りょうじょく」などと読んでしまい大ヒンシュクを買うこともある(笑)。だが、この“不適切の線引き”がどこからどこまでかがわからないから、番組制作サイドも困るのである。一応、NHKが指針として出しているガイドライン『NHK新用字用語辞典』や『NHKことばのハンドブック』に載っていない言葉や用法が放送禁止用語になっている。簡単に言えば「クレームがきた言葉=放送禁止用語」なのである。スポンサーのCMイメージがあるため、スポンサーにクレームが言ったり不買運動などに発展するクレームほど怖いものはない。まさに先日(2024年3月15日)放送された『不適切にもほどがある!』のテーマがこれだった。

 但し、放送禁止用語は番組の放送時間や番組のジャンルによっても変わってくる。『報道ステーション』のキャスターだった古舘伊知郎氏は、番組の降板記者会見で「バラエティではラーメン屋が、報道ではラーメン店と言わないといけない」と明かし、報道番組の堅苦しさを嘆いていたように、報道では使用できないがバラエティでは使用可能な言葉もある。また、お笑いコンビ・浅草キッドの玉袋筋太郎などのように、NHKに出演する際には「玉ちゃん」や「知恵袋賢太郎」に名前を変えるというパターンもある(笑)。ちなみにBS-TBSで放送されている玉ちゃんの人気番組『町中華で飲ろうぜ』は大丈夫だ(笑)。

 



 地方によって放送禁止用語が変わる場合もある。かつて力道山やジャイアント馬場と熱戦を繰り広げたプロレスラーのボボ・ブラジルは、アメリカ出身で「人種差別のないブラジルに行きたい」という憧れからリングネームを付けたが、「ボボ」という言葉が九州地方の方言では放送禁止用語にあたり、実況では「ボボ」が消されたという逸話もある。

 

 かつては映画やテレビで普通に使用されていた言葉でも時代を経るごとに規制され、放送禁止用語は増えていく傾向にある。社会自体が”国際化、近代化、民主化”されるにしたがって、前時代的な言葉や慣習が見直され、現代にはふさわしくないと判断されることが多くなるからだ。まぁ、この”国際化、近代化、民主化”というのが曲者で、要はなんでも「国連」「国際社会」というやつで、これに合わせるのが国際社会の一員だとして、日本人を欺く行為に加担している。ここがバカなのである。

 

 しかし、一方で、この裏には「臭いものに蓋をする」という本当の差別が隠れている。「穢れ」を忌み嫌う思想である。その結果、映画『座頭市』やアニメ『あしたのジョー』などは物語の設定自体が放送禁止で、いわゆる“ピー音”ばかりになってしまうということで、地上波では再放送すらされない状況にある。初期の『機動戦士ガンダム』も反社会的ということで難しく、2013年に放送されたアニメ『宇宙戦艦ヤマト2199』(TBS系)では、「専守防衛」「独裁否定」という言葉でさえ配慮された内容にされてしまった。


 

 昔は地上波TVで休日の夕方に日本映画を放送していた。社長シリーズとか無責任シリーズのコメディ物から若大将シリーズ、そして「座頭市」を始めとする時代劇、アニメでさえも「キチガイ」「ビッコ」「部落」等も平気で流していたが、昭和50年代中頃から段々と「言葉狩り」が進み「差別的」だとか「不謹慎」だとか言い出す団体、暇な個人が急増、放送局側も配慮して該当する台詞に音声的処理を施す様になった。

 

 座頭市のよく市を罵るシーンでも「こぉんのー!ドメクラがァ」の音声部分は無音処理されて放送される様になった。この市を差別する汚い言葉に激怒して、市は悪い奴らをたたき斬ることになるはずなのだが、無音処理となるとなんで市が相手を斬るが不明なまま物語が進行してしまう。要は意味不明に突然斬りかかる悪い奴になってしまうのだ。これぞパラドックスであろうが、そのうちこの様な古い作品も放送され無くなり、言葉狩りにあった単語を使うドラマやアニメ、映画は製作自体がされなくなった。


 これはTVや映像の世界だけの話にとどまらない。1960年代、70年代に歌われた岡林信康に代表されるフォークソングには、差別的表現、反時代的表現があるということで、今でも放送できない名曲が数多くある。NHKがずっと放送しなかった美輪明宏の「ヨイトマケの唄」も同じである。文脈ではなく「言葉」で狩るのである。歌謡曲であっても、“不適切”な言葉があるということで放送できない曲を加えれば膨大な数にのぼる。そのほとんどは“卑猥”とされる表現があることが理由である。

 

 
 美輪明宏の場合は、二重の差別があった。要は美輪明宏が美し過ぎたからだ。天草四郎の生まれ変わりだから仕方がない。むかしタクシーに乗った際、運転手が「気持ち悪いですよね、あのオンナオトコ」と言ったのはよく覚えている。嫌な言い方になるが、むかしはTVにオカマは出れなかった。だが、時代も変わったのだろう。一時期はどこのチャンネルを回してもオカマがもてはやされた。きれいなオカマならまだしも、「なんでこんなオカマが」がという醜悪なオカマも頻繁に登場していた。

 

 筆者は別にオカマ嫌いということではない。といっても頻繁にオカマ・バーに行くわけでもない。最後に行ったのはコロナ前。まだ安倍晋三が暗殺されるだいぶ前だ。この会員制のオカマ・バーは永田町界隈では「夜の内閣府」と呼ばれる伝説の店で、歴代9人の総理を食べてしまったというママがいらっしゃる(笑)。安倍晋三も食べられた口だが、きちんとママの誕生日は胡蝶蘭を贈っていたし、「内閣総理大臣 安倍晋三」と贈り主の名前が刻まれていた(笑)。筆者も何度も誘われたが、丁重にお断り申し上げた。あの時に食べられていたら地獄行きだった。

 

 放送禁止用語には大量の言葉が指定されている。体の欠陥を撞くような言葉は、もちろんいけません。例えば、「めくら」は「目の不自由な人」である。まあ、これは許せる。では「めくら判」はどう判断すれば良いのだろうか?「目の不自由な人の判子」ではないし、解説によると「ろくに見ないで判子を押す」とあるが、これは「めくら判」の解説でなく「めくら判を押す」の解説である。「つんぼ」もダメだが、「つんぼ桟敷」はどうなのか?「唖(おし)」もダメだから、「唖然とする」も駄ダメなのだろうか?
「片手落ち」も駄目だと書いてある。これを最近では「手落ち」と言うそうだが、それでは意味が通じない。

 

 「コンプライアンス」と言いば何でも片付くという風潮だが、そこにこそ「言霊」が隠されている。コンプライアンス、略して「コンプラ」などと言う人も増えているが、その言葉には何の「コトダマ」はない。つまり、どれだけ発してもその言葉に責任を取る必要がないのである。ここにこそ「言霊」の本質が隠されているのである。

 

<つづく>