「穢れ」と「言霊」の謎:その15

 

 日本人を支配する「穢れ」は小さな子どもたちにも及んでいる。穢れた子供、不浄な子供は、周囲の友人たちにとっては忌み嫌う存在とされてしまうのである。それは、オナラをしただけでもである。さらにこれが道端で犬の糞を踏んでしまったら「呪詛」の対象とされてしまう恐ろしい国なのである。

 

 「えんがちょ」である。「えんがちょき〜〜〜った」とされたら一巻の終わり。友人の輪の中には入れてもらえなくなるのである。それをもって「えんがちょ」は誰しもが知る民俗風習のひとつだが、語源も起源も不詳とされている。子供遊びのように見える「えんがちょ」の中にこそ、日本人が「穢れ」を嫌う真相が隠されている。なにせ「えんがちょ」とは「呪術」だからである。

 

◆結界を張る呪術「えんがちょ」

 

 エンは「穢」や「縁」を表し、を「縁(穢れ)」が「ちょ」ん切れる」という解釈や、「因果の性」(いんがのしょう)が転じて「えんがちょ」になったという説、また、「縁が千代切った」の略とする説などもある。「千代切った」というなら、千年間も縁を切られるという恐ろしき仲間はずれだ。さらに、「えんがちょ」は口で「エンガチョ」と囃し、指先や身体で防御の印を結ぶことで不浄なものの感染を防ぐ事が可能となっているとされるが、指で「結界」を張る行為でもあり、「他人の穢れを祓う」という意味合いもあったとされる。

 

 日本人は幼少期から「穢れ」を祓うための呪術を行っているのである。さらに「穢れ」を入れさせない、「穢れ」が自分たちにつかないように結界を張る呪術を行っているのである。恐ろしき呪術大国である。子供の時からみんな陰陽師みたいなものなのだ。と考えれば、なんで2020年代になっても「呪術」のアニメが空前の大ヒットとなっているのかも頷ける。さらに最近はNetflixで『忍びの家』が大ヒットしている。忍術とは呪術である。

 

『千と千尋の神隠し』に登場する「えんがちょ」

 

 宮崎駿監督の大ヒット映画『千と千尋の神隠し』のワンシーンにも「えんがちょ」は登場する。千が黒い液体を踏んでしまった時のシーンである。この「えんがちょ」は、地方や時代によってその呼称は異なっており、エンガチョの他、エンガ、ビビンチョ、エンピ、バリヤーなど複数のバリエーションがある。「バリヤー」というのはバリヤーを張る行為だから分かりやすいが、子どもたちがいつから「えんがちょ」を始めたのか、その起源は不明である。

 

 地方ごとのバリエーションだが、関東は「えんがちょ」、関西は「ぎっちょ」、長崎の人は「だーんび!」と言うらしい。大阪南部では「べべんじょ」と言うという話もあるが、これは「便所」のことではないか。札幌では 「えった バリア」という恐ろしい差別用語が使われ、バリアと言う時に親指だけ出して向けるという。さらに北海道では鬼ごっこでタッチする時に「エッタ」と言うのだ。これは完全に「エタ・非人」の「穢多」のことだ。

 

 大阪の 「ぎっちょ」は、関西では「左利き」を指す言葉でもあるが、 穢れを避ける遊びの時も「ぎっちょ!」と言い、 付随する動作は、人差し指と中指を重ねる動作である。多分、「ぎっちょ」は左利きの人への蔑称ではないだろうか。日本では「右」は正道とされ、「左道」は不正な道、邪道とされるからである。インドとの関わりは不明だが、インドでは左手は「不浄」とされている。

 

 しかし、印を結ぶことで結界を張るというのならば、それはまさに陰陽師たちが「魔を入れないように結界を張るための印」である「ドーマン・セーマン」の「九字切り」の呪術と同じ意味と考えられる。いったい誰が全国の子どもたちに伝えていったのか。これは作者不明の童唄や子供の遊びと同じである。籠神社に伝わってきた隠し歌「かごめかごめ」の呪術と同じ類ならば「預言」となるが、これはあくまでも「結界」を張って、日本の国土の中に「穢れ」を入れさせないための呪術だったのではないだろうか。

 「えんがちょ」は「糞便を踏んでしまう」「トイレの便器に触れてしまう」など、誰かが不浄なものに触れた瞬間を第三者に目撃された段階が起点となる。 不浄なものを触れた者は、当該部位を別の第三者にこすり付ける事で穢れから解放されるが、第三者が「えんがちょ」と叫び、印を結ぶと防御することが出来ることになっている。この時、印を結ぶものと、結んだ印を切ることで「えんがちょ切った」となり、縁=穢を切られることになる。

 

 こうした民俗風習に於ける「穢れを防ぐ行為」は古来よりあるとされ、13世紀ごろの『平治物語絵詞』には藤原通憲(信西)の生首を見ている人々が人差し指と中指を交差させている図が確認できる。

 

薙刀に結ばれた藤原通憲(信西)の首とそれを見て穢れを防ぐ人々


 『平治物語絵詞』では藤原通憲の切った「首」を見た人々が「穢れ」を避けるように顔を隠したり指で「印」を結んでいる。結界を張っているのだ。結び方は異なるものの、こうした指を結んで穢れを避けようとする行為は、大人も同じなのである。また、顔を隠して見ないというのも穢れを避ける方法のようだ

平安時代から行われてきた「えんがちょ」

 

 「えんがちょ」とは異なるが、筆者も子供の頃から霊柩車を見ると、親指を隠す仕草をしていたことを思い出す。誰に教わったのかは覚えていないが、霊柩車が見えた瞬間に反応的にやっていた。この「親指を隠す」行為だが、親指は「魂が入る神聖なもの」と考えられ、そこに死者の魂が入らないように隠したのだという。もちろん起源は不明だが、これにも陰陽師が関わっていたのだろうと推測される。

 

  「親指」を隠す意図は、「親の死に目に会えない 」「親が早くに死ぬ 」「親戚に不幸がある 」「縁起が悪い」 等、親を連想する不幸を連想するところから始まり、意味が拡大していったと考えられる。 また、葬儀を見たら敬意を表すために親指を隠す礼法である「叉手」(サシュ)から伝わったとする説もある。この「叉手」とは、親指を見せずに手を組む合掌に次ぐ礼法である。この場合は仏教的な考え方で、葬列は神聖な物、仏であるから「偉い」ということで、葬列を見たら敬意を払いなさい→叉手→親指見せない、となったのではないかという。

 ちなみに霊柩車というものは大正期に登場したようで、その前を調べてみると「葬列を見たら親指を隠す」というような形だったようである。他にも地域で色々な風習や慣例があり、例えば
「夜道を歩くとき親指を中側に握ると狐に化かされない」とか「親指を握ると疫病にならない」というものもあるらしい。なぜ親指と疫病が関係するのかは分からないが、なにせ「祇園祭」という平安京最大の神事が始まったのも「疫病」が起源である。そして疫病とは「穢れ」そのものなのである。この非科学的な考え方の中にこそ「穢れ」の本質が隠されているのである。

 

 民俗学者の京馬伸子氏は、1990年に『民俗』で発表した論文『子どもとケガレを考える - エンガチョを中心に』で、エンガチョの印に関して複数の形態を図説している。基本的に触れられると移る、という理念の下に幼児の鬼ごっこなどに適用されるのだが、実に不思議なことに、誰が教えたか不明のまま幼児の間にいつの間にか流行して定着する現象が半世紀に渡って続いているという。

 ・両手を用いて人差し指と親指で輪を作って交差させる。
 ・右手の人差し指と中指を交差させる。
 ・右手の中指と薬指を交差させる。
 ・親指を人差し指と中指の間に入れて握り拳を作る。
 ・人差し指と親指で輪を作る。
 ・両手の人差し指を繋ぎ、第三者に切り離して貰う。


 こうした指の形態に加えて腕や脚を交差することで、「えんがちょ」はより強い防御力を発揮することができるとされる。腕を交差するなんてまるで「ウルトラマン」のスペシウム光線と同じだ(笑)。しかし、これが笑い事ではないのだ。時代を経るにつれ1960年代からテレビ放映されたウルトラマンや鉄人28号などの影響を受け、「バリヤー」などと呼ばれるようにもなったからだ。と考えると、日本人の子供たちは、ウルトラマンを見ながら心の何処かで呪術だと感じていたことになる。

 

 筆者はウルトラマンよりウルトラセブンの影響が大きい。なぜかといえば、「十字架」である。ウルトラセブンがガッツ星人と戦った際、ウルトラセブンは十字架で処刑されるのだ。子供心にも非常に強いインパクトがある映像だった。まだ幼稚園生で、当時はカトリックの幼稚園に通ってはいたが、イエス・キリストのことなんか理解していなかったが、この時の映像は終生脳裏に刻まれている。

 

ウルトラマンの十字とウルトラセブンの十字架

 

 今更ながらウルトラマンがスペシウム光線を放つ時の「十字」もウルトラセブンの「十字架」も、ある意味「呪術」である。TV番組を通じて、子供に多大な影響を与えるからだ。 なにせ「特撮の神様」と呼ばれ、『ゴジラ』シリーズと『ウルトラマン』シリーズの共同製作者である円谷英二である。映画史において最も重要かつ影響力のある人物の一人とみなされている円谷英二が意図してやったことも考えられる。もしくはそう制作するようにした何者かの意図を汲んで製作されたのか。

 

 実は「えんがちょ」は古来より培われた「鉤十字の魔除」に起源を持ち、戦前ごろより頻繁に行われるようになったという説があるからだ。「鉤十字:カギ十字」とは「卍:まんじ」である。「卍:まんじ」は世界の四方を表すことで仏教のシンボルにもなっているが、起源はもっと古い。さらに、片手の人差し指と中指を交差させる行為は、西洋においては、試験などに臨む者に対して「君の成功を祈る、頑張って」という意味で用いられる。初期キリスト教において指の交差は十字架を意味し、「神はあなたと共にいる」ということを表したものなのである。

 

 すると、ウルトラマンがスペシウム光線を放つ時の「十字」もウルトラセブンの「十字架」も、イエス・キリストの象徴となる!特にウルトラセブンは神の聖数「7」を背負った存在だし、M78星雲光の国には「ウルトラの父」がいる。まるで天の御父である。「ウルトラの父」の設定は、M78星雲光の国の宇宙警備隊の初代隊長で、後に最高司令官・大隊長を務めたことになっている。天使でいえば天使長にしてサタンの軍団と戦ったヤハウェ軍の隊長「大天使ミカエル」である。ウルトラの父とウルトラの母とは夫婦関係にあり、ウルトラマンタロウの実父である。

 

ウルトラの父と大天使ミカエル

 

 上の画像では、まるでウルトラの父が弘法大師・空海のごとく「密教法具」の「金剛杵」(こんごうしょ)のようなものを持っているではないか!(笑)。空海が持っていたのは「独鈷杵」「三鈷杵」「五鈷杵」だが、ウルトラの父は8本のものを持っているから「八鈷杵」か。まさに「八:ヤハウェ」の軍隊長ミカエルが投影されていると言えないだろうか。角が生えているのにはモーセが投影されている。ウルトラ一家の祖だからで、それはイスラエル民族を率いたモーセと同じである。


 大天使ミカエルはサタンの軍団をやっつけた褒美として骨肉の体を与えられ、人類の祖となった「アダム」の霊体である。そして妻を持った。「イブ」である。「ウルトラの母」にはイブが投影されているとしか思えない。さらに「ウルトラマンタロウ」はウルトラの父と母の独り子である。ウルトラ兄弟というのは後でつけられた設定で血のつながりはない。天の御父の独り子は霊神ヤハウェにしてイエス・キリストである。

 

ウルトラの母とウルトラマンタロウ

 

 「タロウ」という名前は日本人の男子の最もポピュラーな名前だが、ヘブライ語で最もポピュラーな男子名は「ヨシュア」である。「ヨシュア」は「ヤハウェは救い」を意味する「イェホーシューア」で、これが日本語に転記される際に転訛した物である。そして、「ヨシュア・メシア」はヘブライ語だが、ギリシャ語では「イエス・キリスト」である。

 

 「キリスト」とは「メシア=救世主」である。「ウルトラ」とは「超えた」で、「マン」とは「人間」。「ウルトラマン」とは人類を超越した存在であり、そこに「タロウ=ヨシュア=イエス」という名が与えられているのだ。「ウルトラ・マン・タロウ」とは「現人神の救世主イエス」ということなのだ。だからウルトラ一家は「赤い」のである。まるで「日の丸」である。恐ろしき象徴が込められたTV番組のヒーローである。

 

<つづく>