「穢れ」と「言霊」の謎:その11

 

 『日本書紀』によれば、「日本」という国号を定めたのは物部氏の祖神・ニギハヤヒである。「日本」の読みは「ヤマト」だが、国号の表記はこれが初出で、日本という国号と物部氏は深い関係にあったということになる。しかし、正式に国号が「日本」(日ノ本)と命名されたのは飛鳥時代末期で、そこには太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を重視していたことが窺える。第33代推古天皇の時代に聖徳太子が隋の皇帝・煬帝へ、「日出處天子…」で始まる国書を送っていることも関係している。

 

 第10代崇神天皇は、宮廷内に祀られていた天照大神を宮廷外で祀るようになり、第11代垂仁天皇の在位時に初代斎宮・倭姫命によって伊勢に鎮座した。第40代天武天皇は「壬申の乱」の時に伊勢神宮を望拝。これが「勝利に結びついた」と考えられ、在位中に伊勢神宮の「遷宮」を制度化、第41代持統天皇の在位時に第1回目の式年遷宮が行われている。日本の国家統治と太陽の結びつきはますます強くなったのである。式年遷宮は20年に一度、伊勢神宮125社が全て建て替えられ、東から西へ、西から東へと御神体が移動する。ここにも「東西日本」が象徴されている。

 

◆「錦の御旗」と「萬歳」


 「太陽」を象った旗を用いるようになったのは、645年(大化元年)の「乙巳の変」(大化の改新)以後、天皇による親政が確立された頃からと考えられている。文献としては、797年(延暦16年)の『続日本紀』の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述において、「正月元旦に儀式会場の飾りつけに『日像』の旗を掲げた」とあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれているが、それは「白地に赤丸ではなかった」と見られている。

 世界中で歴史的に「太陽」は赤で描かれることは少なく、太陽は「黄色」または「金色」である。それに対して「月」は「白色」または「銀色」で表すのが一般的である。実は日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことは一般的ではなかったと思われる。高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に「日象・月象」が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されているのだ。

 

 第42代文武天皇の即位以来、宮中の重要な儀式では三足烏をかたどった「銅烏幢」(どううどう)に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが分かっているが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く「烏」を描いたものであったことが確認されている。「銅烏幢」とは元旦の朝賀や即位礼の時などに、威儀を加える用具として用いられたものの一つで、紫宸殿の南庭に、飾りとして立てられた幢(はた)のことである。

 

 また『平家物語』などの記述などからも平安時代末期の頃までの「日輪」の表現は通常「赤地に金丸」であったと考えられている。

 

3本足の烏が描かれた「銅烏幢」

 

 『続日本紀』大宝元年(701)正月条に、藤原宮の正門前に烏形の幢(はた)を立て、その左右に日月像と四神幡を立てて、元日朝賀の儀式を行った様子が記されている。日月像と四神幡は陰陽五行思想を象徴するアイテムで、陰陽が調和し、五行が規則正しく循環する姿を「幢幡」(どうばん:竿柱に、長い帛はくを垂れ下げたもの)で表現し、理想的な国家統治を願ったものと考えられているが、 この中央に位置する烏形の幢は、一体何を意味するのか。

 
「八咫烏」である。この「幢:はた」とは秦氏の「秦:はた」であり「旗:はた」でもある。神武天皇が九州の日向から大和に東征する際に、天皇を熊野から大和に先導したとされるカラスが「黒い烏」の「八咫烏」として描かれ、さらに長髄彦と対峙した際、神武天皇の弓矢の先に降りてきた光り輝く金の鳶(とび)を「金鵄」(きんし:金の烏)を、上の画像『文安御即位調度図』の中央に「三足烏」(さんそくう)として描いている。裏陰陽道秘密結社「八咫烏」の頭目である3人で一人の裏天皇を成す三羽烏の「金鵄」である。


 古代の東アジアでは、太陽の中に「三足烏」が住むと広く信じられ、中国のみならず、高句麗の壁画古墳や日本の法隆寺の「玉虫厨子」にも太陽の中に三足烏が描かれている。つまり、絵としては描かれていないが、白地に紅色で丸が描かれた日本の国旗旗「日章旗」の中には「八咫烏」が隠れているということを伝えているのである!

 

「即位正殿の儀」で用いられる旗類

 

 上の画像は新天皇の「即位正殿の儀」に用いられる旗類である。一番左と右は「金鵄」と「八咫烏」、中の左右は「銀丸:月」と「金丸:太陽」の旗である。中央の旗には「萬歳」と金文字が刺繍されているが、これは天皇の祝が行事で必ず国民が両手を挙げて言う「バンザイ」で、その意味は天皇陛下の「万年長寿を祝う」ことだと考える。現在、この場合の「バンザイ」に当てる字は「万歳」であり、「バンザイ」と発音するようになったのは大日本帝国憲法発布の日、1889年(明治22年)のことである。

 

 「万歳」の異字体は「万才」、旧字体が「萬歲」で、読みは「ばんざい、ばんぜい」である。喜びや祝いを表す動作などを指していう言葉で、動作を表す場合は、「万歳」の語を発しつつ両腕を上方に向けて伸ばす。また、より強調して、「万々歳(ばんばんざい)」と言われる場合もあるが、祝賀行事では「万々歳」は使われない。

 

 東京帝国大学の学生一同で皇居前に並び明治天皇を奉送迎しようという議が起こり、1889年(明治22年)2月11日に青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって「万歳三唱」したのが最初だという。それまで日本には天皇を歓呼する言葉がなく、出御にあたってただ最敬礼するのみであった。なにせ江戸の人間は誰も天皇を見たこともなく、それは京都も同じである。一般庶民たちの前に姿を現したのは明治天皇が最初だったからである。

 

 

 明治天皇を奉送迎するに際して最敬礼では物足りないので歓呼の声を挙げようという話が教師の間で持ち上がる。そこで、フランス語の「ヴィヴ・ラ・フランス(Vive la France=フランス万歳)」や英語の「セーヴ・ザ・キング(Save the King=国王を護りたまえ)」のような唱和の言葉を考えることになり、和田垣謙三教授の提議した「万歳、万歳、万々歳」の唱和が決められた。

 

 しかし、当日最初の「万歳」が高らかにあがると馬車の馬が驚いて立ち止まってしまい、そのため二声目の「万歳」は小声となり、三声目の「万々歳」は言えずじまいに終わった。これを聴いた人々は「万歳」を再唱したと思ったようで、以後、めでたい時の歓呼の声として「バンザイ」が唱えられるようになり、「万々歳」は定着しなかったという。


 韓国・北朝鮮では「マンセー、マンセ」と言う。ラテン語圏ではイタリア語「ヴィヴァ(viva)」、スペイン語「ビバ(viva)」(スペイン語はvの音はbと混用される)、フランス語「ヴィーヴ(vive)」があり、ナチス時代には「ハイル・ヒトラー」という言葉が「ヒトラー万歳」という意味で使われ、また「ジーク・ハイル(勝利万歳)」などの言葉も使用された。Hurraは歓喜や激励の叫び、またHeilは本来ラテン語のSalve(敬礼)にあたる単語で、「万年長寿を祝う」とは若干意味が異なる。
 

皇居での万歳三唱

 

 「万歳」として呉音の「マンザイ」と読む案もあったらしい。それまでの奉祝の言葉としては漢音の「バンセイ」あるいは「バンゼー」が、「マ」では「腹に力が入らない」とされたため、謡曲・高砂の「千秋楽」「千秋楽は民を撫で、萬歳楽(バンザイラク)には命を延ぶ」と合わせ、漢音と呉音の混用を問わずに「万歳:バンザイ」とした。この「千秋楽」とは平安時代に成立した雅楽にあったもので、「千秋楽」と共に「万歳楽」(まんざいらく)という曲も伝えられており、共に君主の長久を祝うめでたい曲とされている。


 「天皇陛下万歳」は、天皇の健康、長寿、ひいては日本国の永続的な安寧を祈るものであり、近年でも即位の礼や在位記念式典において公式に使われ、また皇居における一般参賀などの場面において、万歳三唱する市民も見られる。 また明仁天皇の在位中最後の天覧相撲となった平成31年初場所8日目において、天皇皇后が退席する際に観衆から自然に万歳が起こった。

 慣例として、衆議院解散時に議長より詔書が読み上げられ、解散が宣言されたとき、その瞬間失職した衆議院議員たちが「万歳!」と三唱する。この慣例の経緯は明らかではないが、衆議院議員たちが選挙戦に「突撃」してゆく気概を表しているとも、国事行為として衆議院を解散する天皇に対しての敬意とも言われている。

 

解散の際の万歳三唱

 

 上の画像をよく見ると、最近の議員には「万歳三唱」の仕方を知らない人がいる。というか間違ったやり方で「バンザイ」とやっている連中がいることだ。それは両手を「内のひらを向きにする万歳」である。そもそも前提として、万歳三唱の所作について、「正しい万歳」は存在しない。「公式に定められたもの」は存在しないというのが日本政府の公式見解(2010年2月12日答弁第70号)である。しかし、なぜこんなこんな万歳をやっているのか。これは「万歳三唱令」という、かつて列島を騒がせた”偽文書”に端を発しているとみられる。いったい、どういうことなのだろうか。

 

 日本政府の公式見解というのは、民主党政権下で出されたものだが、内閣府によると、現在もこの閣議決定が変わらず政府認識であるという。国旗・国歌を所管する内閣府官房総務課管理室の担当者も、BuzzFeed Newsの取材に対し、「個人的にも、そうしたものがあるとは承知していない」と答えている。では、なぜ「手のひらを内側に向けるのが正しい」という言説が拡散したのだろうか。それは安倍晋三である。天皇陛下が国内外に即位を宣言した「即位礼正殿の儀」における安倍晋三首相の万歳の仕方を賞賛する形で、「手のひらを内側に向けるのが正しい万歳」という言説がTwitterなどで拡散したのである。


「即位礼正殿の儀」における安倍晋三の万歳

 

 この両手の手のひらを内向きにする万歳というのは「朝鮮式の万歳」である。天皇陛下の即位を馬鹿にするようなもので、皇室を足蹴にする行為である。一時期「正式な万歳を定めたもの」として広がった「万歳三唱令」は、1990年代後半、日本の官公庁を騒がせた偽文書である。明治時代の法令「太政官布告」を模したもので、全国的に出回り、国会図書館が公式に否定する事態にまで広がる社会問題となった。Wikipediaには、当時出回っていた文書がまとめられている。その「第三条」によると、以下の通りに万歳を行うと記されている。

 

 第三条:細部については別に定める。(実施要領を参照)
 実施要領
 1.直立不動で両手は指をまっすぐ下方に伸ばし体の側面にしっかり付ける。
 2.万歳の発声とともに右足を半歩踏み出し、同時に両腕を垂直に高々と挙げる。 その際、
両手の指をまっすぐに伸ばし両掌を内側に向けておく。
 3.万歳の発声終了と同時に素早く元の直立不動の姿勢に戻す。
 4.以上の動作を三度、節度を持ちかつ気迫を込めて行う。 

 

 「両掌を内側に」という言葉がある。この「万歳三唱令」の原文はカタカナ混じりで、一見すれば明治時代のものにも見えてしまうものだったという。内容には地域差があるほか、現代語訳されたものもあり、広く拡散したようだ。当時の共同通信の報道(1999年12月11日)によると、国会図書館には「三年前から問い合わせが始まり、北海道から九州まで数十件の照会」があったという。その多くは自治体や警察、消防などの官公庁からで、「信じないように」とする対応に追われていたという。

 

 この内向き万歳で当選を祝したのが、安倍晋三の甥である岸信千世である。

 

岸信千世氏の万歳


 2023年の衆院山口2区補選は、安倍晋三の弟である岸信夫・前防衛相の辞職に伴って行われた。初当選を確実にしたとの一部報道を受けて岸信千世氏山口県岩国市のホテル内のホールに集まった支持者らを前に万歳三唱し、「全力でこの国の、県の課題に取り組んで参ります」と挨拶している。もちろん岸信千世氏は安倍晋三の祖父岸信介の曾孫で、岸家は李氏朝鮮の末裔である。安倍晋三の父、安倍晋太郎は岸信介の娘・洋子を嫁にもらったが、晋太郎もまた李氏朝鮮王直系の子孫である。

 安倍晋三が朝鮮式の万歳を即位の礼の際にやったということは、天皇家に対する侮辱である。しかし、一方でこれは朝鮮式の呪術であもる。今の日本はアメリカの属国として、朝鮮民族が政官財のトップに君臨して大和民族を足蹴にしている状態にある。さらに、そのアメリカと在日朝鮮民族の支配層による偽りの言霊に騙されて、1億人が遅死性ワクチンを接種してしまっており、「蘇民将来」の預言における「古丹」として滅ぼされることとなる。つまり
日本は真っ二つになるということだ。

 

 「日本」は最初から「二本」であり、日本は二つに分かれていたと前述したが、これからまた日本は「二本」に分かれることとなる。そして、これこそが「言霊」が起こす事態なのである。

 

<つづく>