「穢れ」と「言霊」の謎:その10

 

 正月に来訪した歳神は「鏡餅」に依りつく。すると、鏡餅には歳神の「御魂」(みたま)が宿る。この鏡餅の「餅玉」が、歳神の御魂であり、その年の魂となる「年魂」である。そして、年魂をあらわす餅玉を、家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与える風習となった。これがお年玉のルーツで、玉には魂という意味が込められている。「たま=玉=魂」という「言霊」である。
 

◆鏡餅に込められた言霊の仕掛け

 

 鏡は、日の光を反射し太陽のように光ることから、太陽神・天照大神に見立てられ、神が宿るものと考えられるようになった。よって伊勢内宮のご神体=「神のカラダ」が「八咫鏡」なのであり、全国の神社の拝殿にそのレプリカとしての鏡がご神体として祀られているのである。そこで、稲の霊が宿った神聖なものとして神に捧げられる餅を、神様が宿る丸い鏡に見立てて「鏡餅」と呼ぶようになり、歳神の居場所=依り代として正月に供えするようになった。

 


「鏡餅」の種類

  以前のブログにも書いたが、改めて「鏡餅」の構造を見直してみよう。まず、なぜ丸い餅を2段重ねるのかであるが、丸い形は、
丸い鏡(八咫鏡)を模しており、神の魂の象徴でもある。大小2段で陰と陽、月と太陽を表していて、円満に年を重ねる、夫婦和合などの意味も込められているが、それはまだ表の意味である

 

 2枚で一対なのは、八咫の鏡の正体が「十戒の石板」だからであり、陰陽での和合=子孫繁栄の象徴でもあり、餅の上の「橙」(だいだい)を合わせると3段で絶対三神の意味が込められている。これはカッバーラの「絶対三神唯一神界」の象徴で、カッバーラの「生命の樹」の三段階を上昇することこそが天界の奥義にたどり着くということで、橙の上に「扇(奥義)」が乗せられている。

 

 カッバーラの仕掛けは「象徴」と「ダジャレ」の中に隠されている場合が多い。ダジャレこそ「言霊」の仕掛けなのである。橙」は「代々」とも書く。果実は冬に熟しても落ちにくいため数年残ることがあり、1本の木に何代もの実がなることから、代々家督が続いて繁栄することを願うことの象徴としている。が、一方で橙は「太陽」で太陽神、さらに太陽の下に2枚の丸い餅を置くことで「天孫降臨」を示し、さらに太陽(祖母)から木星が生まれ、その木星が地球を生んだ母だと伝えている。


 

 地方によっては飾らないところもあるが、横一列の「串柿」と縦の「昆布」はイエスの「磔刑の十字架」の象徴である。伊勢神宮では、縦木と横木を「忌柱」「天御柱」と呼ぶが、この場合、一番上の橙は「太陽=ヤハウェ=イエス」の頭の象徴と化し、まさに餅がイエスの肉体となる。さらに柿は「嘉来」(かき・よしき)に通じる縁起もので、「2・6・2」で10個の干し柿を串に刺した状態は「イスラエル10支族」を象徴、そこに2枚の鏡餅で「2支族」が加わると、イスラエル12支族が集合したことを伝えている。

 

 この場合、橙は聖別されたレビ族出身の王家でありモーセ直系の末裔の「天皇陛下」を示す。なぜなら天皇陛下は太陽神・天照大神の預言者であり、神の言葉を下にいる者たちに述べ伝える役割だからである。モーセがシナイ山の上で絶対神ヤハウェから「十戒」という大和民族を戒めるための「言葉」を授かり、それが2枚の石板に記されたからこそ鏡餅は2枚で、その餅には神の魂が宿っている=「言霊が宿っている」と伝えているのである!

 

 さらに、串に刺した串柿は三種の神器の「草薙剣」をも表し、「八咫鏡=鏡餅、八尺瓊勾玉=橙、草薙剣=串柿」で「三種の神器」が揃っていることも表しているのである。恐ろしいほどに徹底された呪術である。

 



 ちなみに「串柿」は「2・6・2」で10個刺してあることで、「いつもニコニコ仲睦(6つ)まじく」というダジャレの意味も込められている。この「仲睦まじく」を象徴するものには「裏白」がある。裏白はシダの一種で、表面は緑色だが、裏面が白いので後ろ暗いところがない清廉潔白の心を表し、葉の模様が対になって生えていることで、夫婦仲むつまじく相性の良い事、白髪になるまでの長寿を願うものとされている。これまたダジャレだ。

 「串柿」の真ん中から垂れている「昆布」は「養老昆布(よろこぶ)=喜ぶ」の意のダジャレである。しかし、古くは昆布の事を
「広布」(ひろめ)と言い、喜びが広がる縁起ものとしたが、これは「奥義を広めよ」という意味と「子孫を広めよ」という意味が隠されている。なぜなら、三段の「鏡餅」の構造は「ノアの箱舟」をも意味しているからだ。なぜなら「ノアの箱舟」は三階建ての構造だったからである。

 

 次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、 箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。(「創世記」第6章15-16節)

 

 

 「鏡餅」の真ん中には「水引き」が備えられている。「水引き」は、祝儀袋や不祝儀袋の表に用いられる飾り紐であるが、その言葉の通り、大洪水の水が引いたことで、ノアと3人の息子たちの子孫を増やせと絶対神は告げたのである。

 

 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」(「創世記」第9章1節)

 

 昆布の事を「広布:ひろめ」と呼び、「子孫を広めよ」という意味を込めたのはノアに対する絶対神の命令なのである。絶対神ヤハウェは姿を現さないが、ヤハウェが降臨する時には大きな雲とともに雷鳴がとどろき、雷が落ちる。この「雷」を象徴しているのが紅白の「紙垂」(しで)である。その時、太陽神ヤハウェは「橙」となり、2枚の鏡餅は分厚い「雲」の象徴となる。さらに「譲り葉」は、新しい葉が出てから古い葉が落ちるので、家督を子孫に譲り、家系が続くことを表す。まさに「産めよ、増えよ、地に満ちよ」を象徴しているのである。

 

 さらに昆布は「子生」「子生婦」とも表記されることもあり、子孫繁栄を表したり子宝に恵まれるようにと願いを込めたりするため飾られるが、これは「預言」である。前回、「オノゴロ島」とは「隠岐」の「島後」であり、名前が無かった島後に「名」が与えられたことで「新しく生まれた子供=新しい世界」ということになるとしたが、その預言が「昆布=子生」には込められていたのである。

 

◆古代北東日本「蝦夷」と「日の丸」

 

 「串柿」は「2・6・2」で10個刺してあることで、「いつもニコニコ仲睦(6つ)まじく」というダジャレにもなっているが、

「よろこんぶ」のオヤジギャグでもある「昆布」は、「蝦夷」(えぞ)で取れるので「夷子布」(えびすめ)と呼ばれ、七福神の恵比寿に掛けて福が授かる意味合いや、「子生」(こぶ)と書いて子宝に恵まれるよう願うこともある。だが、実はここにこそ「言霊」が隠されている。「蝦夷」を「えぞ」と読むと、北海道産の昆布の話だと勘違いするが、違う。これは「エミシ」である。

 

左:5世紀から9世紀にかけての北東日本 右:「夷酋」

 

 日本古代史上、東日本、特に北東日本は「大和朝廷」による統一国家の支配に抵抗、その支配の外に立ち続けた。その人たちの呼称を「えみし」「えびす」ともいう。「蝦夷」は、大和朝廷が始まって以降、歴代の中央政権から見て、日本列島の東国や、北方などに住む人々の呼称であり、蔑称であるため、「夷」という字を当てたのである。 

 

 「夷」は「イ・えびす」と読むが、その意味には「呪詛」が込められている。「東方の未開人」「たいら、たいらになる」「たいらげる、平定する」「ころす、ほろぼす」とあるからだ。要は大和朝廷にとっての「敵」を表す字であり、敵を平定することを「夷滅」と書く。この北東日本の蝦夷を征圧する任を負った軍人の大将を「征夷大将軍」としたのは、夷は殲滅すべき対象とされたからである。ここだけを読むと、全くもって「和を以て貴しとなす」という聖徳太子の思想を外れているとしか言いようがない。

 

 上の左の画像を見ても分かるように、5世紀以降もずっと「蝦夷」を攻め続けてきたことが分かる。9世紀以降になると、青森から上に追いやられている。「蝦夷」は「エミシ」と「エゾ」という2つの呼称に大別される。 大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷は、「俘囚」(ふしゅう)と呼ばれた。俘囚とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、大和朝廷の支配に属するようになった者を指し、「夷俘」とも呼ばれた。

 

「俘囚」と朝廷の役人を描いた絵

 

 「夷をもって夷を制す」という言葉があるが、これは朝廷の支配に服した蝦夷を、反抗する蝦夷征伐の際の軍事力として利用したことを指す。ある意味でアメリカに支配された現代の日本における在日韓国人・朝鮮人を使った大和民族の支配と同じである。異なるのは同じ民族か異民族か、という点だが。追って詳細は書いていくが、蝦夷は異民族ではないが、大和朝廷に反抗し続けたことで、「まつろわぬ民」とされた人たちである。その意味では物部氏と同様である。

 

 俘囚の中で「移配俘囚」と呼ばれた人たちがいるが、これは7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和朝廷と蝦夷の戦争(蝦夷征伐)で、朝廷側へ帰服した蝦夷のうち、集団で強制移住(移配)させられた者たちを指す。移住先は九州までの全国に及んだが、移住させた目的としては、大きく分けて下記のようなものであった。

 ●蝦夷自身が、同族から裏切り者として、報復や侵略される危険性があったため、生命の安全と生活の安定化を望んだ。
 ●故地(陸奥・出羽)から切り離し公民意識から皇化し、和人へ同化させようとした。
 ●軍事力の備えとして利用しようとした。

 

 9世紀半ば、各国内の治安維持のための国司の指揮による国衙軍制へ移行したが、移配俘囚は主要な軍事力として位置づけられたが、移配俘囚は次第に騒乱を起こし、各地の治安が悪化した。813年頃には出雲国で「荒橿の乱」が、875年には「下総俘囚の乱」、883年には「上総俘囚の乱」などが起きた。これに対して、当初は、新羅による入寇など、九州の防衛に人手が必要だったこともあり、移配俘囚の制度は維持されていたが、最終的に、朝廷は、897年(寛平9)、全国の移配俘囚を奥羽へ還住することを決め実行された。

 

「清水寺縁起絵巻」坂上田村麻呂軍蝦夷征討の図

 

 移配俘囚が各地で反乱を起こした原因について、一般的な歴史学者はこれらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えているが、それだけではない。彼らの中には定期的に大和朝廷に対する怒りの炎が燃え盛るのである。そうでなければ全国の移配俘囚を奥羽へ還住することはない。

 

 このことが意味するのは、当時の大和朝廷の勢力範囲はそこまでで、「日本」という国には東北以北は含まれていなかったということである。つまり、日本は「二本」だったのである。それを表すのが正統性を表す「錦の御旗」である。有名なのは明治維新の際に官軍が掲げた「錦の御旗」だ。錦の御旗(にしきのみはた)は、天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗であり、別名を「菊章旗」、「日月旗」とも言う。 赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗で、この日之御旗と月之御旗は二つ一組である。

 

 これが意味するところは、2つに分かれていた日本を統一することが許された存在が天皇陛下ということである。よって「朝敵」討伐者の旗ということである。「承久の乱」(1221年〈承久3年〉)に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、日本史上の錦旗の初見とされる。

 

「錦の御旗」

 

 日本人の古代信仰として物部氏が奉じる「古神道」では自然崇拝・精霊崇拝を内包しており、特に農耕や漁撈において太陽を信仰の対象としてきた。一方の秦氏が奉じた「神道」では、皇祖神・天照大神は太陽神である。と考えた時に、天皇は2つの宗教「古神道=原始ユダヤ教」と「神道=原始キリスト教」を統一、日本を支配することを許された存在という意味になる。

 

 物部氏の祖神「饒速日命」(ニギハヤヒ)は「天磐船」(あまのいわふね)で哮峰(たけるがみね)に降臨したとある。『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国の河上の地に天降り、その後、大和国(奈良県)に移ったとされている。物部氏の歴史書である『先代旧事本紀』では「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたま にぎはやひのみこと)といい、アメノオシホミミの子で天孫「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)の兄である「天火明命」(アメノホアカリ)と同一神である。

 

 「饒:ニギ」「瓊瓊:ニニギ」「火明」も同じ太陽神ということで、全て同一神だが、「饒速日命」も「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」も男神で、天照大神は女神である。ここにこそ「錦の御旗」を赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を描いた意図が隠されている。「赤地=太陽神」で同一神「ヤハウェ=イエス・キリスト」、日像:男神、月像:女神として表したのであり、旗竿の上に掲げられた金玉=天皇陛下という意味なのである。

 

 しかし、それでは「東日本側=蝦夷の国」、「西日本側=大和朝廷が支配する国」という意味にはならない。これはいったいどういうことなのだろうか。

 

<つづく>