「穢れ」と「言霊」の謎:その9

 

 『古事記』では淤能碁呂島、『日本書紀』では磤馭慮島と記された世界から隠されてきた「オノゴロ島」とは、「隠岐」の「島後」であったが、名前が無かった島後にも「名」が与えられたことで呪詛の対象となった。名を与えられたことで島後は「新しく生まれた子供」と等しい存在となったのである。

 

 全ては象徴であるが、「新しく生まれた子供」というのなら、それはまだ世界のどこにも存在しない場所ということになる。これを「預言」と捉えたら時、「新しく生まれた子供」とは、「新しい世界」ということになる。それはまだ、地球上には存在しない大陸が再び創造されるという意味である。もちろん、それを創造するのは創造神ヤハウェが受肉したイエス・キリストである。

 

 だが、「新しい世界」が生まれるには、「生みの苦しみ」を伴う。島後には名前がついたが、新しい大陸を地球という母が生み出すには、地球は出産期に入る必要がある。この世的な尺度で考えれば、それは地球上に大激震が走ることを意味する。つまり、出産前には「荒ぶる神=荒魂=スサノウ=ヤハウェ」が暴れ出すことになり、そこでは多くの人類が姿を消すことになる。出産後の母親が急に痩せたりするのと同じように、地球も子供を生むによってその姿が分かってしまう。

 

 

 「古い世界」が終わらなければ、「新しい世界」は生まれてこない。日本人が無意識にずっと続けてきた習慣、長年育んできた文化は、全て「終末預言」に基づいて行われてきた行為である。なんのためか。「神の再臨」、そして「新しい世の出現」。この2つである。そう考えた時、「鏡開き・鏡割り」と国旗「日の丸」には別の意味が隠されていることになる。

 

◆「鏡餅」の「鏡開き・鏡割り」

 

 雑煮に使われる餅の形は東西で「四角」と「丸」に分かれており、2つを1つにすれば日本の「日の丸」になると書いたが、神道の呪術は必ず複数の意味が多層的に隠されている。「餅」はイエス・キリストの「肉」であり、「酒」はイエス・キリストの「血」である。つまり、「赤丸」は太陽神を意味し、天照大神=イエスの存在を表しているが、イエスの血も象徴しているということだ。

 

 「お屠蘇」と同様に、透明な汁を朱塗りの御椀に入れれば、雑煮の汁もイエスの血となる。「四角い餅」と国旗の長方形の「白地」も意味しているものは地の四方のこと、「大地」である。つまり「日本国」である。その日本国を創らせ、その国の皇祖神・天照大神として祀られているのも「丸餅」でイエス・キリストだということを示している。たかが「食べ物」などと考えてはいけない。

 

 

 祝いの場で酒樽を木槌で二つに割ることを「鏡開き・鏡割り」と呼び、正月の「鏡餅」を木槌で割ることも「鏡割り:鏡開き」と呼ぶ。鏡餅の場合、「鏡開き」をする時期は、 一般的に毎年1月11日である。「11」なら「生命の樹」の11個のセフィロトの数(隠された「ダアト」を含む)を示し、「1+11」で「12」とするなら、旧約では「イスラエル12支族」、新約では「イエスの十二使徒」を象徴することになる。

 

 お正月は屠られて亡くなった「歳神/年神」を迎える行事であり、その歳神の「依り代」となるのが鏡餅であるため、歳神がいる間は食べてはいけないとされている。そのため歳神がいる「松の内」(1月1日~1月7日。関西など15日までとする地方もある。)が明けた11日に鏡開きを行う。松の内を15日とする地方では、鏡開きを15日または20日に行う場合が多いが、昔は二十日正月といって、20日に鏡開きを行っていたが、徳川三代将軍・家光が慶安4年4月20日に亡くなったため、月命日の20日を避けて11日になったといわれている。

 

  鏡餅を単に飾っておくだけだと、歳神にお供え物をしたにすぎない。鏡餅は単なるお供え物というよりも、「歳神が宿るもの」だと考えられているため、鏡餅を開くことで歳神をお送りするという意味もある。ここにも2つの意味がある。人類のために屠られた神に感謝するための「お供え物」であり、神霊として表れる「歳神の依代」にもなる。つまり、「歳神の肉体」という意味で、「イエスの肉」ということを示す。さらに天に戻る神を「見送る」ことで、これも復活したイエスが天に戻って行ったことを伝えている。


「鏡開き・鏡割り」

 

 歳神の力が宿った鏡餅を食べることでその力を授けてもらい、1年の一家の無病息災を願う。鏡餅は、供えて、おろし、開いて食べてこそ意義があるので、小さなかけらも残さず食べないといけないとされている。旧約の故事で考えれば、砂漠で食べ物がなくて困ったイスラエル民族が、絶対神ヤハウェが与えてくれた「食べ物:マナ」に感謝するためである。筆者もそうだったが、日本人は子供の頃より「一粒のお米の中にも神様がいるんだから、ご飯を残してはいけない」と教わって育ってきた。

 

 これは日本人の意識を支配する「言霊」の呪術でもあるが、「食べ物への感謝を忘れてはならない」という教えでもある。よって、「お米を残すと目がつぶれるよ」「ご飯を残したら罰があたるよ」などとされてきた言葉は、「食べ物を粗末する=絶対神に罰を与えられる」という恐れでもある。日本人には「必要な分だけを食べる」という食習慣があるのはこのためで、それは「出エジプト記」に記されている。

 

 

  荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」


 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」(「出エジプト記」第16章2−5節)

 この「毎日必要な分だけ」ということを「出エジプト」の際に40年続けたのである。だから、残すと叱られるのである。残すということは必要以上だったということになるからだ。


  イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。
 モーセは言った。「主が命じられたことは次のことである。『その中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。』

 

 モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、 アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。 イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。
(「出エジプト記」第16章31−35節)

 

 モーセがアロンに用意させた食べ物を入れておく壺が「ユダヤ三種の神器」のひとつ「マナの壷」である。それを「掟の箱」=「契約の聖櫃アーク」の前に置いて蓄えさせたのである。これが神社における「お供え物」の起源である。

 

「契約の聖櫃アーク」

「米びつ」

 

 上の画像は「契約の聖櫃アーク」と「米びつ」である。お分かりだろう。「米びつ」とは契約の聖櫃アークを模したものなのである。漢字で書けば「米櫃」である。大仰にいえば、「契約の米櫃アーク」を日本人はずっと使ってきたのである。モーセがアロンに命令した通りにである。だが、ほとんどの日本人はそのことには気づかない。それこそが神道呪術の仕掛けなのである。

 

 鏡開きは、「具足祝い」という戦国時代の武士の風習に由来するともいわれている。正月に鎧・兜などの甲冑(かっちゅう)の前に供えた「具足餅」(ぐそくもち)または「武家餅」(ぶけもち)を下げ、槌(つち)などで割って食べた年中行事で、現代の「鏡開き」のルーツとされ、武士の魂とも言える武具・具足をまつる武家社会の伝統的な祝い事として長年行われてきた。

 具足祝い・具足開きでは、「具足餅」(鏡餅)を割る際、包丁などの
刃物で餅を切ることは切腹を連想させることから縁起が悪いとされ、手で割り砕くか木槌などで叩いて割って細かく分けて食された。これは武家社会の行事ならではの伝統と言える。また、「割る」という表現も縁起が悪いので、末広がりを意味する「開く」を使うようになり、「鏡開き」になったとされている。

 

左:「具足祝い」の道具類 右:5代将軍綱吉を奉ずる祝いの品々

 

 鏡餅の鏡開きを「具足祝い」という戦国時代の武士の風習に由来するとしているが、それは武家の世になったからの理由でしかなく、本来は神道における神社でのお供え物である「神饌」としての餅であり、正月明けの家庭で行う神事である。鏡餅は「歳神の依代」=「歳神の肉体」であり「イエスの肉」ということを示すため、たとえ小さなかけらであっても残さずに食べないといけないとされる。それは、ヤハウェはモーセに告げたように、イエスも弟子たちに同じことを伝えている。

 

 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 (「ヨハネによる福音書」第6章11-13節)

  すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(「ヨハネによる福音書」第6章32-33節)

  はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 わたしは命のパンである。 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(「ヨハネによる福音書」第6章47-51節)

 

 

 「永遠の命を与える天から降ってきたパン」だとイエスは自らのことを言っている。だからこそ、一欠片も残してはならないのであり、さらに「鏡餅」をイエスの肉体と見立てているからこそ、刃物で餅を切ることは禁じられているのだ。「鏡割り」ではなく「鏡開き」とする理由はここにある。人類にとっての新しい扉が開くからだ。つまり、これは食べ物のパンではない。あくまでも象徴としてのパンである。では、何の象徴なのか。

 

  すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(「マタイによる福音書」第4章3−4節)

 

 この言葉は、イエスを誘惑しようサタンへの返答である。骨肉の体を有する人間は、この世にあって最も大切な命の糧は、肉体を保持するための食べ物(パン=米)であると信じているが、イエスは、体のパンだけでは本当の意味では生きてはいなく、われわれは「神の言葉」によって生きていけるのだとサタンに言っている。それが、永遠の命を与えてくれるのだと。そう、それこそが「言霊:コトダマ」なのである。

 

<つづく>