「穢れ」と「言霊」の謎:その8

 

 祝いの場で酒樽を木槌で二つに割ることを「鏡割り:鏡開き」と呼び、同様に正月の「鏡餅」を木槌で割ることも「鏡割り:鏡開き」と呼ぶ。「餅」はイエス・キリストの「肉」であり、「酒」はイエス・キリストの「血」である。なぜなら、正月の「三が日」は静かに家の中で過ごし、「お屠蘇(御神酒)」を家族とともに飲み、「餅」を食べるのは、人類のために屠られて亡くなった「歳神・年神=イエス・キリスト」の霊を家に迎えて、3日後の「復活=蘇り」を願う行為だからでもあり、「最後の晩餐」を再現する行為でもあるからだ。

 

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(「マタイによる福音書」第26章26−30節)

 

 

 無色透明な「お屠蘇」を朱色の「盃」に注ぐことで、その酒は「イエス・キリストの血」に意味が変わる。一方の餅は「雑煮」として食べるが、餅の形は日本の東側と西側で形が異なり、その境目は岐阜県の関ケ原辺りになるとされてきたている。 関ケ原より東の都道県は「角餅」西の府県は「丸餅」が一般的で、 ちょうど境界線上にある、岐阜、石川、福井、三重、和歌山の5県では、角・丸2種類とも使われているところもある。

 

 なぜ、四角と丸と分かれているのか。そもそもなんで形が異なるのか。それは「日本」だからである。「ニホン」は「二本」なのだ。「日本」という国名の正式な呼び方は「ニッポン」であるが、「ニホン」と発音しても間違いではない。なにせ国史である『日本書紀』は「ニホンショキ」であって「ニッポンショキ」ではないからだ。なぜ、「ニッポン」も「ニホン」も間違いではないのか。それは、「日本」は最初から「二本」だからであり、日本は二つに分かれていたのである!そして、これこそが「言霊」の奥義である。

 

 

◆雑煮の餅と「日の丸」の謎

 

 雑煮に使われる餅の形は東西で異なり、四角と丸に分かれている。この2種類を1つにすればなんの形になるのか。それは日本の「国旗」である「日の丸」となる。日本の国旗は、白地に紅色で丸が描かれた旗で、法律上は「日章旗」(にっしょうき)と呼ばれる。日本では古くから、一般的に「日の丸」と呼ばれるが、これはは聖徳太子が隋の皇帝「煬帝」(ようだい)に遣隋使を派遣した際に託したかの有名な文書以来、自国を"日出づる国"とする考え方があり、赤い日の丸は日の出の太陽を象徴する。 また紅白は日本の伝統色で、「めでたいもの」とされており、赤は博愛と活力、白は神聖と純潔を意味するとも言われている。

 

 だが、これはあくまで表に伝わる話で、なぜ紅白なのかといえば、その起源は「古代エジプト」にさかのぼる。古代エジプト時代、エジプトは「上エジプト」(かみエジプト、Upper Egypt)および「下エジプト」(しもエジプト、Lower Egypt)に分かれており、この両者をまとめて「上下エジプト」(じょうげエジプト)と総称する。「上下エジプト」とは呼ぶものの、地図で見ると実は上下は反対である。地中海に流れ込むナイル河の上流が「上エジプト」で、地中海側のナイル河を下降した地域を「下エジプト」と呼んでいたのである。

 

「上下エジプト」と3種類のファラオの王冠

 

 神道の要(かなめ)となる神社は京都の「賀茂神社」だが、これは「上賀茂神社」と「下鴨神社」の総称であり、上と下は反対の「下上賀茂神社」と呼ばれる。なんで上と下が逆さなのかといえば、「下」の方が強い力を持つからで、実際、天皇祭祀の根幹を握っているのは「下鴨神社」である。正式名称は上賀茂が「賀茂別雷神社」(かもわけいかづちじんじゃ)で通称「上賀茂神社」であり、下鴨が「賀茂御租神社」(かもみおやじんじゃ)で通称「下鴨神社」である。昔は、賀茂氏の氏神を祀る「賀茂社(賀茂神社)」と称した一つの神社で、上賀茂神社を「上社」、下鴨神社を「下社」と呼んでいたことに由来する。

 

 賀茂神社がなんで上下反対の「下上」とされるのかといえば、日本人の祖先が古代エジプトにいたからである。だから「下が上」で「上が下」だと知っていたからである。古代エジプト初期、エジプトはいくつかの都市国家に分かれていたが、やがて「上エジプト」(現在のカイロ南部からアスワン辺りまでのナイル川流域地帯)と「下エジプト」(現在のカイロ南部からアレクサンドリアあたり地中海に至るまでのナイル川デルタ地帯)の二つの統一国家にまとまったと考えられている。

 上下エジプトの統一は、紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王(メネス王とも)によってなされた。その後、ファラオたちは、上下エジプトの支配者、上エジプトの守護女神ネクベトと、下エジプトの守護女神ウアジェト双方の化身であるとされた。この南北エジプト統一の象徴として、ファラオだけが身に付ける事が許されたのが『プスケント』と呼ばれる
「紅白の冠」なのである。 

 

白冠(左)・赤冠(中央)・二重冠(右)

 

 下エジプト支配者が被る「デシュレト」と呼ばれる「紅色の冠」と上エジプトの「ヘジェト」と呼ばれる「白い冠」が組み合わされて作られているためファラオの「二重冠」とも呼ばれる。「デシュレト:紅色の冠」はコブラの女神ウアジェトを象徴、一方の「ヘジェト:白色の冠」はハゲタカの女神ネクベトを象徴する。つまり、古代エジプトには白冠・赤冠・二重冠」の3つの冠があったということなのである。これが何を意味するのかといえば、「2つの日本:二本:ニホン」は1つの国として統合されるという「雛形」だったということである。

 

 日本の国旗は「白+赤」=「紅白」なのである。だから「白紅歌合戦」ではなく「紅白歌合戦」じゃないといけないのである。だからこそ、1年の「しめ」として、統合された日本を象徴する番組なのである。さらに賀茂神社がなんで「下上賀茂神社」なのか、それは古代エジプトの統一国家に起源があるのだ。だが、日の丸がいつ、日本の国旗になったのかということはあまり知られていない。「源平の合戦」以降、白地に赤丸が定着、ずっと使い続けられていた日の丸の国旗だが、実は正式に日本の国旗になったのは1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」が公布されてからなのである。

 

 「えぇ、そんなはずない。ずっと日本の国旗だったじゃないか」と思われる方も多いはず。だが、「国旗及び国歌に関する法律」(通称:国旗・国歌法)が公布・施行されたのは1999年(平成11年)なのである。その規定によれば、「旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。地色は白色、日章は紅色」とされている。つまり、現在の形の「日の丸」が国旗になったのは、たった25年前のことなのである。

 

25年前に国旗となった「日の丸」

 

 しかし、なんで1999年まで「日の丸」は国旗ではなかったのか。実は、ここに関係するのは「日本:二本:ニホン」の雛形が「隠岐」だからである。2004年(平成16年)10月1日 、 隠岐郡西郷町・布施村・五箇村・都万村が新設合併して、「隠岐の島町」が発足した。現在、「隠岐の島町」(おきのしまちょう)は、島根県の離島部の隠岐郡に属する町の1つであり、隠岐諸島の「島後及び竹島全域」を占める。平成の市町村合併である。

 

 しかし、この新しい町名である「隠岐の島町」が決定されるまでには、かなりのすったもんだがあった。なぜなら、隠岐諸島は大きく分けて、右下の「島前」と右上の「島後」に分かれていたものの、島々の人たちはみな同様に隠岐諸島全部で「隠岐島」だと思っていたのである。隠岐は 知夫里島、中ノ島、西ノ島、島後と住民の住む4つの大きな島と、他の約180の小島からなる諸島である。隠岐島は「隠岐島」という名を持った、1つの島嶼を指すのではなく、隠岐諸島を総称する言葉である。また「隠岐島」という名を持つ単独の島嶼(とうしょ)は、そもそも隠岐諸島内に存在しないのである。だから勝手に島後が「隠岐の島」と名乗るのはおかしいと猛反対が出たのである。

 

 山陰地方では今でも隠岐諸島を指して「隠岐国」(おきのくに)と呼ぶ場合がある。つまり、日本人は島前の知夫里島、中ノ島、西ノ島と同様に「島後」は島の名前だと考えていたのである。だが、違ったのである。なぜなら、市町村合併を進める上で、国土地理院では「島後」の名前がなかったからである。国土地理院が維持管理する電子国土基本図を用いて、我が国の島を一定条件の下で数えた結果、現在、日本には14,125の島がある。だが、平成19年12月1日に国土地理院より「隠岐の島(島後)」の地図が刊行されるまで、「島後」はあくまでも通称であって、本来は名無しの島だったのである!

 

 

名無しの島だった「島後(隠岐の島)」
 
 日本列島は世界の雛形であるが、「隠岐」は日本列島の雛形である。隠岐は「陰の島前」と「陽の島後」で陰陽を成す。「陰の島前」は名前を持っていたが、「陽の島後」には名前がなかった。なぜか。
呪詛を受けないためである。「言霊:コトダマ」の基本、それは「名前」である。島後を呪詛することは、世界から本当の姿が隠されている日本が呪詛を受けることになるからだ。呪詛をするためには名前が必要である。名無しでは呪いは届かないのである。だが、その「島後」にも名前が付けられたことで呪詛の対象となった。

 

 日の丸が日本の国旗として正式に制定された「国旗・国歌法」が公布・施行されたのは1999年(平成11年)であった。この年、隠岐では「隠岐広域連合」が説された。「隠岐広域連合」は、平成11年9月1日に島根県と隠岐島4町村(旧7町村)【隠岐の島町(旧西郷町・旧布施村・旧五箇村・旧都万村)、海士町、西ノ島町、知夫村】を構成団体として設立された団体である。何のための団体だったのかといえば、市町村合併であり、「島後」に名前をつけるためである。お分かりだろうか。日本の国旗・国歌と、隠岐に名前を与える動きは連動していたのである。全ては「終末預言」である。

 

 「隠岐」は陰と陽、2つで1つの「隠岐」である。それは「合わせ鏡」であり、2枚で1対の「八咫鏡」であり、「十戒の石板」である。隠岐は日本の雛形である。もともと2枚で1組、2つの国で1つということを伝えるための島、それが隠岐だったのだ。「日本:二本:ニホン」の雛形が「隠岐」だからこそ、島前は陰で六角形、島後は陽で五角形、合わせた「5+6=11」はユダヤ密教カッバーラの奥義「生命の樹」のセフィロトの数である。そして、人類の祖アダムとイブが住んでいた「エデンの園」には2本の樹木である「生命の樹」と「死の樹」が生えていたことを伝えているのである。

 

「日本列島は世界の縮図」

 

 「日本列島は世界の縮図」と言い放ったのは「大本教」の預言者「出口王仁三郎」(でぐちおにさぶろう)である。王仁三郎は、それぞれ「北海道=北米大陸」「本州=ユーラシア大陸」「四国=オーストラリア大陸」「九州=アフリカ大陸」としたことで、日本列島=世界の雛形であることを示唆した。その「大本」の女教祖の「出口直」(なお)が「火」で王仁三郎を「水」とし、 両合わせの「火水」(かみ)」で「神」を表した。出口直は女で陰、出口王仁三郎が男で陽である。

 さらに「大本」では直が
太陽神の天照大神(火)を象徴し、王仁三郎が須佐之男命(水)とするが、時系列にすると出雲の海神の須佐之男命が物部系の「古神道」で先、伊勢の秦氏系の天照大神が「神道」で後になり、先に「世を鎮める大洪水」があり、その後で「世を焼く紅蓮の火」が来る預言となっている。それを「日の丸」と考えれば、「王仁三郎:須佐之男命:水:白」「直:天照大神:火:紅」で「日の丸」となる仕掛けになっている。

 

 

隠岐の島前

 

 王仁三郎の言う「世界地図の縮図=日本列島」とすれば、日本列島の縮図は「隠岐」となる。事実「国生み神話」の縮図が真ん中がカルデラで「穴」が空いた形=「女陰」で陰の女島「島前」にあり、島を生ませた男島「島後」に陽の心御柱「ロウソク岩」が直立する。さらに「島前」の陰部を形成する「西ノ島(西側)」が北米+南米大陸、「西ノ島(東側)」がアフリカ大陸、「中ノ島」がユーラシア大陸、「知夫里島」が分裂前の南極大陸+オーストラリアで、世界地図の日本列島の縮図が隠岐なのである。

 

オノゴロ島=島前

 

 『古事記』では淤能碁呂島、『日本書紀』では磤馭慮島と表記される「オノゴロ島」とは、イザナギノミコト・イザナミノミコトによる「国生み神話」で知られる神々がつくり出した最初の島となっており、その後に「大八洲国」となるが、オノゴロ島はそこから姿を消している。日本列島を生んだ「オノゴロ島」は日本と同じ形の世界を生んで姿を隠したこととなり、その証拠が陰の島前の火山火口の形に隠されている。つまり島前の島々の形が世界の大陸の形を成しているのである。

 

 「島前」(陰の女性の島)

   西ノ島(西側):北アメリカ大陸、南アメリカ大陸

   西ノ島(東側):アフリカ大陸
   中ノ島    :ユーラシア大陸

   知夫里島   :南極大陸、オーストラリア大陸(分離前)


 つまり、「島後」こそが姿を「隠した島=オノゴロ島」の正体であり、だからこそ「隠」された岐(クナト)の神の島「隠岐」の中で、さらに名前を付けずに封印されていたのである。が、名前を与えられたことで島後は新しく生まれた子供」となったのである。全ては象徴である。だが、「新しく生まれた子供」というのなら、それは世界のどこでもないということになる。それはいったい何を意味するのだろうか。

 

<つづく>