「穢れ」と「言霊」の謎:その5

 

 日本人は昔から「割り箸」を使ってきた。1回で使い捨てる割り箸を使う国は、日本以外にはない。重要なのは、日本人は贅沢になったから割り箸を使うようになったのではない、ということである。今よりもはるかに貧しかった時代から、日本人は使い捨てをしてきたのである。「穢れ」を残さないためである。祝い事や神事は「ハレ(晴れ)の箸」、家庭用や普段使うのは「ケの箸」、この両方を兼ね備えているのが「割り箸」である。

 

 割り箸を割ることには祝事や神事などにおいて「事を始める」という意味があり、その際には真新しい割り箸が用意されてきた歴史があるが、これはお祝いの場で用いられる「鏡開き」の日本酒と同じ意味を持つ。清酒の樽のふたを、古くから、まるくて平らな形から「鏡」と呼んでおり、そのことから、 樽のふたを割って、酒をみんなで飲み交わすことを「鏡開き」と呼ぶ。 同じく丸い形で「鏡」の名を持つものに「鏡餅」があり、新年に一年の健康を願って、鏡餅を食べることも「鏡開き」という。

 

「鏡開き」とは神事である

 

◆「箸割り」と「鏡割り」の奥義


 「鏡開き・鏡割り」とは、正月に神や仏に供えた鏡餅を下げて食べる年中行事である。神仏に感謝の気持ちを示し、無病息災などを祈って、供えられた餅を食べる。汁粉・雑煮、かき餅などで食されることも多い。一方、結婚式などで酒樽の蓋を割る儀式も「鏡開き」と呼ばれている。酒樽のふたを「鏡(鏡板)」と呼ぶことから「鏡開き・鏡割り」というが、「割る」が縁起が悪い忌み言葉として縁起の良い席にはふさわしくないため、代わりに末広がりの意味がある「開く」に言い換えられたのが「鏡開き」が使われるようになった理由とされている。

 

 鏡開きには「鏡を開くことによって、これからの運が開ける」という意味が込められている。つまり、「預言」である。「鏡」の起源は「天岩戸神話」における「八咫鏡」(やたのかがみ)であり、その鏡が吊るされた「賢木(榊)」(さかき)が立てられた「天岩戸」の象徴が「鏡(鏡板)」である。よって、「鏡が開く」とは「岩戸が開く」と同義で、天照大神が復活したという神話でもあり、終末の日に天岩戸が開かれて天照大神が再臨するという「預言」となる。それを年中行事として行ってきた意味は、大和民族が皆で天照大神の再臨を願っている行為となる。

 


 

 「八咫鏡」は三種の神器の一つである。「天照大神」が「天の岩屋」にお隠れになったとき、大神の出御を願い、「石凝姥命」(いしこりどめのみこと)あるいは「天糠戸命」(あめのあらとのみこと)が作ったとされる鏡のことで、剣・玉とともに「賢木」の中枝にかけて日神招迎の神事に用いられた。「天孫瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の降臨の際、天照大神が太陽神にふさわしく自らの御魂代として授けたもので、「五十鈴宮」(いすずのみや)に祀ったと伝承される。

 

 鏡はその人の真影を映すもので、天照大神は孫瓊瓊杵尊を「大八洲国」に遣わす時にこの鏡を渡して、「もっぱらわが魂としてわが前にいつくがごとくいつきまつれ」と勅している。つまり、「八咫鏡」は自分の魂だと言っている。その鏡がいまも伊勢神宮にご神体として祭られる八咫鏡であるとする。そして鏡をもってご神体とすることは、「皇大神宮儀式帳」を見ても、「荒祭宮」(あらまつりのみや)は大神宮の「荒魂宮」(あらみたまのみや)と称し御形は鏡であるとする。

 

 「八咫鏡」は天照大神の「御霊代」(みたましろ)として今も奉斎されている。その八咫鏡を雛形とするならば、酒樽や鏡餅を「割る」という神事を行うのか。「鏡開き」は前述したように、「天岩戸開き」の意味だが、一方の「鏡割り」とは何を示すのか。天照大神の「御霊代」を二つに割るといのは不吉だ。言葉をその通りに読めば、「天照大神の魂(の代物)が真っ二つに割れる」という意味になる。それこそ不吉ではないか。だから「忌み言葉」として「割る」ではなくて「開く」を使うのだが、かといって「鏡割り」としても間違いではないのだ。どういうことなのだろうか。

 

八咫鏡と神社の拝殿に置かれるレプリカの鏡

 

 考えられる意味の一つとしては、「鏡」はもともと二つに割られるべきものだったということ。つまり、二つに割られた状態が「正解」ということである。鏡はその人の真影を映すもの。つまり自分を「かんがみる(鑑みる)」ためのものである。「鑑みる」とは、「先例や手本に照らして考える」という意味の言葉だが、鏡に照らして自分を見ない限り、自分の姿は分からない。今の自分がそんな状態なのかを知るためには、鏡に自分を映せと言っているのだ。

 

 自分が真っ当な暮らしをしているのか。敬虔な生き方をしているのか。健康なのか不健康なのか。それを知るための手段が「鏡=手本に照らす」こと。その行為を通じて、今の自分を、そして常に「自分を戒めよ」と伝えているのである。創造神から大和民族に与えられた「戒め」とは、シナイ山で絶対神ヤハウェがモーセを通じて与えた「十戒」であり、「十戒」を刻んだ石板は2枚で一組である。伊勢内宮に祀られている御神体「八咫鏡」とは、「2枚の十戒石板」だと伝えているのだ。

 

モーセと「2枚の十戒石版」

 主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。(「出エジプト記」第34章1節)
 モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。(「出エジプト記」第34章4節)
 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。(「出エジプト記」第34章29節)

 

 「掟の板」とされる「十戒石板」に照らし合わせて人生を生きた者は天国に行けるが、「十戒」に従わない生き方をした者は地獄に堕ちる。つまり、「鏡割り」とは、「十戒」に従わない生き方をして絶対神ヤハウェを激怒させた大和民族の祖先イスラエルの民をモーセが罰したことを伝えているのである。モーセがシナイ山で神に「十戒」を授かっていた時、山の下ではイスラエルの民が「黄金の仔牛像」を作って偶像崇拝に陥り、飲めや騒げや交れやのドンちゃん騒ぎを始めていた。

 

 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」(「出エジプト記」第32章7-10節)


 

 モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。 その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。(「出エジプト記」第32章15-16節)

 宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。 そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。(「出エジプト記」第32章19-20節)

 

 「十戒石板」は絶対神とイスラエル民族との「契約書」である。モーセと絶対神ヤハウェは契約したが、イスラエルの民は契約を結ぶ前に契約違反を犯したのである。よって契約は無効となり、モーセは「両面に文字が書かれていた契約書」を破棄するために粉々にした。つまり、本当は「二十戒」だったのかも知れないし、片方の面には戒めとは違う神の奥義が記されていたのかもしれないが、それを知る術はない。さらに「筆跡も神御自身のもの」ということは、絶対神は捺印していたのである。

 

 「鏡開き・鏡割り」とは、神仏に感謝の気持ちを示し、無病息災などを祈って、正月に神や仏に供えられた鏡餅を下げて食べる神事である。そこには子孫繁栄の願いの意味が込められており、結婚式や祝賀会、祝勝会、地鎮祭、竣工式などの「祝い」の場で酒樽の蓋を割る儀式も「鏡開き」と呼ばれているのも同様で、新郎新婦が家庭を築き、将来一族として繁栄していくことや、会社が未来永劫発展していくことを願った儀式である。

 

 「酒樽」を割れば、その下には「酒」がある。日本酒は「御神酒」で、同様に「鏡餅」も神に捧げる神饌である。正月に飲む酒も祝の場で飲む酒も「イエス・キリストの血」であり、ヤハウェがイスラエルの民に与えた食べ物「マナ=米」から作った飲み物である。餅は「イエス・キリストの肉」であり、「マナ=餅米」から作った食べ物である。

 

 アブラハムの時から、大和民族は神を祀る「儀式」には「燔祭の捧げ物=神饌」を捧げてきた。それは神との契約の儀式である。契約を結ぶことで絶対神から祝福を受け、末代まで繁栄することになるが、それを行わないものは「真っ二つに割られる」という意味なのである。

 

 わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(「出エジプト記」第20章5-6節)

 

 主はモーセに言われた。イスラエルの人々にこう言いなさい。あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。 あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。(「出エジプト記」第20章22-24節)

 

 「鏡割り」という表現には、多層的な意味が込められている。それこそが「言霊」の奥義である。「二つに割る」には、さらに深い意味が隠されている。「鏡」は天照大神自身の魂でもあり、伊勢神宮では「御神体」として祀っている。つまり、「皇祖神の体であり魂」なのである。それが割られるとはただごとではない。いったい、どんな意味が隠されているのだろうか。

 

<つづく>