「東海道五十三次の謎」最終回

 

 『東海道五十三次』という浮世絵には、終末の日の日本で起きることの「預言」のメッセージが込められていた。「浮世」とは「憂き世・浮き世」で、「いとうべき現世」のこと。つらいことの多い世の中を示すが、江戸庶民の中で浮世絵が流行した背景には、「明暦の大火」によって江戸市中が炎に包まれる事態があったためである。

 

 「明暦の大火」は、明暦3年1月18日から20日(1657年3月2日 - 4日)までに江戸の大半を焼いた大火災だった。明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼ぶが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大大火の筆頭としても挙げられる。この時、外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失、死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。この大火で焼失した江戸城天守は、その後、再建されることがなかった。


明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』

 

 「明暦の大火」は、関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火とする場合もある。将軍家も大名も庶民も、みな焼け出されたという意味でも、家族や友人、知人を亡くした多くの人々にとって、「この世ははかないもの」という意識が芽生えたことで、どうせはかない世なら、浮かれて暮らそうという俗世の気持ちが多分に含んだものが「浮世絵」なのだとされる。

 

 だが、ここまではまだ表の話である。問題は、「浮世絵」の「世」という字の旧字/異字体「卋」である。音読みは「セ・セイ」で、訓読みは「よ」。意味は「三十年」とある。「十+廿」で、廿は二十(十の二倍)の意味を持つ字である。だが、音読みは「ジュウ」で、訓読みは「にじゅう」なのである。そして、「世」とは「漢字の十を3つ合わせた」形から「三十年」だといい、「長い時間の流れ」を意味する「世」という字が成り立ったとする。

 


 

 つまり、「世」という字は、イエス・キリストと罪人2人の三人がゴルゴダの丘で十字架の磔となった「年」を起点にした時間の流れを意味しているのである。さらに、「卋」の真ん中の「十」が上にある意味は、イエスの死骸は宙に浮いている状態で、さらに十字架に掛かった神は天に浮いていることを象徴しているのである。なぜなら、復活したイエスは、2人の天使に連れられ、天に帰っていったからだ。

 

 3人で十字架に掛けられた神は、3人で天に向けて飛翔した。「世」が浮いている絵、それが「浮世絵」だと告げているのである。

 

 

 そして、「終わりの日」に救世主として再び戻ってくることを示唆している。

 

 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(「ヨハネによる福音書 」第14章1−3節)

 

「世」の字の意味でもある二人の天使とイエス 

 

 さらに仏教でも「浮」の字は使われる。「仏陀 、ほとけ」を表す「浮屠」(ふと)である。一般的には「釈迦牟尼」で仏陀を指すが、「原始仏教」で仏陀は複数形で表し、解脱した牟尼を浮屠とするため、「牟」=燔祭(牛)の犠牲となるム(私有=私は有る)はイエス・キリストのことで、釈迦はその雛型となっていたことを示している。

 


◆浮世絵師とは、原始キリスト教徒「秦氏」である

 

 「浮世絵」とは、イエスの磔刑死から2000年後の「終末の日」に起きる出来事を絵で伝える預言で、イエスの再臨が起きるのに必要なことを、大和民族のDNAに刻むための呪術なのである。指示したのは裏神道秘密結社「八咫烏」であるが、それを絵として形にしたのは、原始キリスト教徒で表の神道を仕切る「秦氏」である。秦氏は平安京成立とともに「藤原氏」など名前も変え、闇に消えて一族であり、仏教美術を作り上げたのも全て秦氏である。

 

 『奥の細道』を記した松尾芭蕉、本当の作者だった水戸光圀もまた秦氏であった。京都の「松尾大社」(まつのうたいしゃ)を創建したのは「秦都理」(はたのとり)。その兄弟の「秦伊侶具」が創建したのがお稲荷さんの総本宮「伏見稲荷大社」である。また、松尾大社は下鴨神社と上賀茂神社を合わせて「秦氏三所明神」という。下鴨神社の境内は「糺の森」(ただすのもり)と呼ばれ、それがかつてあった「元糺の森」は太秦にある木嶋坐天照御魂神社、通称「蚕ノ社」の境内である。いうまでもなく秦氏の神社であり、ここには「生命の樹」を象徴した「三柱鳥居」がある。

 

「蚕ノ社」の「三柱鳥居」

 

 伊賀出身の忍者だった芭蕉が「松尾」だったのも、絶対三神を奉ずる原始キリスト教だからである。松尾大社、蚕ノ社も神紋は「双葉葵」である。葵は「鴨斧草」(おうきんそう)といってカモが好んで食べる。秦氏と同族の賀茂氏が創建した下上賀茂神社の神紋も双葉葵である。

 

 葉っぱが一枚多い「三つ葉葵」は徳川家康の家紋。徳川家の発祥には謎が多いが、家紋が全てを語っている。徳川家康は賀茂氏なのである!全て繋がっていたのだ。松尾芭蕉と徳川光圀による『奥の細道』の真の終着点は遷宮祭の伊勢神宮であったが、その理由は「なぜ伊勢神宮が20年に一度の式年遷宮をするか」である。

 

 

双葉葵と三つ葉葵

 

 神宮には内宮にも外宮にもそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、式年遷宮は20年に一度宮処を改め、古例のままに社殿や御装束神宝をはじめ全てを新しくして、大御神に新宮へお遷りいただく神宮最大のお祭りである。1300年にわたり繰り返されてきた「式年遷宮」は、20年に一度造り替えられる常に瑞々しいご社殿で、永遠に変わらないお祭りが行われることに大きな意義があるというのが伊勢神宮が伝える表の話だが、それは御神体「契約の聖櫃」を動かさないと、暴れだすからだ。

 

 契約の聖櫃アークは「神の箱」である。神の箱は「本神輿」と呼ばれ、最初は「宇佐八幡宮」にあったが、有為曲折を経て現在は「皇大神宮:伊勢神宮(内宮)」の地下宮に鎮座し、20年毎の「式年遷宮」で場所が移されている。

 「キルヤト・エアリムの人々はやって来て、主の箱を担ぎ上り、丘の上のアビナダブの家に運び入れた。そして、アビナダブの息子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。主の箱がキルヤト・エアリムに安置された日から時が過ぎ、二十年を経た。」(「サムエル記・上」第6章22~7章2節)

 

第62回式年遷宮


 金箔で飾られた箱は、伊勢神宮では「御船」(みふね)と呼ばれ、箱の中に天照大神の御神体「八咫鏡」が入れられ、陰陽一対の合せ鏡になっているが、その正体は2枚の鏡石が使われたモーセの「十戒石板」で、「本神輿」は「契約の聖櫃アーク」の事で、犠牲の燔祭を求めた旧約神ヤハウェの「荒魂」の象徴であり、記紀神話では「須佐之男命」の象徴でもある金色の龍神「八岐大蛇」の事である。よって、金箔が貼られた「神の箱」が目覚め始めると、最初は周囲の何かを転がしたり、倒したり、時には割ったりし始めるが、それは予兆に過ぎず、放っておくと滅びの凄まじい力を発揮し始める。

 「ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた。翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。その翌朝、早く起きてみると、ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。」(「サムエル記・上」第5章02~7章05節)

 

 その後、主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、凄まじい大災害をもたらすことになるが、「神の箱」が目覚め始めると、最初は石が割れたり、動物が倒れたりし始め、そのままにしておくと最後は取り返しがつかない大災害が襲い掛かって来る。

 

ペリシテ人による聖櫃奪取を描いた絵画

 

 平成25年に62回目の式年遷宮が行わた。現在は「西」の正殿の地下殿にあるアークは、いずれ奪われる。ロスチャイルドとロックフェラーが命じたアメリカ軍とイスラエルの特殊部隊が闇夜に乗じて必ず奪いに来る。第三神殿を建てるためである。ノストラダムスは、『諸世紀』でそのことを記している。

 

  包囲され 略奪され 貴重なる獲得物は 取り返される

  それは聖なる出来事の起こる日と変わり

  通過し 奪い返され 捕縛される 三つの重なりの地から

  さらに 底からしるしが現われ 権威の存在が引き上げられる

  (『諸世紀』第7章73節)

 

 「三つの重なりの地」とは、伊勢神宮のある三重県のことである。「契約の聖櫃アーク」と「三種の神器」は一度は奪われるが、そこで何かが起き、イスラエル大使館が派遣したレビ人たちには手に負えない状況が発生することになる。アメリカの海兵隊とイスラエル軍が「伊勢神宮(内宮・下宮)」「伊雑宮」からを奪うが、炎に打たれ伊勢湾に沈めてしまうからだ。しかし、天皇の命令でサルベージが行われ、伊勢湾の底に鎮座して猛烈な光を発する「契約の聖櫃アーク」が引き上げられることになる。

 

「契約の聖櫃アーク」は海中から猛烈な光を発する

 

 「底からしるしが現われ 権威の存在が引き上げられる」ことで、大和民族は己の出自を知り、「ヤ・ゥマト(ヤハウェの民)」として目覚め一致団結することになる。が、アメリカを中心とする、イギリス、カナダ、オーストラリア等が足並みを揃え、日本に対しナチス・ドイツ以来の危険思想「民族優位性」「純血主義」の人種的イデオロギーが復活したと攻撃を開始することになる。更に、韓国が「在日朝鮮民族の安全と命が日本国内で危機に陥っている」と喚き、「ジェノサイドの疑いがある」「戦前の日本帝国
復活」と決めつけ、国連の加盟国36カ国からなる人道支援組織「WFP」に訴えることになる。

 

 そして、世界 vs 大和民族による人類最終戦争「ハルマゲドン」へと向かうことになるが、その前に平和ボケで薬殺されるに身を任せた日本人が真に目覚めるには、凄まじい大激震が必要になる。日本は世界の雛形だからだ。約1億人の大和民族がビル・ゲイツと自民党に騙され「mRNA溶液」を体内接種して絶命するが、生き残った者たちは、最後の天皇陛下の下で大和民族として再び一致団結する。そうしなければ、大和民族は世界の敵として滅ぼされる対象にされるからだ。

 

人類最終戦争「ハルマゲドン」

 

 「世=卋」は「十+廿」で、「世=卋」の意味は「三十年」だとした。 だが、「十」は数字では「11」であり、それを重ねた「廿」は「22」であるため、「世」は「33」を示す。なぜなら、漢字の「十」の字は、もとは縦の棒線1本だけの「|」だけで「十」を意味しているからだ。よって「十」は「|+ 一」とは「10+1」=「11」を表し、カッバーラの「生命の樹」のセフィラは、本当は「隠された叡智(ダアト)」を含めた11個である。

 

 「生命の樹」では、「22」はセフィロトをつなぐ「パス」(小径)の総数であり、「33」はセフィロトとパスの合計数になっている。さらに、これを数秘術ゲマトリアで解釈すれば、「33」とは「3+3=6」となり、人間の数字を示す「6」となる。「7」が完全数であるのに対して1少ない「6」はこの「世」の数字であり、人間の「世界」の数字である。

 

 「世」の文字を持つ「観世音菩薩」(かんぜおんぼさつ)とは、世間の人々の救いを求める声を聞くとただちに救済する求道者の意を持ち、救う相手の姿に応じて千変万化の相となるという。八百万の神々と同じである。『観音経』には「三十三身を示現する」ことを説く。よって観音の霊場は 33ヵ所あることになっている。この「世」を救う「観世音菩薩」はそのまま如来にならず、この世に姿を現して人々を救済する存在である。そして、救う相手の姿に応じて「三十三の化身=三十三示現」となる。つまり、その姿は現れる場所によって変わるが、本来は一人ということである。

 

 その「一人」とは救世主イエス・キリストである。なぜなら、イエス・キリストは絶対神ヤハウェがマリアに受肉、人間として現れた神であり、十字架に磔になって死んだ年齢は33歳ったからだ。なぜイエス・キリストは「人間」として33年間、この「世」で生きたのか。それは地上の人類に「生命の樹」を示すためだったからである。33年「人間」として生きることによって、この世の数字を体現したのである。「3+3=6」という人間の数字が示すことは、姿のない神であったヤハウェが受肉、人間として誕生し人間として死んだことを意味していたのである。それを「現人神」(あらひとがみ)という。

 

 エデンの園においてアダムとエバは、園の中の木に生えている実はどれを食べてもいいとされていたが、唯一、絶対神に固く禁じられていたのが「知識の木」の実である。しかし、二人は禁断の実を口にしたがために、「死ぬ体」となり、永遠の命をもたらす「生命の樹」へ近付くことを禁じられた。その「生命の樹」の存在を人類に示したのが受肉したヤハウェ=イエス・キリストだったのである。そのイエス・キリストが船岡山に再臨する時が来る。そして、この世には「三千世界」が到来することになる。

 

イエス・キリストは船岡山に再臨する

 

 「三千世界」が到来するのは、イエスが磔刑で死んで、蘇ってから2000年が過ぎた時となる。イエスが再臨した後に到来する至福千年は「十」。それ新しい「世」だと言っているのである。つまり2000+33、2033年である。それが古い世の終わりである、新しい世の始まりなのである。 

 

 それを示しているのが、伊勢神宮の最後の式年遷宮となる第63回、2033年だと言っているのである。現在の宮は「西」である。それが2033年には「東」へと戻る。西とは「陰」であり「黄泉の国=死」を意味している。それが「東」の陽となるとは、つまり「黄泉がえり=蘇り」であり、再び太陽が昇ると伝えているのである。

 

 

 イエスが再臨する時、伊勢神宮はその使命を終える。そして、天からは聖霊が降りてくる。穢れた人類を全て焼き尽くすためである。

 

 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。(「マタイによる福音書」第3章10−12節)

 

 この世界の浄化が終わった時、生き残った人類は「喜び」に満ち溢れることとなる。なぜなら、人類はそこで初めて絶対三神に遭遇することになるからだ。神の聖数は「七」である。この「七」を3つ書くと「㐂」という字になる。「㐂」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えない。絶対三神を示す文字だからである。音読みでは「き」と読む。訓読みは「よろこ-ぶ、よろこ-び」である。この字は「喜」の異体字なのである。

 

 

 新しい「世」が到来し、そこには絶対三神が降臨する。だからこそ、人類も神も「喜ぶ」のである。

 

<終わり>

 

 その時までに悔い改めることができているか否か。全てはそこにかかっている。浮世絵という形で「終わりの日」の預言を伝える「東海道五十三次」の旅もこれで終わりである。大和民族に残された時間は短い。まだまだ書きたいことはいっぱいあるが、そろそろ次の旅に出なければならない。次回のテーマはズバリ「言霊」である。

 昔の人々は、日本を 「言霊の幸(さき)わう国」 と呼んできた。言葉の霊の霊妙な働きにより、幸福の生ずる国なのだと。万葉集の柿本人麻呂の歌に、「しきしまの大和の国は 言霊の幸(さき)わう国ぞ ま幸(さき)くありこそ」という歌がある。これは、「この日本の国は、言葉が持つ力によって幸せになっている国です。これからも平安でありますように」という意味だとされる。本当にそうなのだろうか。

 古代の人々は、言葉に霊力が宿ると考える 「言霊信仰」 を持っていて、美しい心から生まれる正しい言葉は、その言葉通りの良い結果を実現し、逆に、乱れた心から生まれる粗暴な言葉は災いをもたらす、と信じてきた。しかし、それもまだ表の話である。コトダマは、大和民族と日本という国の正体を暴き出す。我々が信じてきた日本の歴史が吹き飛ぶことになる。長期の連載になりそうな気配がしている。まぁ気長にお付き合いいただくことになりそうである。