「東海道五十三次の謎」その5

 

 浮世絵「東海道五十三次」が「預言の書」であるならば、だ。その作者である歌川広重には特殊な能力があった、もしくは特殊な人達に導かれていた、ということである。まずは、歌川広重とはどんな人物であったのか、改めてみていこう。

 

 

◆天才浮世絵師「歌川広重」

 

 歌川 広重は寛政9年(1797年)に生まれ、 安政5年9月6日(1858年10月12日)に没したとされる。本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)の定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入っている。文化6年(1809年)2月に母を亡くし、同月父が隠居、数え13歳で火消同心職を継ぐも同年12月に父も死去した。

 

八代洲河岸 ヤン・ヨーステン屋敷跡とされる地点

 

 広重が生まれ育った場所は、徳川家康がヤン・ヨーステンに与えた「八代洲河岸」(やよすがし)である。ユダヤ人ではあったものの、ヤン・ヨーステンは表向きの姿はキリシタンである。とはいえ、徳川の世となり、キリシタンとして正々堂々とは生活はできなかったはずである。たとえ家康が重用したとはいえ、幕府がキリシタンたちを捕縛していったことを考えると、ヤン・ヨーステンはキリシタンの姿は封印していたはずである。

 

 表向きキリスト教徒というのはノストラダムも同じである。魔女狩りに遭わないためにも、ユダヤ人で且つカッバーラの使い手だったことは誰にも知られないように隠していた。ノストラダムにカッバーラの奥義を授けたのは祖父サン・レミだが、預言者として導いたのは絶対神である。ヤン・ヨーステンに関わる何かが、もしくは何者かが広重を導いたという証拠はない。だが、13歳で火消同心職を継ぐも、その後は絵師になっているという点も怪しい。そこには何かのきっかけがあったはずである。

 

「東海道五十三次」の起点「日本橋」と「八代洲河岸」のいち関係 

 

 広重が育った「八代洲河岸」と「東海道五十三次」の起点である「日本橋」は近い。当時の日本橋には魚河岸もあり賑わいを見せていた場所である。きっと子供の頃から出入りしていたに違いない。


 広重は幼いころからの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳のころ、初代歌川豊国に入門しようとしたが、満員で断られ、歌川豊広に入門。翌年に師と自分から一文字ずつとって「歌川広重」の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号でデビュー。役者絵から出発、やがて美人画に手をそめたが、師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになり、天保3年(1832年)に同心職を息子に譲って絵師に専心、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。

 

 入門から20年、師は豊廣だけであったが、このころ大岡雲峰に就いて南画を修めている。この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなる。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、また、短冊版の花鳥画においても優れた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画も手掛けている。

 

広重の美人画

 

 広重は、さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)、摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。超多作である。日本の絵画史上の最大の「天才」と呼んでも過言ではないはずだ。音楽の世界でいえばアマデウス・モーツァルトみたいなものだ。交響曲だろうが四重奏だろうがピアノ曲だろうが、次々に曲が頭の中に降りてきたのだ。同様に広重も様々なイメージが降りてきたのであろうか。

 

 広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。この「ヒロシゲブルー」は19世紀後半のフランスに発した印象派の画家や、アール・ヌーヴォーの芸術家らに影響を与えたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因の一つともされている。

 

「ヒロシゲブルー」と名高い「京都名所之内 淀川」

 

 極端な言い方だが、「印象派」とは歌川広重の浮世絵の印象なのである。当時のヨーロッパ人たちが頭の中に描いた日本の景色とは広重の絵の世界なのだ。広重の「ジャパンブルー」「ヒロシゲブルー」がなかったら、フェルメールやモネのブルーの色使いは生まれなかったといっていい。その意味では、江戸時代の日本が生んだ、世界に影響を与えた天才画家だったのである。

 

◆曲亭馬琴と広重「辞世の句」の謎
 

 広重は、天保7年(1836年)8月14日に柳橋の万八楼にて開催された「曲亭馬琴」(きょくていばきん)の古稀祝賀書画会に出席している。曲亭馬琴とは広重と同様、江戸時代の日本が生んだ天才読本作者である。日本人なら誰もが耳にしたことがある長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の作者、「滝沢馬琴」(たきざわばきん)のことである。なぜ、広重は馬琴と繋がったのかは不明だが、ここには深い謎が秘められている。

 

曲亭馬琴

 

 曲亭馬琴は滝沢馬琴の名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。教科書や副読本などで「滝沢馬琴」と表記するものがあるが、これは本名と筆名をつなぎあわせた誤った呼び方であるとして近世文学研究者から批判されている。が、怪しいのは、「曲亭馬琴」のである。青年期に武家の嗜みとしておこなった「俳諧」で用いていた俳号の「曲亭」と「馬琴」が戯号に転じたものとされているのだ。前回の連載「『奥の細道』の謎」にもあったように「俳諧」というのは秦氏の諜報組織「志能備」(しのび)が使う暗号である。

 

 さらに「曲亭馬琴」は、「笠翁」(りつおう)、「篁民」(こうみん)、「蓑笠漁隠」(さりつぎょいん)、「玄同」(げんどう)など、数多くの別号を持っており、多数の号は用途によって厳格に使い分けており、その中の一つが「曲亭馬琴」で、戯作に用いる戯号であるのだが、曲亭馬琴という戯号について、馬琴自身は「曲亭」は『漢書』陳湯伝に「巴陵曲亭の陽に楽しむ」とある山の名であるとし、「馬琴」は『十訓抄』に収録された小野篁(おののたかむら)の「索婦詞」の一節「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」から取っていると説明している。怪人・小野篁である。笠、翁、漁、隠と、どこを切っても怪しい。そして最も怪しいのが「篁民」である。
 

小野篁

 

 小野篁は承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられている。承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗。承和5年(838年)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した。

 

 のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業ひいては朝廷を風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであったため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇が激怒。篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で「隠岐国」への流罪に処した。これは表向きの話である。「隠岐」には日本の全ての謎が封印されていると言っても過言ではない場所であり、現在も和歌の頂点である一族「冷泉家」が京都と隠岐を行き来している。つまり、篁には密命があったと考えた方がいい。


「小野篁」木像

 

 漢詩文では白居易と対比されるなど、平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。一方で和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首が入集している。歌集として『小野篁集』があるが、内容は物語的で篁以外の手による和歌も含まれており、『篁物語』とも呼ばれる。

 

 篁の最大の謎は、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が『江談抄』、『今昔物語集』、『元亨釈書』といった平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に紹介され、これらを典拠にして後世の『本朝列仙伝』など多くの書籍で冥官小野篁が紹介されているのだ。この話をもとに、様々な怪奇小説が生まれている。

 冥府との往還には井戸を使い、その井戸は、
京都東山の六道珍皇寺(死の六道、入口)と京都嵯峨の福正寺(生の六道、出口、明治期に廃寺)にあったとされる。平安京が「魔都」と呼ばれる一つが、篁と六道珍皇寺なのである。また、近年六道珍皇寺旧境内から井戸が発見され、六道珍皇寺ではこの井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼称している。六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。

 


冥界への入口とされる「六道珍皇寺」の井戸

 

 実は、六道珍皇寺を創建したのは篁との説もあり、さらに『野馬台詩(歌行詩)』の注釈によれば、竹から生まれたのはかぐや姫だけでなく、小野篁も竹から生まれたというのだ。まさに平安京の怪人たる人物なのである。馬琴は、その篁の名をとって「篁民」(こうみん)と称しているのである。つまり、馬琴は自らを「篁の民」だと言っているのだ。小野氏とは物部氏である。

 

 馬琴は享和3年(1803年)に、俳書『俳諧歳時記』を出版。2600余の季語を収集・分類して解説した事典(季寄せ)であり(俳諧・連歌に関する考証や作法に関する叙述も含む)、こうした季語集を「歳時記」と称した最初の例である。さらに『南総里見八犬伝』の執筆は、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。


『南総里見八犬伝』

 

 『南総里見八犬伝』は、日本初の長編小説である。なにせ全98巻、106冊の超大作である。あまりにも人気が出たことで、日本初の貸本にもなっている。物語の中には謎の「八つの霊玉」という仙翁(行者の翁)から伏姫に譲られた水晶の数珠が登場する。この正体とはいったい何なのあ。そして、この奇想天外な長編小説のネタはいったいどうやって思いついたのであろうか。

 

 今回はここには深くは触れないが、馬琴はさる人物の命によってこの物語を書かされている。その馬琴と広重はつながっていたのである。ならば、だ。広重もまた誰かの命によって「東海道五十三次」を書かされていたのではないだろうか。

 

 広重は天保8年(1837年)、中山道を経由して京、大坂から四国の丸亀へ旅行をして、帰路は奈良、伊勢を経て東海道を通って江戸へ帰っている。天保9年(1838年)閏4月18日に柳橋河内屋にて開催された二代目柳川重信の書画会にも出席している。安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は「顕功院徳翁立斎居士」。友人「歌川豊国」(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの)に辞世の歌が遺っている。

 「東路に筆をのこして旅の空 西の御国の名ところを見舞(みん)」
 

 この句の意味は、「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」とされているが、それは表の意味である。東路(あづまぢ)とは東国、つまり江戸を指すとするが、これは世界の東、「日本」を意味している。問題は「西の御国」とはどこか、ということである。それはシルクロードの西の果て、イスラエルのことである!

 

<つづく>