「東海道五十三次の謎」その4

 

 歌川広重による「東海道五十三次」は「預言書」であるとした。現代でも「予言」を行う人達はいるが、微妙に「予言」と「預言」は異なる。「予言」とは、ある物事についてその実現に先立ち「あらかじめ言明すること」である。予知能力を持つ人など、予言を行う者を「予言者」と呼ぶ。

 

 漢語としての「預言」と「予言」は本来は同義である。一方で、「ヨハネ黙示録」など神から未来の光景を幻視として見せられるとか、モーセのように神が直接語りかけてくる言葉を預かって人々に伝えるための「預言」や「啓示」「ご神託」といった宗教的な意味合いの濃い「預言」と、「予言・予測」は本来的に異なる概念である。しかしながら、預言や神託には未来を語ったものも含まれており、その部分は予言でもある。ややこしい。

 

「燃える柴」=「創造神ヤハウェ」から召命されるモーセ

 神秘的現象としての「予言」は、その中でも合理的には説明することのできない推論の方法によって未来の事象を語ることを指し、占星術やチャネリングと同じく疑似科学の領域の話題として扱われることが多い。未来の事象を扱う場合でも、自然科学や社会科学のモデルに則り合理的な説明が可能なものは、神秘的な意味での予言とは扱われない。例としては物体の運動、天気予報、統計による人口推計などが挙げられる。

 

 広重の場合は、「東海道五十三次」が「預言の書」であるが、広重自信が予知暴力がある「予言者」だったり、神降ろしをした「預言者」だったとは思えない。だが、その場合、いったい誰が元のストーリーを広重に与えたのか、ということである。

 

◆広重版「東海道五十三次」の演出とは?


 

八番:平塚「縄手道」

 

 広重版「東海道五十三次」は、東海道の横大判錦絵としての最初の作とされる。広重は、北斎による実景と異なった演出された画に反感を抱き、自らは 「真景」、つまり景観を忠実に描くのを旨とした。しかし、大正時代の東海道写真集と比べると、広重の画にも演出が見られる。

 

 八番の平塚「縄手道」の場合、高麗山は左右非対称、向かって右側がより急斜面に描かれているが、写真では左右対称の緩やかな山である。また、道はギザギザに描かれているが、実際は緩やかなカーブである。浮世絵研究の第一人者の浅野秀剛は、広重の作画を「実景を借りた虚構のイメージ」だが「虚構を虚構と感じさせない」ものと評している。

 

十四番:原「朝之富士」

 

 美術史家の大久保純一は、絵の枠に注目している。浮世絵の様式のひとつ「浮絵」(うきえ)は、西欧の透視画法を用いて、屋内の様子などを遠近感を強調して描いたもので、画と実世界を分別するための枠があったが、北斎の名所絵から枠が消えた。対して広重は、浮絵とは関係なく、揃い物ごとに異なる、装飾としての枠を付けたと指摘する。

 

 五十三次では十四番の原「朝之富士」にて、富士の頂が、二十七番の掛川「秋葉山遠望」だと、揚がる凧が枠を突き抜けているが、それぞれ高さを強調している。

 

二十七番:掛川「秋葉山遠望」
 

 吉田漱は、北斎の五十三次は人物本位の道中風俗画で、景観はないがしろなのに対し、広重は、季節・天候の多彩さを取り入れた風景を描いたと指摘する。名古屋市博物館の神谷浩も、保永堂版の中で優れた図として、12.三島、16.蒲原、46.庄野、47.亀山、50.土山の5図をあげ、これらに共通するのは、季節・天候・時刻を描いたことであり、名所や名物を主題としていないことだと述べている。

 

 「予言」や「預言」も、未来のある時にある場所で起きる出来事を象徴的に表現する。人に起きる場合もある。「予言」や「預言」のポイントは、あくまでも直接的な表現を使わず、読み解ける人にしか分からないような表現とする。ノストラダムの場合、あまりにも的中するため、その力を怖れた教会によって「魔女」に仕立てられそうになっている。そうしたことはいつの時代も同じで、施政者がどう判断するかで、殺されたりする可能性がある。よってどのようにも解釈できるように「象徴」が用いられるのだ。

 

十二番:三島「朝霧」

 

四十六番:庄野「白雨」

 

◆広重はどうやって五十三次を描いたのか?

 

 広重の五十三次を、取材に基づく作としたのは、明治期の浮世絵研究家である飯島虚心である。広重は幕命として内裏(京都御所)での「駒牽」(こまひき)行事の描画の為に上洛するが、道中での名勝に魅せられたことが制作の経緯になったと考えられていた。

 

 この説に対して、疑問を呈したのは小島烏水である。上洛説自体は認めるものの、御用絵師でなく、町絵師に過ぎない広重に、駒牽作画を命ずるだろうかという。さらに永田生慈は、天保3年(1832年)3月に家督を譲った広重が、幕府の公務を任ずるとは考え難いと指摘し、仮に定火消同心のままだったとしても、烏水が指摘するように、絵師としてさほど名声を得ていなかった広重に、幕府が依頼をするだろうかと疑問を呈す。

 

 確かに、現代で考えても、ぽっと出の画家やデザイナーに日本政府から仕事が発注されるとは考えにくい。まぁ2021年の東京コリアンピックのように、森喜朗を筆頭とした在日勢力によって行われるイベントの場合は、エンブレムを作ったデザイナーからメダルを授与するスタッフが着用したチマ・チョゴリ風のウェアをデザインしたのはみな仲間内の在日の人間だった。だが、それは特殊なケースで、一般的にはやはり考えにくい。

 

『東海道名所図会』

 

 また、実際に東海道を往復したのなら、なぜ『東海道名所図会』(寛政9年・1797年)からの引用が多いのかとも指摘する。大久保純一は、永田も指摘した、五十三次が西に向かうにつれ、風景を伴わない人々の図や、『東海道名所図会』からの引用と考えられる図が増す点を指摘する。

 

 つまり、広重がどうやって「東海道五十三次」を描いたのかは、未だに分かっていないのである!東京コリアンピックの時のように、発表されたエンブレムのデザインが海外からパクリとして訴えられたように、実は広重もパクリだったのか?広重は本当に五十三次を描いたのだろうか?また、広重は実際に京都までの旅に出て、その風景を描いたのであろうか?実は、ここにこそ「東海道五十三次」の謎が秘められているのである。

 

<つづく>