「東海道五十三次の謎」その3

 

 浮世絵の「東海道五十三次」といえば、筆者が思い出すのは永谷園の「お茶づけ海苔」だ。永谷園の原点といえる商品が「お茶づけ海苔」だが、今では大抵の人が知っている、70年超のロングセラー商品である。この「お茶づけ海苔」の認知度を高めるうえで一役買ったのが、浮世絵・名画カードの封入だ。

 

 『東海道五十三次』をこのカードで初めて知った人も多いというが、まさに筆者も子供の頃に初めて浮世絵に接したのは「お茶づけ海苔」である。「お茶づけ海苔」のパッケージに古今東西の名画をきれいに刷り上げたカードが封入され始めたのは、東京オリンピック翌年の1965年からだというが、このキャンペーンは好評を博して97年まで続いた。

 

「お茶づけ海苔」と「浮世絵カードコレクション」

 

 カード裏面の応募券を集めて送ると、抽選でカードのフルセットが当たる企画も用意され、コレクションに励む人も少なくなかった。筆者もその一人だった。一時期はやっていなかったが、再開を望む声を受けて、2016年に復活。五十三次のフルセットが当たるキャンペーンは現在も期間が延長されて継続中である。

 

 なんでこんな与太話をするのかと言えば、浮世絵を子どもの頃からこうした形で見せられると、脳裏に刻まれるからだ。それはまるで「わらべ唄」と同じ。但し、こちらは画像が知らぬ間に記憶の中に刻まれることになるのである。永谷園が意図的にやったとは思わないが、このキャンペーンが日本人の深層心理に与えた影響は非常にかなり大きかったはずである。

 

 

◆「東海道五十三次」

 「東海道五十三次」は、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある五十三の宿場を指す。道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられてきた。宿場の1番目は品川宿で、53番目は大津宿(滋賀)である。「53」という数は品川宿からの通し番号である。

 

 宿場ではなく、起点と終点という意味では、東海道五十三次の起点は江戸・日本橋で、終点は京都の三条大橋(山城国愛宕郡:京都府京都市東山区)である。つまり橋から橋なのである。

 

起点の「日本橋」(現在)

 

 尚、昭和になって京都から先の大坂(伏見、淀、枚方、守口)までを加えて東海道五十七次と唱えることもある。東海道の延長線として、元和5年(1619年)に設置された京街道 (大坂街道)の宿場を含めて東海道五十七次と呼ぶことを、近年広めることが推進されているからだが、五十七次の場合には、加えられるのは、54が「伏見宿」(山城国紀伊郡:京都府京都市)、55が「淀宿」(山城国久世郡:京都府京都市)、56が「枚方宿」(河内国茨田郡:大阪府枚方市)で、57が「守口宿」(河内国茨田郡:大阪府守口市)となり、終点が江戸時代は「京橋」だった「高麗橋」(摂津国西成郡:大阪市中央区)である。

 

 五十七になっても終点は「橋」ということだ。

 

本来の終点である「三条大橋」(現在)

 

 絵の方の『東海道五十三次』(東海道五拾三次とも)は、東海道の宿駅を中心とした景観や習俗を描いた、浮世絵木版画である。名所絵が主となる場合が多いが、人物が主体で景観が従となるなど、様々である。形態としては揃物、張交、双六、千社札、団扇絵、絵封筒、絵本などがあり、画題に「東海道」「五十三次」を含むものをまとめて「東海道(もの)」「五十三次(もの)」と呼ぶこともある。

 

 それらの中でも代表的な作品として挙げられるのが、天保5年(1834年)頃に保永堂から版行された歌川広重の「東海道五拾三次之内」である。但し、浮世絵版画としては、版本「東海道名所記」(寛文年間(1661-1673))や菱川師宣の版本「東海道文間図会」(元禄3年<1690年>)から始まったとされる。これらの宿場や風景を描いたもの以外にも”五十三次もの”がある。それは、かの喜多川歌麿(きたがわうたまろ)が描いた「美人一代五十三次」(享和年間 - 文化年間頃:1801-1808)である。
 

美人一代五十三次

 

 喜多川歌麿といえば「美人画」である。「婦女人相十品」「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で人気を博し、「青楼仁和嘉女芸者部」のような、全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」「娘日時計」「歌撰恋之部」「北国五色墨」など大首美人画の優作を刊行している。一方で、最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした絵師でもある。「北国五色墨」の「川岸」「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感は、決して美しさだけではなく、生々しさや、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。

 

 まぁ、高尚な表現が並んで入るものの、要は「春画」も書いていたということで、これが非常に艶めかしいのだ。現代風に言えば、エロ漫画家、グラビア写真家みたいなものだ(笑)。だが、あまりにも秀逸な美人画も描いているのだから、巨匠・篠山紀信とみうらじゅん先生が合わさったような存在だったといえばいいのだろうか。それでも浮世絵研究家からは叱られそうだが、きっと下のような「春画」を初めて見た西洋人は驚いたに違いない。そして「ぜひ、謎の国ジパングに行ってみたい」と考えたはずだ(笑)。

 

喜多川歌麿画伯の春画

 

 冗談はさておき、この喜多川歌麿も謎多き浮世絵師である。なにせ生年、出生地、出身地などは全て不明なのである。生年に関しては、没年(数え54歳)からの逆算で1753年(宝暦3年)とされることが多いが、出身に関しては、川越説と江戸市中の2説が有力だが、他にも京、大坂、栃木などの説もある。要は素性がよく分からない人物なのである。さらに怪しいのが名前だ。

 

 もともとの姓は北川、後に喜多川としている。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めの号は豊章といい、天明初年頃から歌麻呂、哥麿と号している。生前は「うたまる」と呼ばれていたが、直接本人を知るものが居なくなった19世紀過ぎから「うたまろ」と呼ばれるようになったとされている。なお、天明2年(1782年)刊行の歳旦帖『松の旦』には「鳥山豊章」「鳥豊章」の落款例がある。俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆綾丸(ふでのあやまる)、紫屋と号している。

 

喜多川歌麿

 

 なにが怪しいのかといえば、まず名前の「歌麿・歌麻呂・哥麿」である。これまでの連載でも「歌」は「暗号」だとしてきたが、名前に「歌」を入れている。ペンネームだろうが、「まろ」である。まるで「柿本人麻呂・柿本人麿」と同じである。さらに「鳥」を落款に入れている。「鳥」はもちろん原始キリスト教の暗号であり、ご丁寧にも俳諧では「木燕・燕岱斎」とこれまた「燕=鳥」と号しているのだ。今回のテーマは広重と「東海道五十三次」のため、詳細な謎を追うことはしないが、いつか改めて謎解きに挑戦したいと思う。


 この時代、著名な浮世絵師たちが競うように「五十三次」を描いている。葛飾北斎(かつしかほくさい)は文化年間(1804-1818)に狂歌摺物「春興五十三駄之内」や「東海道五十三次 絵本駅路鈴」など7種の揃物を出している。また、広重の師匠である歌川豊広も「東海道五十三次」を出しているのだ。

 

春興五十三駄之内

東海道五十三次 絵本駅路鈴

 

 広重の保永堂版の成功により、その後は広重自身も含め多くの浮世絵師が東海道ものを出している。つまり「東海道もの」と「五十三次もの」は当時の一大トレンドだったということである。現代的に考えれば、各社が競い合うように有能な浮世絵師=カメラマンを使って東海道の旅行ガイドブックを発行していたということだ。

 

 だが、なぜ「五十三」なのだろうか?そして、浮世絵師たちの腕の良さもその理由だろうが、一気呵成に「東海道の旅しよう」と言わんばかりの盛り上がり方には「意図」を感じるのは筆者だけだろうか。江戸から京都、つまり、東の都から本当の都へと回帰させるように仕組んだ人間たちがいたのではないのだろうか。

 

 

◆「歌川広重」とキリシタンの「ヤン・ヨーステン」

 

 歌川広重は、寛政9年(1797年) に生まれ、安政5年(1858年)まで生きた浮世絵師。本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。「安藤広重」と呼ばれたこともあるが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。

 

 江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となっている。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなど「印象派(ジャポニズム)」の画家に影響を与えた。この「印象派」と呼ばれるジャンルは、福沢諭吉が表記した「”日本の印象”(ジャパン・インプレッション)」のことである。その意味で「印象派の画家達たち」と呼ばれる画家たちは、みな日本の浮世値の影響下にあったのである。

 

歌川広重の死絵


 広重は、八代洲河岸(やよすがし)に生まれた。ここは後に「八重洲」(やえす)と呼ばれる地となったが、その元は「ヤン・ヨーステン」である。時代は遡り1600年(慶長5年)、オランダ商船「リーフデ号」で航海中のオランダ人航海士ヤン・ヨーステンは、日本に初めてやってきたイギリス人となるウィリアム・アダムス(和名・三浦按針)らと共に豊後国(大分県)臼杵に漂着。

 

 江戸に上った彼は、徳川家康に虎12頭を献上する。喜んだ家康は江戸城そばの和田倉門外に住居を与え、外交顧問として重用、海外との交易にあたらせたという。「八重洲」の地名は、ヤン・ヨーステンの和名「耶楊子」(や ようす)が転じて「八代洲」(やよす)「八重洲」(やえす)となったという。このヤン・ヨーステンはキリシタンであったとされる。

 

東京駅に残されいるヤン・ヨーステンの記念碑

 

 ヤン・ヨーステン記念碑によれば、日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。1609年(慶長14年)平戸にオランダ商館が設立され(後に長崎に移る)、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口となり続けた。オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以降の日本近代化の大きな礎になったと伝えている。

 

 が、日本名は耶揚子のヤン・ヨーステンのフルネームは、「ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn 〈Lodensteijn〉」である。教科書などで知られている「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」なのである。ウィリアム・アダムス(三浦按針)はイギリス人で、ヤン・ヨーステンはオランダ人だが、ローデンステインとはユダヤ系である。ヤン・ヨーステンはキリシタンであったとされるが、本当にそうだったのだろうか。

 二人の乗ったオランダ商船「リーフデ号」の船内には大砲や火縄銃、武器弾薬が積まれていたため、長崎奉行はそれらを没収、船員を徳川家康のもとに送って判断を仰ぐ。その際、すでに日本にいたイエズス会の宣教師たちは、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンら船員たちを即刻処刑するように要求したことが知られている。ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダといった大国間の権益争いだったことは事実だが、「殺してはならない」はずのキリスト教の宣教師たちが「処刑せよ」としたのである。

 

東京駅地下構内のヤン・ヨーステン像

 

 しかし、ウィリアム・アダムスは家康に謁見した際に気に入られる。家康にヨーロッパの様子を伝え、逆にイエズス会の宣教師たちこそが危険であることを説いたのだ。そのことは徳川幕府の外交方針に影響を与え、ポルトガル、スペインを排除することにつながっていった。さらに、幾何学や数学、航海術などの知識を幕府に伝えたといわれ、家康は大型船の建造を指示、1607年には129トンの船舶を完成させている。

 日本とイギリスの関係は、三浦按針と名乗ることになるウィリアム・アダムスによって始まったが、皮肉なことに、幕府は鎖国政策をとる。そして、日本が貿易相手国として選んだのはオランダで、イギリスではなかった。アダムスのもたらした情報は、逆に幕府に、イギリスの植民地主義を予測させたのかもしれない。そして、それを密かに助言したのはユダヤ人「ヤン・ヨーステン」だったのかもしれない。

 

<つづく>