「東海道五十三次の謎」その1

 

 「歌川(安藤)広重」が描いた「東海道五十三次」には、「預言」が秘されている。

 

 と書いたら驚かれるだろうか。前回の連載『奥の細道』謎解き紀行では、松尾芭蕉と河合曾良こと水戸光圀が『奥の細道』への旅や、その文面の中に隠した暗号について書いてみた。その続きとなるのが、今回の「東海道五十三次の謎」である。

 

 「東海道五十三次」は、「歌川(安藤)広重」の有名な浮世絵だが、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある53の宿場のことである。道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、広重以外にも浮世絵の題材に選ばれ、和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられてきた。

 

「東海道五十三次」日本橋 

 

◆「安藤広重」と「歌川広重」

 

 「東海道五十三次」は、言わずと知れた歌川広重(安藤広重)の浮世絵の傑作である。起点の「日本橋」の絵を見たことのない日本人はいないのではなかろうか。「浮世絵」といえば、教科書に登場する浮世絵師は、師宣、春信、歌麿、写楽、北斎、広重の6名と決まっていた。だが、平成以降の教科書では歌川国芳​も加えた7名体制になっているらしい。​​​​​​ご存知ない方もいらっしゃるかもしれないので、一応、名前を書いておこう。

 菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ
 鈴木 春信(すずき はるのぶ
 喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ
 東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく
 葛飾 北斎(かつしか  ほくさい)

 歌川 広重 (うたがわ  ひろしげ)

    歌川 国芳(うたがわ. くによし)

 

 但し、筆者はどうも「安藤広重」と言ってしまう。多分、学校で習った年代で、「安藤」と「歌川」の表記が変わったらしく、異なる年代の人と話すと「安藤広重って?」となる。いったいいつから「安藤」が「歌川」に変わってしまったのか。調べてみたら、太田記念美術館主席学芸員の日野原健司氏という方が以下のようにWEBで丁寧に説明されていた。


 「歌川広重は安藤広重と言っていませんでしたか?」というご質問です。現在、美術館の展覧会や浮世絵の画集では「歌川広重」とするのが一般的ですが、一定以上の年齢の方々は、昔、学校で「安藤広重」と学んでいたため、違和感を感じられるそうです。

 広重は安藤家に生まれたので、かつて「安藤広重」と呼ぶことがありましたが、広重自身が絵師として「安藤広重」を名乗ったことは一度もありません。そのため、歌川派の絵師として「歌川広重」と呼んだ方が適切だということで、現在は「歌川広重」が一般的な呼び名になっている、いったいいつから、「安藤広重」は「歌川広重」と呼ばれるようになったのだろうかと…。



「歌川(安藤)広重」

 

 日野原氏は、丁寧に戦後の教科書を調べており、最も古いのが山川出版社の教科書で、昭和26年(1951)印刷発行の『日本史』では「安藤広重」となっている。だが、昭和55年(1980)の『要説日本史 再訂版』では、「安藤(歌川)広重」と、括弧して歌川の名前が追加される。その2年後、昭和57年(1982)の『日本史 新版』では、「歌川(安藤)広重」と、安藤と歌川の位置が逆転して、歌川の方がメインとなっている。
 

 すなわち、昭和57~59年(1982~84)を境に、「安藤広重」から「歌川広重」の方へと主たる呼び方が変わっていたのだ。知らなかった。この「歌川(安藤)広重」という併記の仕方は、山川出版社の教科書ではしばらく続くのだが、12年近く経った平成6年(1994)、『詳説日本史』において、ついに安藤の名前が消滅し、「歌川広重」とだけ書かれるようになっている。だが、筆者は安藤派(そんなものはないが)なのと、読者の方には年配の方もいるはずなので、当面は「歌川(安藤)広重」としておくことにする。

 

 

 

◆「東海道五十三次」と「ノストラダムスの大予言」

 

 「東海道五十三次」の謎解きに、なんで突然ノストラダムスが登場するのか。それは、今回のヒントも前回に続き、故・川尻徹博士が元ネタだからである。博士は「トンデモ本」とされながらも、何冊ものノストラダムスの独自研究本を発表している。確かに奇想天外な内容も多いが、医師にしか分からない興味深い考察も多々書かれていた。その中で、なぜか「東海道五十三次」の謎解きにノストラダムスが登場しているのである。

 

ミシェル・ノストラダムス

 

 ミシェル・ノストラダムスは1503年12月14日に生まれ、1566年7月2日に亡くなったルネサンス期フランスの医師であり占星術師である。だが、本当の顔は、古代イスラエル人の末裔、「イスラエルの12氏族」の内の一部族であるヤコブとレアの第5子であるイッサカル族の末裔の大予言者である。

 

 日本では「ノストラダムスの大予言」として知られる詩集の『諸世紀』を残している。彼の予言は、現在に至るまで非常に多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしている。特に日本では五島勉氏が著した「ノストラダムスの大予言シリーズ」の第1集に記された「1999年7の月」の四行詩が、世界の終焉を記す予言だとして大センセーションを巻き起こした。筆者が小学生の時の話だ。

 

 当時、小学校の4年生だったと思うが、同じクラスで「ノストラダムスの大予言」を読んでいたのは2人だけだったが、それまでの小学生だった筆者の未来に関するイメージが一変してしまったことを覚えている。小学校3年の時に描いた未来の絵は、技術が進歩した非常に明るい未来のイメージだったが、「ノストラダムスの大予言」を読んで以降、全く異なるもう一つのイメージが同居するようになってしまった。それが現在まで続いていることを考えると、その影響力はまさに「言霊の呪術」といえる。

 


「ノストラダムスの大予言」と五島勉氏

 

 後世に五島勉氏も、あまりにも凄まじいその影響力にご自身も驚愕されたことを述懐されている。本来は1冊で終わるはずが、社会現象になるほど大ヒットしたことで、出版社からの圧力からの要望が止まらず、もは誰もやシリーズを止めることができなくなり、どんどん広がっていってしまった、と。「✗✗編」といった続刊が出る度に筆者も買わされたが、実際に1999年7月が過ぎた途端、日本中から「嘘吐き」「外れた」といったこれまた凄まじい非難が寄せられた。

 

 だが、こうした人達の非難は的外れである。なにせ、ノストラダムスは「1999年7月」に「世界が終わる」などということは一切書いていないからだ。要は、世界が終わると勝手に解釈した人たちが圧倒的に多かったということだ。もちろん、ミレニアムということの影響もあった。西洋の人間たちは、1000年を迎える時にも「世界が終わる」と信じていたくらいだし、『聖書』の「ヨハネの黙示録」を子供の頃から読んでいた人たちも2000年で世界は終わると思っていたからだ。

 


「1999年7の月」に世界は滅亡しなかった、が。

 

 『諸世紀』に収められた四行詩形式の予言は非常に難解であった為、後世に様々な解釈がなされ、その「的中例」が広く喧伝されてきた。あわせてノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられ、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」として祭り上げられることとなったが、ノストラダムスはユダヤ人であったがキリスト教徒でもあった。

 

 一説に、彼の一族は表向きキリスト教徒であったが、実際はユダヤ教の信仰を捨てていなかったとするものがあり、また彼の一族がユダヤ教神秘主義「カッバーラ」の秘儀に通暁していたともされるが、表向き残されている史料にその裏付けとなるものはない。だからこそ「カッバーラ」なのである。


<つづく>