「奥の細道」謎解き紀行 その24

 

 『奥の細道』の本当の終着点は伊勢神宮だった。タイトルの”奥の細道”とは「至福千年」へとつながる細い道で、そこに至るにはカッバーラの奥義たる「生命の樹」を昇らないとたどり着けないという意味が込められていたが、それは「神道=原始キリスト教」の奥義であり、神道の宗廟こそが伊勢神宮なのだという暗号だったのである。だからこそ松尾芭蕉と河合曾良(水戸光圀)は、伊勢遷宮の真っ只中に伊勢を訪れたのである。

 

 江戸時代、「一生に一度は伊勢参り」と言われるほど、庶民にとって「お伊勢参り」は憧れの旅だったが、それは現在も変わらない。まぁ憧れの旅ではなくなったものの、2013年秋の第62回「式年遷宮」では、およそ1000万人が訪れ、コロナ禍前の2019年も同様の訪問者数だった。なにせ式年遷宮は20年に一度、ご神体を新しい正殿に遷す神宮最大の神事で、おおよそ8年の歳月をかけて内宮、外宮の正殿をはじめとする65棟の建物が建て替えられる。2013年の単体の行事ではないのだ。

 

2013年の式年遷宮

 

 一般人たちによる「伊勢神宮へのお参り」こそが、

 

 江戸時代、お伊勢参りは「抜け参り」とも呼ばれ、奉公人が主人に無断でこっそり抜け出しても、「お伊勢参りなら仕方がない、お咎めなし!」とされていたため、膨大な人間が伊勢を訪れることで、急激な神道への回帰が始まり、それがやがて「明治維新」の原動力へと変わっていった。

 

◆お蔭参りが生んだ明治維新

 

 お伊勢参りは「お蔭参り」(おかげまいり)・「お蔭詣で」(おかげもうで)ともいうが、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣のことであり、数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回も起こっている。この集団による参詣というのがパワーを生んだ。「お蔭参り」で伊勢までにかかる日数は、江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間かかった。東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝していた。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われる。
 

 「お蔭参り」という呼称が用いられ始めたのは、「明和のお蔭参り」以降である。参宮者の数は江戸初頭で年間2、3万人があったと推定され、『御師考証』によれば江戸中期には年間20万から40万人の参宮があったとする。近世にはお伊勢参りが活性化したが、一方で女性や子供、被官、名子など地主に隷属した農民、丁稚、小僧、下男下女らの商家の奉公人層は厳しい移動の制限があった。しかし当時、たとえ親や主人、家長に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣に関しては、参詣をしてきた証拠の品物(お守りやお札など)を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていたため、彼らも「抜け参り」によって伊勢神宮に参詣することが可能だった。

 

 


江戸時代の「お伊勢参り」の様子を描いた絵

 

 伊勢神宮は、古代には神郡や神田、神戸からの神税など国家的な経済基盤により支えられており、国家祭祀の斎場として「私幣禁断」の制度が敷かれ、個人的な参拝はできないこととされていた。しかし、平安時代に入ると律令制の弛緩と荘園制度の成立に伴い、神税など国家的な経済基盤が揺らぎ、神宮は荘園に対して課税を行い、領地の寄進(御厨)も受けるようになった。この際に、神宮の権禰宜らは「御師」(おし、おんし)として荘園の在地領主層に対して神宮への祈祷を行ったり、神宮の神威を説くなどして伊勢神宮の信仰を広げたため、伊勢信仰はまず上級武士層に広がった。

 中世後期に入ると、戦乱などの影響もあり、神宮の社領も含め荘園制が崩壊に向かい、神宮が財政的危機に陥ったことから、御師の活動はさらに本格化。神宮は、御厨からの収益を収納することが困難となり、参宮者の祈祷料や宿泊料が重視されるようになったため、御師は土地関係を離れて広く人々との師檀関係の形成を広げてゆくようになり、その活動内容も、従来の社領経営などの業務から、参宮に際して宿泊や観光案内を提供するなどの直接的な業務が中心となる。ここからがいわゆる観光としてのお伊勢参りが始まった。


観光目的が活発となったお蔭参り

 

 御師は布教に際して個人祈願を満たす現世利益的霊験よりも、伊勢神宮の国家神的性格を強調して喧伝し、室町時代の辞書『壒嚢鈔』には「和国は生を受くる人、大神宮へ参詣すべき事勿論…」と記され、国家鎮守神である大神宮には国民は必ず詣るべきとする観念が広がる。江戸時代以降は中世の関所が撤廃されて五街道を初めとする交通網が整備され、乗り物や輸送組織が発達したほか、治安の改善もあって参宮の環境が改善し、さらに広範囲かつ広い階層の参宮が行われるようになった。また、道中での遊興施設や宿屋の充実などもあり、伊勢参りはより観光の目的も含むようになった。

 

  しかし、なんで江戸時代に急にお伊勢参りは流行ったのか。もちろんお咎めなしだったことが最も大きな要因だが、大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあったからだ。要は四国八十八ヶ所霊場巡りの「お遍路さん」と同じなのだ。現在は施しは受けられないが、大量の人が徒歩で移動することで、四国に結界を晴らせるのが「お遍路さん」だが、お伊勢参りの場合は、伊勢神宮に日本人の気を集める行為なのである。

 

 お蔭参りによって、地域と階層を超えて人々が集まり、伊勢参りという共通の体験を得たことが、近世幕藩体制を超え「日本人」や「日本」という民族意識・国家意識を醸成、それが明治維新へと繋がっていったのである。松尾芭蕉と河合曾良(水戸光圀)が記した『奥の細道』は紀行文であるが、ある意味の旅行ガイドブックであった。その最後の一文に伊勢のことが書かれていると、読者は伊勢に行きたくなるのである。日本人は伊勢にいかねばという心に火がつくのだ。

 

「おかげ参り」の旗竿

 

 「お蔭参り」の語源には諸説ある。天照大御神の「おかげ」で参詣を果たすことができたためとする説、天照大御神の「おかげ」で平和な生活を送ることができることに感謝をするためのお参りであるからとする説、道中での施行など様々な人の「おかげ」で参宮を果たすことができたためとする説などがある。これが日本人がよく使う「おかげさまで」の起源でもあると考えられている。だが、本当の意味は違う。

 

 「お陰:おかげ」とは「御蔭」(おかげ・みかげ)でもあるからだ。「御蔭」といえば、京都の「葵祭」(あおいまつり)に先んじて賀茂社が執り行う神事「御蔭祭」(みかげまつり)のことであり、「葵祭」とは天皇家の祭りである。つまり、日本全国の祭りの中の祭りである。「御蔭祭」は、現在は下鴨神社で毎年5月 12 日に行われる祭りで、 毎年、祭神の新霊が「御蔭山」(みかげやま)で生まれ、神社の本殿まで迎えに行くという神事である。 神の新たな御霊が 生まれるというので「みあれ(御生)」とも呼ばれている。


御蔭神社の東殿(右)と西殿(左)
 東殿に玉依姫、西殿に賀茂建角身命を祀る。

 

 5月12日、下鴨神社ならびに「御蔭神社」(みかげじんじゃ)ほか、一部の神社にて実施される。東山三十六峰、比叡山から数えて3番目の「御蔭山」にある「御蔭神社」から、神の荒御魂(新しい魂)を下鴨神社に迎え入れる神事が「御蔭祭」である。午前中、御蔭神社で神事が執り行われた後、行列は「賀茂波爾神社」(かもはにじんじゃ)のを経由、御蔭通を通って「河合神社」(かわいじんじゃ)に入る。その後、糺の森に出て、「せみの小川」の流れが聞こえる「切芝(きりしば)」と呼ばれる場所で神事が執り行われる。

 

 また同じく12日の深夜、秘儀である「御阿礼祭」(みあれまつり)が上賀茂神社にて催行される。下鴨神社の御蔭祭と同様、やはり神の新しい魂を迎え入れるための神事である。だが、御蔭祭と違って、こちらは非公開で一般の参列はできず、秘儀となっている。祭礼中は祝詞以外、神職同士でも一切口をきくことが許されず、文字通り粛々と執り行われるという。

 

 「蔭」とは「光」の意味である。「御蔭祭」と「御阿礼祭」は天照大神が天岩戸にお隠れになり、再び岩戸の中からお戻りになったという「天岩戸神話」を再現する唯一の神事である。天照大神=イエス・キリストが磔刑で亡くなり、3日目に復活したことを伝える神事であるがゆえ、「葵祭」に先んじた3日前に執り行われるのである。そう、「おかげ」とは「御蔭」であり、 「お蔭参り」とは「蔭=光の絶対神天照大神=イエス・キリスト」の聖地・伊勢(=イスラエル)に巡礼することを隠して伝える世界で只一つの祭りなのである!

 

2023年の下鴨神社の「御蔭祭」の様子

 

 

 そして、もう一つ。「御蔭祭」の行列は「河合神社」に行く。この河合神社には「八咫烏」が祀られている物部氏系の神社であり、京都における八咫烏の拠点である。忌部氏の中の忌部氏である「鴨族」の裏組織が八咫烏であるが、八咫烏はもともと原始キリスト教に改宗したユダヤ教徒レビ族の大祭司である。忌部氏に幼少期に育てられた水戸光圀が、なぜ「河合曾良」を名乗ったのか、その秘密はここにあったのだ。曾良とは「空」で、飛ぶ鳥=原始キリスト教の暗号だったのである!

 

<つづく>