「奥の細道」謎解き紀行 その23

 

 「奥の細道」とは「至福千年」へとつながる細い道であり、そこに至るにはカッバーラの奥義たる「生命の樹を昇れ」というメッセージが隠されていた。まさに「和」の暗号でえあった。「奥義への道」それが「奥の細道」の正体なのだ。その「細道」の終点は、岐阜の大垣とされてきたが、本当の終着点は伊勢神宮だったのである!

 

 松尾芭蕉と河合曾良(水戸光圀)は、表向きの終着点「大垣」で、八咫烏の遣いである「八十村露通」という忌部氏の男に約束のもの、「ヨハネの黙示録」を含む『新約聖書』を渡す。この男の名字「八十村」が本当なのかどうかは分からない。だが、きっとこれも暗号である。なにせ「八十」は「やそ」で「耶蘇」=イエス・キリストのこと。

 

「耶蘇」=イエス・キリスト

 

 「八=ヤハウェ」で「十=十字架」で、十字架に掛けられたヤハウェ=イエス・キリストという名字なのであり、「耶蘇」とすれば「蘇りしヤハウェ=イエス・キリスト」である。当時も今も『奥の細道』を俳諧紀行だと信じている人は気づかない。だが、分かる人には、もう完全に暗号によるメッセージなのおだと気づく仕掛けが施されていたのである。

 

 大垣で「八十村露通」に『新約聖書』を渡した二人は、伊勢に向かって旅を続ける。それも伊勢遷宮の真っ只中にである。実はここにも大きな秘密のメッセージが隠されている。

 

◆旅の終着点「伊勢遷宮」

 

 『奥の細道』は岐阜大垣から舟に乗り、伊勢へと向かうところで終わりとなる。この「むすびの地」、岐阜県の大垣で「蛤の ふたみに わかれ 行秋ぞ」と最後の句を詠んで結んでいるが、その前の部分に伊勢の遷宮についても詠んでいる。


 旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと、また舟に乗りて、蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
 

 意味は「長旅の疲れもまだ抜けきらないのに、九月六日となり、伊勢神宮の遷宮を拝もうと、また舟に乗った。蛤が蓋と身に分けられるつらさ。私も同じ思いで皆と別れ、行く秋に別れを告げ、二見(伊勢二見浦)に向かって旅立つ」というもので、「旅の目的を完遂しましたよ」と、二人は天照大神に報告にいったとした。

 

大垣に立つ二人の像

 伊勢神宮は20年に一度、域内の125の全ての社が遷座する「式年遷宮」が行われる。式年遷宮とは、社殿を造り替える神座を遷す儀式のことで、伊勢神宮の式年遷宮は、20年に一度、「内宮」と「外宮」の正宮の正殿と、それに連なる宮の社殿を造り替える、日本で一番規模の大きな式年遷宮である。一般的には伊勢が有名だが、京都の賀茂社(上賀茂・下鴨)をはじめ、春日大社・住吉大社・香取神宮などでも、同様にほぼ二〇年ごとの遷宮が行なわれている。

 

 句には「九月六日となり、伊勢神宮の遷宮を拝もうと」としているが、調べてみると、元禄2年(1689)は、伊勢神宮の遷宮が行われた年で、9月10日に「内宮遷座式」、9月13日に「外宮遷座式」が行われている。芭蕉は単に伊勢神宮を参拝するだけではなく、「遷座式」を見ようとしていたということであり、それに合わせて大垣を旅立ったと考えていい。

  元禄2年9月15日、岐阜大垣の木因(もくいん)宛の書簡(『芭蕉書簡大成』)には、
「拙者も寛々遷宮奉拝、大悦に存候」と書かれており、現代訳すると、「私もゆったりと遷宮を拝謁し、大きな喜びでした」ということである。但し、注釈にはここで、「外宮遷宮式を奉拝したこと」とある。なぜか内宮の遷座ではなく、「外宮遷座」と限定している。ここだけ見ると、内宮の遷座式を見たのかは分からないのだが、外宮の遷宮には参加出来たようだ。

 


「伊勢御遷宮之圖」(歌川貞秀 )

 

 松尾芭蕉の『野ざらし紀行』の「伊勢」の場面にはこういうくだりがある。
 「我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入(いる)事をゆるさず。暮て外宮に詣で侍りけるに」

  これは、「自分は僧侶ではないが、僧侶の部類とされ、内宮神前に入ることを許されなかった。暮れて外宮に詣でた」ということで、伊勢内宮は僧侶の参拝を許さず、芭蕉は僧侶と判断されらめに、内宮には参拝出来なかったが、外宮は僧侶の参拝を認めていて、芭蕉も参拝出来たということだ。まず、この時点で怪しい。単なる参拝をするのに、内宮はダメで外宮はOKなどということはない。明らかに「メッセージ」だと考えたほうがいい。

 

 この『野ざらし紀行』は、貞享元年(1684)の作品である。『奥の細道』の5年前である。5年前とは違って、今回は用意周到に準備をして内宮に参拝、遷座式を見ることができたのだろうか。それとも、芭蕉と曾良は最初から外宮の遷座式のみを目的としていたのだろうか。だが、外宮のみならば、芭蕉たちはなんで9月6日に大垣を出発したのだろうか。外宮の遷座だけを見るなら10日くらいに出発しても十分間に合うはずである。と、考えると、やはり、内宮遷座に合わせて出かけたのではないか。但し、それは遷座式を見るためではない。正式に参拝するためである!


江戸時代の遷宮の様子。なぜか二人の一般の参拝者がいる。

 

 現在は一般人であっても伊勢神宮では「正式参拝」ができる。これを御垣内参拝」(みかきうちさんぱい)という。御垣内参拝とは、伊勢神宮の特別参拝の一つで、文字どおり正宮の垣根の内側の聖域に入って参拝をすることである。通常は、「御幌」(みとばり)と呼ばれる白い布の前で参拝するが、初穂料(はつほりょう)を納めることにより、御垣内(みかきうち)で参拝することができる。

 しかし、初穂料の金額によって、垣根内の参拝できる場所は異なる。より高額になれば、天照大御神が座す正殿により近いところで参拝ができる。初穂料については、2000円以上であれば上限はないが、但し、「瑞垣南御門」(みずかきみなみごもん)については、天皇・皇后両陛下のみ参拝が許されている。

 

 瑞垣南御門   天皇・皇后両陛下
 内玉垣南御門外 100万円~
 中重御鳥居   10万円~ 
 外玉垣南御門  2000円~ 


 芭蕉に同行しているのは、天下の副将軍・水戸光圀である。現在も総理大臣など重要な人物は必ず伊勢神宮で正式参拝をする。たとえ芭蕉が僧侶に見えようが、天下の副将軍が参拝する際の同行者となれば、内玉垣南御門外までは入れるはずである。そして、この参拝は天照大神への「報告」である。『新約聖書』を手に入れました、と。そして、二人の旅は終わりを告げた、はずである。

 

伊勢両宮の図

 

 実は、正式参拝にも表があれば裏もある。ご寄進の額が特別に高く、伊勢神宮への著しい寄与が認められる人物の中でも、特に”選ばれた人物”に限っては、表の正式参拝とは異なる内宮の地下殿の扉の前での参拝が許される。これを「内御蔭参拝」と呼ぶらしい。らしい、というのは、どこを調べても出てこないからである。

 

 そう、伊勢神宮の御神体の前での参拝が許されるのである。内宮の御神体とは「契約の聖櫃アーク」と「八咫鏡:十戒の石版」、そしてイエス・キリスト磔刑の「聖十字架」である。そして外宮の御神体は「モーセの十字架」と「八尺瓊勾玉:マナの壷」である。水戸光圀と松尾芭蕉が、両宮の地下殿に参拝したのかどうかは分からない。

 

内宮地下殿に祀られるアークと聖十字架(想像図)

 

 だが、『新約聖書』を手に入れた上、光圀は南朝へと皇統を戻す『大日本史』の編纂を行っていた人物である。光圀がいなければ、明治維新は起きていないのである。そんな日本の最重要人物であり、日本の歴史の転換点となる大事業を行っていた人物が、地下の本当の宮に参拝しないはずがない。選ばれないはずがないのである。そして、一般人たちによる「伊勢神宮へのお参り」こそが、明治維新を起こす原動力にもなったのである。

 

 「一生に一度は伊勢参り」と言われるほど、江戸時代の庶民にとって、お伊勢参りは憧れの旅だった。お伊勢参りは「抜け参り」とも呼ばれ、奉公人が主人に無断でこっそり抜け出しても、「お伊勢参りなら仕方がない、お咎めなし!」とされていたからだ。庶民が勝手に旅行することは厳しかった時代でも、このお伊勢参りだけはフリーパスだけは許されたのである。伊勢神宮は神道の要である。江戸時代は仏教が強かったが、江戸末期、急激に日本は神道へと回帰する。そのきっかけこそが「お伊勢参り」だったのである。

 

<つづく>