「奥の細道」謎解き紀行 その22

 

 松尾芭蕉と河合曾良こと水戸光圀は、「俳諧の二人旅」に出た。俳諧とは『おどけ』『こっけい』味を持つ和歌・連歌のことで、

芭蕉と光圀が『奥の細道』の旅に2人で出たことの意味は、「俳」が「二人の俳優が演じている様子」だからなのであった。表向きは俳諧としながら、裏側の目的は違っていた。

 

 さらに俳句の「五七五」とは「五七桐紋」のことで、カッバーラの奥義である「生命の樹(命の木)」をも表していた。俳諧がなぜ連歌の発句なのか、それは絶対神ヤハウェ=イエス・キリストに捧げる言葉を繋げる行為であり、繋げることで意味をなす暗号でもあった。そういう視点で『奥の細道』を読むと、これまで言われてきた「俳諧紀行」とは全く違う姿が見えてくる。

 

 

◆ 「奥の細道」とは何を示しているのか

 

 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」”百代”とは、一代を20年とすると2000年になるとした。イエス・キリストが十字架の磔刑で亡くなったのは、西暦32年〜33年頃である。そのイエスの磔刑から2000年なら「ヨハネの黙示録」が示す「終末の日」としたが、それは「イエスの再臨」をも示している。

 

イエスの再臨

 

  そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 あなたがたには前もって言っておく。 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」 (「マタイによる福音書」第24章23-28節)

 

 イエスが再臨した後に訪れるのは「至福千年」である。この「至福千年王国」を地上に建設する役目を担っているのはフリーメーソンである。但し、英国を発祥とした近代フリーメーソンのことではない。世界最古のフリーメーソンは天皇陛下を長としていただくアダム直系のセムメーソンを受け継ぐ「ヤマトメーソン」のことで、「日本」はそれを国旗「日の丸」で示している。そして、この国が国号が「ヤマト」だったのも、「ヤ・ゥマト=ヤハウェの民=神の民」だからであり、その祖先がヤマト民族に残した預言こそが『聖書』である。

 

 「ヤマトメーソン」における絶対神の呪術組織は「八咫烏」である。つまり、「奥の細道」とは「至福千年」へとつながる細い道なのであり、そこに至るにはカッバーラの奥義たる「生命の樹を昇れ」と告げているのだ!「奥義への道」それが「奥の細道」の正体だったのである。

 

「奥義への道」それが「奥の細道」の正体

 

 

 「至福千年王国」を建設するのにまず必要だったこと、それは日本を元の姿に戻すことである。元の姿とは、天皇家を正統なる南朝に戻すことだったのであり、それは明治維新によって成し遂げられたが、維新の志士たちが学んだのは「水戸学」であった。光圀は古事記、日本書紀以降の日本の歴史をまとめ、南朝の世に戻すために「大日本史」を編纂させたのだ。その数、本紀73巻、列伝170巻、志・表154巻、全397巻226冊である。

 

 「大日本史」が完成したのは1906年、明治である。だが、「大日本史」根幹は、光圀が決めた「南朝こそ正統なり」である。その真実を知り、志をもった志士たちとは、南朝に仕えていた者たちの末裔である。南朝の末裔を守っていた菊池家の出身が西郷隆盛だったことは決して無縁ではない。光圀のメッセージを受け取った者たちが、正統なる日本に戻すために動いたのが明治維新だったのである。

 

”烏帽子”を被った明治天皇の写真と御真影

 

 光圀を育てたのは、八咫烏と同族の「忌部氏」であった。光圀は「至福千年」のための呪術組織「八咫烏」が育てたといっても過言ではない。つまり、光圀が作り上げた「影の組織」とは、南朝に戻すためのネットワークだったのであり、その最終目標は「至福千年王国」の樹立なのである。キリスト教徒の根幹にあるのは、至福千年における復活である。それが記されているのが「ヨハネの黙示録」であり、江戸時代のキリシタンはカトリックばかりだったとはいえ、かれらもキリスト教徒であり、さらに「ヤ・ゥマト=ヤハウェの民=神の民」である。

 

 「ヨハネの黙示録」第20章には、「千年間の支配」が記されている。

 わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。
 

 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

 

(「ヨハネの黙示録」第20章1-6節)

 

至福千年はいつ訪れるのか

 

 『奥の細道』では、むすびの地である岐阜県の大垣で「蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ」の句を詠んで結んでいる。この「ふたみ」とは伊勢の「二見浦」(ふたみがうら)のことである。名勝「二見浦」は、江戸時代より伊勢神宮を参拝する前に身を清める場所として、また参拝者の宿泊場所として栄えた町である。二見浦海岸の砂浜や堤防を散策し、進むと「二見興玉神社」(ふたみおきたまじんじゃ)に到着する。

 二見興玉神社は穢れを払う禊払い・道開き・縁結びなどに霊験がある神社である。祭神は「興玉大神」(おきたまのおおかみ)でありその御名を「猿田彦大神」(さるたひこのおおかみ)としている。相殿には「宇迦乃御魂大神」(うがのみたまのおおかみ)が祀られている。簡単にいってしまえば、「興玉大神=猿田彦大神」とはイエス・キリストであり、「宇迦乃御魂大神」とは食べ物を与えた神ヤハウェのことである。



「夫婦岩」での禊

 

 二見浦随一の観光名所として知られるのが「夫婦岩」である。大小2つの岩からなる夫婦岩の間からは、夏至の頃には輝かしい日の出が、冬至の頃には美しい月の出を見ることができる。『奥の細道』で「ふたみ」と詠んだのも、「この美しい光景を目に焼き付けたかったに違いない…」などとトンチンカンなことを言う人ばかりである。「二見興玉神社」の由緒では、以下のように伝えている。

 猿田彦大神は天孫降臨の節、天八衢にて天孫をお迎えご先導を以て御神威を顕わされました。その後、「吾は伊勢の狭長田五十鈴川上にいかん」と仰せられ、天鈿女命の侍送により伊勢に還りこの地に住まわれました。
 垂仁天皇の皇女倭姫命が天照皇大御神を奉戴され、この二見浦に御舟を停められたとき、興玉大神は海上の厳島に出でまされ、御神幸を守護し奉り五十鈴の川上に大宮地を定められました。そして、未来永劫、皇大神宮大宮地の守護神として鎮まられ、内宮御垣内に興玉神が奉斎せられるに至りました。当社の創始は、此の厳島を大神の坐す島と崇め敬い興玉神石と尊称し夫婦岩(立石)として注連縄を張り、その前に遥拝所を設け拝礼致したことによります。


 ここまではいい。だが、問題なのは、「鳥居」である。この連載にあたって、「二見興玉神社」を調べたところ、筆者が訪れた時とは、鳥居が全く違うものに変わっていたのだ。「真っ白」なのである。なぜなのかは不明だが、これはメッセージである。なにせ、伊勢の遥拝所の鳥居は「金色」に変わっている。全国の肝となる神社の鳥居が変わり始めているのだ。

 

夫婦岩の前に立つ真っ白な鳥居

 

 『奥の細道』の終着点である大垣その前の地・敦賀に、松尾芭蕉と河合曾良を迎えに来た人間がいる。俳人の「露通」(ろつう)という人物である。「八十村露通」(やそむらろつう)といい、露通・呂通とも表記されるのだが、この人物が謎なのである。二十代から乞食僧となり、のち、芭蕉に師事。奇行が多く、同門の反感を買ったり芭蕉に破門されたりしている。

 

 『蕉門頭陀物語』によれば、芭蕉が草津・守山の辺で出会った乞食が路通である。乞食が和歌を楽しなむとの話に、芭蕉は一首を求め「露と見る 浮世の旅の ままならば いづこも草の 枕ならまし」と乞食が詠んだ所、芭蕉は大変感心し、俳諧の道を誘い師弟の契りを結び、路通(又は露通)の号を乞食に与えたという。この手の話が一番怪しい。

 実は、路通の出自については、出生地についても、「美濃」から「大阪」、「京」、「筑紫」、「近江大津の人で三井寺に生まれる」と様々な説がある。『猿蓑逆志抄』において「濃州の産で八十村(やそむら、又ははそむら)氏」、また『俳道系譜』においても「路通、八十村氏、俗称與次衛門、美濃人、大阪に住む」と記されている。また、『芭蕉句選拾遺』において路通自ら
「忌部伊紀子」と、『海音集』では「斎部老禿路通」と記しているのだ。そう、忌部氏なのである!

 

伊勢内宮

 

 光圀を育てた忌部氏が、目的の「ヨハネの黙示録」を受け取りにきたのである。ここで旅は終わるはずの芭蕉と曾良は、再び旅に出た。遷宮が行われている伊勢神宮を目指して。そして「終」マークの代わりに「蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ」の句を詠んだのだ。「蛤(はまぐり)が蓋(ふた)と身に分けられるつらさ。私も同じ思いで皆と別れ、行く秋に別れを告げ、二見(伊勢の二見浦)に向かって旅立つ」の意味である。そう、旅の目的を完遂しましたよ、と二人は天照大神に報告にいったのである。

 

<つづく>