「奥の細道」謎解き紀行 その20

 

 『奥の細道』の謎解きの旅も、いよいよ佳境に入ってきた。ここで、ここまでの流れをもう一度整理しておく。

 

 伊達政宗に庇護を受けたキリシタン武士・後藤寿庵は、「洗礼者ヨハネ」の意の「寿庵」という名を持つ人物で、「ヨハネの黙示録」を入手する計画を立てる。計画を託された支倉常長は、慶長遣欧使節団を率いてエスパーニャ(現スペイン)、ローマに赴き、元和元年9月12日(1615年11月3日)にローマ教皇パウロ5世に謁見する。支倉常長はマドリードで国王フェリペ3世列席の下、洗礼を受け、洗礼名「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラ」を授けられ、有色人種として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。


政宗からの親書をローマ教皇に渡す支倉常長

 

 支倉常長はローマでは市議会から市民権と貴族の位を認めた「ローマ市公民権証書」を与えられている。しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっていた。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国する。政宗は常長に帰国しないように命ずるも、常長は帰国。そして、2年後に失意のうちに死去する。棄教したとも言われたが、遣欧使節の正使であったエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ が1624年に九州で書いた手紙では、常長は「敬虔のうちに死去」して宣教師の保護を遺言したと記している。

 

 命の危険を顧みず帰国した理由。それは「ヨハネの黙示録」を含む『新約聖書』を手に入れることだった。常長が持ち帰った『新約聖書』は後藤寿庵に託され、「ヨハネの黙示録」の翻訳が密かに進められる。しかし、幕府によるキリシタン弾圧は加速、主君・政宗も取り締まりを命ぜられる。ここで政宗は、寿庵を逃亡させる。「ヨハネの黙示録」の翻訳を完成させるためである。寿庵は陸奥南部藩に逃亡したとも、出羽秋田藩に渡って死去したとも伝えられる。

 


伊達政宗

 

 寿庵は熱心なキリシタン領主であったため、家臣らのほとんどが信徒となり、全国から宣教師や信徒がその地に訪れたという。また元和7年(1621年)、奥羽信徒17名の筆頭として署名し、前年のローマ教皇パウロ5世の教書への返事を送っている。要は翻訳チームを抱えていたということであり、「ヨハネの黙示録」の翻訳というミッションを命じられた一団は逃亡先で翻訳を完成させたのである。

 だが、寿庵たちの逃亡先にもキリシタン弾圧の追っ手が迫ってきた。そこで寿庵は政宗に命じられた通り、「ヨハネの黙示録」の翻訳本と『新約聖書』をさる人物に託す。それは、キリシタンであった政宗の娘・「五郎八姫」であった。離縁され仙台に戻ってきていた「五郎八姫」は、後に出家し、鬼子母神堂を建立。あくまで仏教に帰依したフリを装いつつ、実態はキリシタンのままで、イエスを祀る木像に祈りを捧げ、「最後の晩餐」を再現する秘密の祭りをキリシタンたちに命じたのである。

 

謎の木像を祀る鬼子母神堂内の社

 

 五郎八姫は、1658年(万治元年)に出家、「天麟院」(てんりんいん)の号を名乗り、その3年後の1661年(寛文元年)に67歳で亡くなった際、菩提寺として「天麟院」が建造された。この五郎八姫の墓所がある「天麟院」は、河合曾良こと水戸光圀が「松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす」という句を詠んでいた「松島」にあった。全ての謎はここに隠されていたのである。

 

 『奥の細道』とは、日本の中でも特筆すべき重大な意義が込められていた紀行文で、未来へ伝達する黙示的メッセージとして作成されたものであり、それを作った目的は、冒頭部分にある「松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住替る代ぞ ひなの家 面八句を庵の柱に懸置。」にヒントが隠されていた。「松嶋の月をぜひ見たいと思った」というのが、旅をするに至った動機として記しているが、「松嶋の月」とは『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」のことである。そして、そこにはもう一つの意味が隠されていた。

 

 「月」とはキリスト教においては「聖母マリア」の象徴だが、「月」とは「陰」であり、女性の象徴である。そう、「松嶋の月」とは、松島にいた「五郎八姫」の暗号だったのである。「五郎八姫」のもとに行き、『新約聖書』と「ヨハネの黙示録」の翻訳本を手に入れる旅だったのである。

 

寿庵、常長、政宗、五郎八姫

 

 

◆暗号書「奥の細道」

 

 松尾芭蕉がまとめたとされる『奥の細道』と、芭蕉の弟子であるとされた河合曾良が記した『曾良旅日記』は対を成している。2つ合わせて1つの意味を成す陰陽の関係であり、それは「合わせ鏡」なのである。片方だけを読んでいても本当の意味は分からないような仕掛けを施したのである。

 

 『曾良旅日記』は全て漢文調で書かれ、漢詩を理解していた光圀だからこそ書けたものといえ、俳諧師の松尾芭蕉には書けない表現の作品である。もちろん句とともに詳細な旅の行程が記されている。一方で、『奥の細道』は複雑に編集がなされ、後で起こったことが先に書かれていたりと、その作りはまるで『聖書』か「ヨハネの黙示録」といえるようなものである。読み解き方が分からない者には理解できない作りになっているのだ。逆に言えば、手に入れた「ヨハネの黙示録」が影響を及ぼしているのである。

 

『奥の細道』(松尾芭蕉真筆)

 

 『奥の細道』は一般的には紀行文だと思っている人が多いようだが、それは間違いである。芭蕉がみちのくへ旅したのは、元禄2(1689)年の春から秋のことである。その後、3年以上もの月日を費やして『奥の細道』を発表している。旅の経緯は、『曾良旅日記』に詳細に書かれており、ルートをはじめ、宿泊地や情景の描写、人の名前、天候など、事実とは異なることがいくつもあるのだ。これは意図的に編集がされているということだ。

 たとえば、人里離れた道を行き、宿泊に苦労したというのも、実は話を盛り上げるための脚色がほとんどなのである。さらに、連句の発句として当初「五月雨を集めて涼し最上川」と詠んだのが、「早し」に改められている点など、句自体にも変更が加えられていることも分かっている。つまり『奥の細道』は実際に旅した順序どおりに書かれた紀行文ではなく、構成を練りに練ったある意味の文芸作品、すなわちフィクションなのである。が、そこには
明確な意図が隠されていたのである。

 

『奥の細道』(曾良本)

 

 そこには本当の編集者であった水戸光圀の意図が隠されている。その意図とは「暗号」である。後世になって真意がわかる「暗号書」なのである。なぜ、天下の副将軍と言われたほどの水戸光圀をもってしても「暗号」にしなければならなかったのか。それは、江戸時代のこの時期にはまだ尚早だったのである。光圀に司令を出した者の意図は、『奥の細道』を読んで真意を理解した者たちだけに分かる作りにしなければならなかったのである。

 

 『奥の細道』の本質というのは、「ヨハネの黙示録」を手に入れたという報告書であり、伊賀忍者・松尾芭蕉と忌部氏に育てられた水戸光圀に命じられた東日本調査記録なのだ。では、誰に対する報告だったのか?それは天照大神=イエス・キリストと八咫烏なのである。

 

イエス・キリストと八咫烏

 

 八咫烏は絶対神からの厳命により日本を出られない。そして、命令が下りない限り、基本的に京都からも出られない存在である。八咫烏は神国日本を呪術と預言で覆う一族であり、イエスの12使徒を元にした組織である。基本はイスラエル人ユダヤ教徒だった「物部氏」で構成されるが、原始キリスト教徒「秦氏」もいる。筆者のこれまでの連載で書いてきたことから想像すれば、原始キリスト教徒「秦氏」は、既に『新約聖書』を持っていたとしてもおかしくはない。もちろん「ヨハネの黙示録」も同様である。それをわざわざ手に入れる必要などあったのだろうか、という疑問が浮かぶはずだ。

 

 だが、原始キリスト教徒「秦氏」が大和に渡来したのは3世紀である。『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される「弓月君」を秦氏の祖とする。『新約聖書』は、1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。


福音書の断片

 

 『聖書』自身に記された証言と教会の伝承では『マタイ福音書』はアルフェオの子で、税吏であった使徒マタイによって書かれたとされている。『マルコ福音書』はペトロの同行者であったマルコがペトロの話をまとめたものであるという。『ルカ福音書』はパウロの協力者であった医師ルカによって書かれたとされ、『ヨハネ福音書』はイエスに「最も愛された弟子」と呼ばれたゼベダイの子ヨハネが著者であるとされてきた。

 『新約聖書』は多くの記述者によって書かれた
27の書物の集合体である。伝承ではそのほとんどが使徒自身あるいは使徒の同伴者(マルコやルカ)によって書かれたと伝えられてきた。そして、この使徒性が新約聖書の正典性の根拠とされた。たとえばパピアスは140年ごろ、「長老によれば、ペトロの通訳であったマルコはキリストについて彼から聞いたことを順序的には正確ではないものの、忠実に書き取った」と書いたという(エウセビオスが『教会史』の中で、このように引用)。さらにエウセビオスの引用によればエイレナイオスは180年ごろ、「パウロの同伴者であったルカはパウロの語った福音を記録した。その後に使徒ヨハネがエフェソスで福音書を記した」と記しているという。

 

 さらに、27書以外にも『新約聖書』の正典には含まれない文書群があり、外典と呼ばれる。時期や地域によってはそれらが正典に含まれていたこともある。要は権力者たちが『新約聖書』を編纂する際に、支配に都合の悪い内容の文書は勝手に外してしまったのである。ここは非常に重要である。なぜなら、『新約聖書』の文書を書いた人間の多くは使徒で、原始キリスト教徒であったが、『新約聖書』を編纂した者たちは原始キリスト教徒ではなかったのである。

 

16世紀頃の『新約聖書』

 

ヨハネの黙示録 (ヨハネへの啓示)使徒ヨハネ
 

 現代の『新約聖書』の文書と一致する文書表がはじめて現れるのはアレクサンドリアのアタナシオスの367年の書簡である(『アタナシオスの第39復活祭書簡』)である。この手紙の中に書かれた文書群が新約聖書正典として一応の確定を見たのは397年の第3回カルタゴ教会会議においてであった。しかしこの会議においても『ヤコブの手紙』と『ヨハネの黙示録』の扱いについては決着しなかったのである。

 

 筆者が何を言いたいのかといえば、「秦氏」は全ての原書を手にしていた原始キリスト教徒の集団である。一方、八咫烏はイエス・キリストの厳命により組織された、原始キリスト教に改宗したユダヤ教徒のイスラエル人である。バチカンが支配するキリスト教は、イエス・キリストの教えに反することすら教義にしてしまった、白人のための偽のキリスト教である。彼らは原始キリスト教徒ではないのだ。

 

 世の終わり、原始キリスト教国家「日本」は、バチカンが支配する偽のキリスト教と対峙しなければならない。同じ「ヨハネの黙示録」の預言に合わせて双方とも行動を起こしているのである。よって、彼らの伝える偽のキリスト教を理解せねばならなかったのである。白人が支配するキリスト教は、何を改竄し、何を削除したのか。だからこそヨハネが記した「黙示録」が、どのように伝えられているのかを知る必要があったのであり、それを手に入れられるのは水戸光圀だと分かっていたのである。

 

 光圀は伊達藩のお家騒動の際、伊達藩の取り潰しを救った人物だった。そして光圀を守るため、忍者の俳諧師・芭蕉を送り込んだのである。

 

<つづく>