「奥の細道」謎解き紀行 その19

 

 後藤寿庵のことは、調べれば調べるほど謎が浮かんでくる。だが、バチカンに直接親書を送れる関係値ということを考えると、政宗と寿庵が「ヨハネの黙示録」を入手する計画を立て、それをキリシタン藩士・支倉常長や通訳として同行したソテロを使って実行した、と考えても不思議ではない。なにせ、政宗自身も実はキリシタンだったという説もあるくらいだからだ。

 

 政宗は支倉常長が持ち帰った「ヨハネの黙示録」を寿庵に託した。が、その寿庵にも追っ手が迫ってきた。そこで、さらに別の人間に託す必須に迫られた。それが伊達政宗の娘でキリシタンだった「五郎八姫」(いろはひめ)である。なぜ、「五郎八姫」なのかと言えば、政宗の娘であり、独り身だったからだ。

 

◆「五郎八姫」と「キリシタンの隠し里」

 

 「五郎八姫」は、文禄3年6月16日(1594年8月2日)に生まれ、寛文元年5月8日(1661年6月4日)に他界した伊達政宗の長女で、徳川家康の六男・松平忠輝の正室であった女性である。「五郎八姫」は、文禄3年(1594年)6月16日、京都の聚楽第屋敷にて生まれた。政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、当然夫妻は伊達家後継者となる男児誕生を熱望していたであろうが、生まれたのは女児だった。このため、男子名である「五郎八」しか考えていなかった政宗が、そのまま「五郎八姫」と命名したといわれている。

 「五郎八姫」は、聚楽第から伏見、大坂と各地を転々と、慶長4年(1599年)1月20日に有力大名との関係を深めようとする徳川家康の策謀の一つとして、家康の六男・松平忠輝(越後高田藩初代藩主)と婚約することとなる。慶長8年(1603年)には伏見から江戸に移り、慶長11年(1606年)12月24日に忠輝と結婚。忠輝との仲は睦まじかったが子供は生まれなかったと言われている。

 

「五郎八姫」(出家後の天麟院の頃)

 

 元和2年(1616年)、夫の松平忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らし、仙台城本丸西館に住んだことから、「西館殿」とも呼ばれた。五郎八姫は、23歳の時に離縁して実家へ戻っている。その後、政宗や母が再婚話を持ち掛けるも拒否し続けたという。なぜ、再婚をしなかったのか。その理由として、母の愛姫や夫であった松平忠輝がキリシタンであったこと。そして教義上「離婚」を認めないキリシタンの信仰ゆえ、と考えられている。

 

 五郎八姫がキリシタンだったという確かな記録は見付かっていない。しかし様々な史実から、五郎八姫がキリスト教に深いかかわりを持っていたのは間違いないと考えられている。五郎八は離別されて伊達家に戻った後は独身を守り、政宗が五郎八のために造った仙台城西の居宅で余生を送った。歴史の表舞台にほとんど姿を見せることなく、出家後の院号は「天麟院」(てんりんいん)という尼僧として67歳の生涯を終えている。

 

五郎八姫の墓所がある「天麟院」

 

 確固とした資料は残ってはいないが、「五郎八姫はキリシタンだったのではないか」と考えられている理由は、大きく3つある。1つめの理由は、上記した五郎八姫が松平忠輝と離縁後、生涯独り身であったことだ。カトリックでは、離婚は禁止されている。政治的な理由で離別せざるを得なかったにせよ、夫と添い遂げることができなかったことに五郎八姫が罪悪感を持ち続けたため、かたくなに再婚を拒んだと考えられる。

 

 2番目の理由には、母・愛姫が一時期キリシタンであったこと。五郎八姫を出産した当時、愛姫は京都の聚楽第屋敷で生活していた。そのときに愛姫が親交を持っていた夫人のひとりが「細川ガラシャ」であった。細川ガラシャは「明智光秀」の娘であり、細川忠興の正室であったキリシタンである。愛姫が細川ガラシャとの交流からキリスト教に関心を持ち、生まれたばかりの五郎八姫とともに洗礼を受けた可能性は少なくない。

 細川ガラシャが洗礼を受けたのは1587年(天正15年)で、豊臣秀吉によって「伴天連追放令」が発令され、キリスト教への弾圧が始まった時期である。愛姫や五郎八姫が洗礼を受けた明確な記録が残っていないことには、そんな時代背景も関係していると考えられるのだ。

 

細川ガラシャ
 

 3番目の理由は、仙台城本丸西館の北、現在の仙台市栗生(くりゅう)地域にある「鬼子母神堂」(きしもじんどう)の存在である。栗生の地は隠れキリシタンが住むという噂のある地域で、さらに五郎八姫が建てたと言われるこの小さなお堂には、右手にザクロを持ち、左手には赤子を抱いた20cmほどの木像「鬼子母神像」(きしもじんぞう)が祀られている。一般に、「鬼子母神」は法華経の教えのなかで安産や子どもの守護を司る天女だが、ザクロはキリスト教における希望や復活の象徴とされていること、鬼子母神の赤子を抱く姿がどこか聖母マリアに似ていることから、鬼子母神を聖母マリアに見立てて祈りを捧げていたのではないかという説があるのだ。

 加えて「鬼子母神堂」の近くに建つ「薬師堂」には、
イエス・キリスト似た風貌を持つ「ろうそく食い」なる木像が祀られるなど、この地域には多くの隠れキリシタンが潜伏していた痕跡が認められるのである。松平忠輝と離縁せざるを得なかった五郎八姫が、地元の隠れキリシタンとともに密かに信仰を守り続けていたとしても不思議ではない。

 


「鬼子母神像」(左)と謎の「ろうそく食い」の木像


 

「見られてはいけない祭り」と「松嶋」

 

  五郎八姫の隠れ屋敷があったという仙台市青葉区栗生は、現在は閑静な住宅街だが、その当時、五郎八姫自身がキリシタンであり、このエリアは隠れキリシタンの里だったのではないかという説は根強い。五郎八姫および栗生という地の「隠れキリシタン説」を裏付ける記録はない。だが、ここには「見られてはならない」とされ、密やかに行われる祭りがある。

 

 限られた家のものだけでひっそりと続けられる奇祭「鬼子母神祭」は現在も続けられているが、「見られてはいけない」祭りのため、詳しい資料はない。だが、鬼子母神堂では250年以上も前から現在まで、旧暦の8月14日の夜中に祭りが行われている。祭りの当日は、夕方になると家族は戸締りをして話をせずにひたすら夜になるのを待つという。そして人の出入りがない夜中に、家長がお供え物を持って縁側から静かに外に出て、誰にも会わないように鬼子母神堂へ向かうのだという。そして家長が戻るまでは家族も話をすることは禁じられている、という祭りだという。



鬼子母神堂

 

 なぜ、ここでは8月15日に祭りを行うのか。それはイエスの母・マリアが昇天した日だからである。そして、「見られてはいけない」祭りの名は「盗人神」(ぬすっとがみ)また「唖神」(おっつがみ)」という。なんで盗人の神なのか、なんで唖(おし:口のきけない)神なのかは分からない。
 
 祭りではどんなことが行われるのか。それは、”限られた家”の主が袴姿で、藁で作った
12膳の箸と食事を盛ったお膳を持って、このお堂を参詣するというもので、祭りの間中、絶対に口をきいてはならぬ、途中人に見つかってはならぬ、音をたててはならぬという、まるで自分たちの存在をかき消すかのような祭りなのである。だが、「12膳の箸」が意味するのは「最後の晩餐」である!イエスと12使徒による「最後の晩餐」を再現しているのだ。

 

 さらに言えば、「絶対に口をきいてはならぬ、途中人に見つかってはならぬ、音をたててはならぬ」という意味は、見られたらお終いだということだ。人に見つかったら自分たちの師であるイエスの居場所がばれ、イエスは磔刑となってしまう。だからこそ、イエスが見つからぬよう、ひっそりと秘密裏に「最後の晩餐」を行ったということを、幕府や地元の人間にもバレぬように行っていたということなのだ。

 

イエスと12使徒の「最後の晩餐」

 

 五郎八姫はなぜ出家し、鬼子母神堂を建立したのか。その理由としては、キリシタンということを隠すためである。あくまで仏教に帰依したフリを装いつつ、実態はキリシタンだったということだ。出家して仏門に入ってもなお、その心の内にはキリスト教への熱い信仰が隠されていたかもしれない。が、それもまだ表の話である。

 

 「鬼」と「神社」の関りから言うと、「鬼」のように強い子を授けるのが「鬼子母神」であり、「鬼子母神堂」に参れば〝モーセのように強い子〟が授かることになるというのが本当の意味である。更に言うと「鬼」の始祖は「アダム」で、全人類の母「エバ(イヴ)」から生まれた子の代表が子孫のイエス・キリストで、それらを並べたら〝鬼子母神〟となり、大工のイエス・キリストが最大の〝鬼神ヤハウェ〟となる仕掛けが隠されているのである。

 

 モーセの鬼の血統は「正当南朝系」に受け継がれ、ラストエンペラーとなる最後の天皇徳仁陛下が幕末から明治に入れ替わった南朝系の直系で、約束された〝最後の穏(鬼)〟となるのである。話が突然飛んだように思えるかもしれないが、実はここはつながっている。『奥の細道』「ヨハネの黙示録」「南朝天皇家」というのは1本の線の上にあるのだ。なぜなら、五郎八姫は、1658年(万治元年)に出家し、「天麟院」(てんりんいん)の号を名乗り、その3年後の1661年(寛文元年)に67歳で亡くなった際には多くの人がその死を悼み、菩提寺として「天麟院」が建造された。

 

 問題は、五郎八姫の墓所がある「天麟院」は「松島」にあるのだ!河合曾良こと水戸光圀が、「松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす」という句を松島で詠んでいた意味は、ここにあったのである。

 

<つづく>