名曲与太話:「マイ・ウェイ」フランク・シナトラ

 

 男は、50代になったら誰しも「マイ・ウェイ」を歌えるようにならなければいけない。それは男としての黄金律だからだ。「そんな黄金律、聞いたことがない」なんて言っている時点で失格だ。男はかあちゃんとガキを食わしていけて一人前となる。それができていない男は半人前だ。半人前だった男も、やがて一人前となったら、必ず人生を振り返りたくなる時が来るものだ。

 

 なんて「男」を強調する話を書くと、最近はすぐに「女性蔑視だ」「ジジイのたわ言」などと叩かれる。嘆かわしい世の中だ(笑)。いかに世の中に暇人が増えたのかがよく分かる。LGBTQを声高に叫ぶことが正義などと勘違いしているバカどもが多すぎる。国連とアメリカ大使館の戦略に乗せられていることにも気づかずに、まんまと騙されて地獄行きとなることを知らない。

 

 真っ当な話をする人間は、いつの世も嫌われる。嫌われることを恐れて、本当のことを言えない男たちが増えすぎた。いったい誰に嫌われて困るのか。全く分からない。お前らは芸能人じゃないんだから、関係ないだろ。まぁ、芸能人というのは、叩かれてもメディアに露出が増えるので、叩かれたなんぼという部分も多い。そういう因果な商売だ。

 

 男というのは、非難をされようが、嫌われようが、自分の信じた道をまっすぐに歩まないとダメだ。孤独と戦えない男は尊敬されない。まぁ、実際はなかなか辛いものだが、それでも歯を食いしばって、格好悪い言い訳はせずに、必死に耐えないとダメだ。顔で笑って、心で泣いて。そうして踏ん張った男は「マイ・ウェイ」を歌えるようになる。

 

 

  今 船出が 近づくこの時に 

  ふとたたずみ 私は振りかえる

  遠く旅して 歩いた若い日を

  すべては心の 決めたままに

 

 

 まずは、「マイ・ウェイ」の基本を体に叩き込め。もちろん、帝王シナトラのオリジナル・バージョンを。本当にシナトラは帝王だから、歌い方がぶっきらぼうだ。だが、その裏にはイタリア系移民として、辛苦をなめた悲しみがある。エンタメの仕事をしていると、マフィアとも付き合わざるを得ない。昔の演歌歌手がみんなヤクザのお世話になっていたのと同じだ。嫌なこともある。だが、我慢、我慢、である。

 

 

 「マイ・ウェイ」を人前で歌う時には正装しないといけない。ヨレヨレの格好で歌うと刺さらない。偉そうにうたうことがコツだ。上からな感じで歌わないといけない。J-POPじゃあるまいし、「人に寄り添う」とか「共感」なんてことを決して考えてはダメだ。常に上から、偉そうに、堂々と、自信満々に歌わないと「マイ・ウェイ」は伝わらない。 

 

 

 本家を聴いたら、次は若大将を聴いてみる。若大将は英語版でしか歌わない。さすが若大将だ。若大将は日本で一番この曲が似合う。ぶっきらぼうな歌い方も同じだ。なにせ何不自由なかった人が、叔父さんの借金で全てを失い、また立ち上がた人だ。去年までステージに立っていた。すごい。ヨットの「光進丸」も自前だ。「今、船出が…」と歌って当然の資格がある。

 

 石原裕次郎もヨットを持っていたし、「ボス」と呼ばれた人だ。日本で「ボス」と呼ばれたのは、裕次郎と丹波哲郎しかいない。最も資格がありそうだが、裕次郎に歌い上げ系は無理だ。やはり岩倉具視の子孫という血が流れている若大将は、ほっておいても上からな歌い方になる点が素晴らしい。決して寄り添ってはいけない。

 

 

 帝王といえば、エルビスもだ。エルビスもいろいろとスーパースターなりの苦悩に満ちた人生だったが、最期まで格好つけて生き抜いた人だ。その点では”ビッグ・ボス”のシナトラや80歳になっても若大将と言われる人たちと同様、キング・オブ・ロックンロールだ。称号がある人じゃないと「マイ・ウェイ」は似合わない。われわれのような、そこら辺のオヤジも、称号を得た人のような気分になって、歌う時はしっかり妄想しながら歌わないとダメだ。

 

 

 こちらは「日本語バージョン」の基本だ。クレイジーケンバンド横山剣も日本語だ。日本語詞になった時(2バージョンあるが)、この人が翻訳家の歌詞を変えてしまった。それが今も歌い継がれている。そして、上手い。多分、シナトラよりも若大将よりも、この人の方が歌唱力は上だ。だが、布施明には何も称号はない。だがら風格が足りない。五木ひろしも同じだ。歌の上手さとは関係ないのだ。他人に配慮しない生き方を貫いたから「マイ・ウェイ」なのだ。

 

 

 「誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう」

 と、アンディ・ウォーホールは言った。カラオケの時代を知っていたということだ(笑)。さぁ、ひっそり陰ながら練習して、本番ではしっかり「マイ・ウェイ」を歌おう。