「奥の細道」謎解き紀行 その17

 

 仙台藩主・伊達政宗は、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使に、スペイン国王・フェリペ3世、及びローマ教皇・パウロ5世のもとに「慶長遣欧使節」を派遣。その際、政宗が支倉常長に持たせた書状には政宗自身の署名捺印と花押が記入されており、そこにはスペイン語で政宗自身も洗礼を希望しており奥州領内にキリスト教を広めるつもりである、と記されていたのである。

 

伊達正宗からスペイン国王及びローマ教皇への親書

 

 1614年12月20日、使節団はスペインの首都マドリードに入る。1615年1月30日、常長ら使節はスペイン国王フェリペ3世に謁見。2月17日、常長はフェリペ3世ら臨席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受けた。この時点で支倉常長は完全にキリスト教徒となったのである。

 

 8月22日、使節団はマドリードを出発。10月25日には使節団はローマに到着。10月29日、使節団はローマで、栄誉あるローマ入市式を行っている。そして、11月3日、常長、ソテロらが、ローマ教皇・パウロ5世に謁見。歴史に残る日本人として初めてのローマ教皇への謁見となった。さらに11月20日、常長らにローマ市民権証書も授与されたのである。

 

ローマ法王と謁見する支倉常長

 

 常長はローマ市民権を得た初めての日本人となったのである。さらに正宗の親書まで持参している正式な使節団である。そして、キリスト教徒に正式に改宗したのである。ならばだ、常長はこの時、ローマ教皇・パウロ5世から何某かの返礼品を授与されていたはずである。もちろん、常長にはロザリオやらキリスト教徒としての証も与えられていたはずだが、それよりもっと重要なものが与えられていたのではないだろうか。『聖書』である。

 

 伊達政宗はキリスト教への改宗の意を親書で示していた。政宗は既存の神社仏閣を手厚く保護し、キリスト教を信仰しようとしたとされる傍証は存在しないため、親書の内容は貿易のための方便であったか、スペイン語で書かれた内容を政宗自身が把握していなかった可能性もある。のちに政宗は幕府の方針に従ってキリスト教を弾圧したため、結果的に虚偽の内容の国際文書を発行したことになったのも事実である。

 

 だが、それは後世の話だ。よって、常長ら使節団がもたらした親書は、ローマ教皇・パウロ5世にとっては本物と扱われたはずである。ならば、改宗の意を示した政宗に対する返礼として、『新約聖書』を渡したとしてもおかしくない。なにせ、印刷技術はあったものの、当時の『聖書』は一般人が簡単に手に入れられるような代物ではない。聖職者や貴族など、特権階級が手にすることができた高額な印刷物である。

 

16世紀頃の『聖書』

 

 常長らが日本を離れている間、キリシタンは徹底的な弾圧を受ける。政宗は常長らに帰国してはならないと命じたが、彼らはそれに逆らって帰国。捕らえられることになるが、彼らはそこまでして帰国しなければならない理由があった。それこそが「ヨハネの黙示録」を日本に持ち帰ることだったのである!

 

 「奥の細道」の序文には「そヾろ神の物につきて心をくるはせ」とあるが、“神の物”というからには具体的な物でなければならない。それは「ヨハネの黙示録」の原書と完訳だったのではないか。なにせ「新約聖書」のトリは預言書「ヨハネの黙示録」なのである。

 

◆伊達藩と『聖書』をつなぐ、もう一つの可能性

 

 実は、伊達藩に『聖書』をもたらせた可能性のある人物がもう一人いる。名前を後藤寿庵(ごとうじゅあん)という。天正5年(1577年)に生まれ、 寛永15年(1638年)に亡くなったのではないか、とされる武将で、キリシタンだった人物である。本名は岩淵又五郎といい、伊達氏の家臣で、一説には葛西氏の旧臣とも言われている。しかし、正確には生まれた年、場所、本名、亡くなった年までまったく不明––––ということである。

 要は、後藤寿庵についてはっきりと分かっていることは、武士であったこと。そして、キリシタンであったこと。それ以外は、非常に多くの「謎」に包まれた人物だということだ。安土桃山時代から江戸時代初期にかけての人物なのに、「不明」という点がかなり気になる。なにせ、この頃はたとえどんな死に方をしたにせよ、墓には生没年は記されていて当たり前だからだ。



後藤寿庵

 

 それでも、後藤寿庵という存在が伝説などではなく、実在した人物であることは疑いの余地はない。なにせ、広大な原野であった現在の岩手県奥州市水沢の地に水を引き、荒れた土地を人々とともに耕し、領民の生活の礎を築いた人物として、寿庵の成した功績はいまも形として残っているからである。

 ではなぜ、寿庵がキリシタンだったと分かるのか。それは、
ローマ法王庁に名前が記録されているからなのである!彼はローマ法王庁の記録に残る日本人として、当時最高の地位にある人物でもあったというのだ。さらにである。寿庵がまだ岩淵又五郎だった慶長元年(1596年)、長崎に住みキリシタンとなるが、迫害によって五島列島宇久島に逃れ、ここで洗礼を受けている。そして「寿庵」とと名乗り、五島氏に改名する。問題は「寿庵」とは、洗礼者ヨハネの意味なのである!

 寿庵は慶長16年(1611年)、京都の商人田中勝介と知り合い、その推薦によって、
支倉常長を通じて伊達政宗に仕えることになったのである。慶長17年(1612年)、後藤信康の義弟として、見分村(現在の岩手県奥州市水沢福原)1,200石を給される。そして、寿庵は原野だった見分村を開墾するため、大規模な用水路を造り、これが「寿庵堰」と呼ばれ現在も農業用水として胆沢平野を潤している。大坂冬の陣・夏の陣では、伊達政宗の配下として鉄砲隊の隊長を務めている。

 

後藤寿庵廟堂(岩手県奥州市)

 

 「洗礼者ヨハネ」の名を持つ人物で、支倉常長と出会い、伊達政宗に仕えた人物であり、さらにローマ法王庁に名前が記録されている人物なのである。ということ、だ。あくまで仮説だが、寿庵(ヨハネ)こそが伊達政宗と支倉常長にキリスト教とは何かを説き、『聖書』と「ヨハネの黙示録」を手に入れるよう勧めた人物だったと考えられないだろうか。もしくは、既に長崎で「ヨハネの黙示録」以外の福音書は手に入れていたが、『聖書』のフィナーレたる「ヨハネの黙示録」だけは持っていなかった。それを手に入れようとした人物そのものだった可能性すら考えられる。

 

 寿庵が初めて歴史の舞台に表れるのは、慶長年間(1596−1615年)のことである。伊達政宗への謁見が記録に残っており、石井彪他氏の著『東北の民間信仰』には、寿庵についての記述がある。

 「少年、青年の時代の消息は不明であるが、長崎の五島に十数年間滞在中、キリスト教の洗礼を受け、外人宣教師によって欧州文化の知識を得ていた。その後姓を後藤(五島の名にちなむ)と名乗って仙台に現れ、ある人によって藩主伊達政宗に紹介された」


後藤寿庵の碑

 

 伊達政宗は、仙台に突如現れたキリシタン武士の後藤寿庵を厚遇する。ヨーロッパと交易する野望を抱いていた政宗は、引見した寿庵に西洋の事情を聞き、領内でのキリスト教の布教を認め、奥州水沢の地に知行千二百石を与えて赴任させたと考えられている。だが、一方で、寿庵こそが政宗を通じて「ヨハネの黙示録」を手に入れ、それを奥州に隠すことを企てた人物であることも否めないのである。なぜなら、本名、亡くなった場所や年までまったく不明だからである。
 

◆寿庵が名付けた「神の福音をもたらす地」

 寿庵が正宗から拝領した岩手県南部の地である、北上川へと注ぎ込む清流・胆沢川が東西に流れる「胆沢扇状地」は、日本最大級の扇状地でもある。この平野は当時
「見分けの地」と呼ばれ、砂漠のように荒涼とした原野だったという。農業用水が不足して作物はたびたび枯れ、そのたびに農民たちは貧困にあえいでいたのだ。

 ここに赴任した寿庵は、この地を
「神の福音をもたらす地」という意味の「福原」(ふくわら)と名付け、農民たちの救済に乗り出している。川から水を引くための検地を行い、農民たちとともに工事に着手。この用水によって、水不足が解消されるだけでなく、広大な荒れ地を耕すことができるとあって、地域の人々の希望となったのである。

 さらに工事の一方で、寿庵は外国人宣教師を招いてキリスト教の布教に励む。福原には教会堂が建築され、寿庵の館の東側には、東西五町三十間(約600メートル)の小路が続き、両側を屋敷割して家臣を住まわせている。「寿庵廟」には
「羅馬法王ぱうろ五世ノ下セル罪障全赦ノ教書ニ対シ奥羽二州ノ信徒ヲ代表シテ奉答文ヲ呈セルコトアリ」と記され、バチカンとのつながりを維持していたことも伺えるのだ。


「寿庵廟」

 

 「福原」には教会を中心に民家が立ち並ぶようになり、「福原小路」という集落ができた。しかし、水沢での日々は、慶長17年(1612年)及び翌年に江戸幕府から出された禁教令によって終わりを告げる。伊達政宗はキリシタン禁制が布達された当初、実は禁令を放置していたのである。しかし、徳川家光の代になって禁制が強化されるといよいよ対応を迫られることになり、仙台藩からは寿庵の名指しで逮捕令が出されることとなる。その時の様子を、寿庵廟の記録は以下のように伝えている。

 
「幕府のキリシタン弾圧が迫るに及び、政宗の内意を受けた水沢城主石母田大膳は、その夫人ともども寿庵に棄教をすすめたが「正宗公の恩義は千万忝(かたじけ)ないが、デウス(神)の恩ははるかに広大であり、御意に従いかねる」といって拒否し、元和九年福原における最後の耶蘇降誕祭を終えて従族十余名を帯同し、家や名誉を捨てて自ら追放という茨の道を選び、南部に逃れたと伝えられている」

 政宗は幕府における立場もあったため、寿庵に直接棄教を勧めることはできなかったのかもしれないし、寿庵をなんとかして救いたいと考えたかもしれない。だが、それすら表向きの話で、実は政宗は寿庵を隠したのかもしれないのだ。なにせ寿庵は「南部に逃れたと伝えられている」のである。「逃れた」のではなく、政宗が「逃がした」のだ。そして支倉常長が持ち帰った「ヨハネの黙示録」を預けたのではないだろうか。


伊達政宗

 

 逃げたのだから、没年は分からない。しかし、記録には逃れる際、寿庵には十余人の帯同者がいたとある。また、真偽は不明だが、後に南部藩内(現在の青森県南部町など)で捕縛された者の中に、寿庵の教えを受けたものがいたらしいという話も残っているのだ。千石を超える元領主ならば、せめて死後にでも、どこでどのような最期を迎えたのかくらい誰かが伝え聞いていても不思議ではないはず。

 江戸初期の東北奥地のこととはいえ十数人のキリシタンの集団が、一度も捕まることもなく、あるいは身分を偽り続けて、他の人間とも一切関わることなく暮らしていくことなどできるだろうか。実は、ここにこそ政宗が関わっていた可能性があるのだ。仙台藩から逮捕令が出された際、政宗は
「捕吏を派遣して福原の寿庵宅を包囲させたが、一部逃げ途を明けて攻撃の形をとった」「隠れていた信者たちは寿庵を導き逃亡させた」というのである(『東北の民間信仰』)。


 政宗は藩の者たちに寿庵の行方をあえて深く追わせなかったのではないだろうか。あるいはその後の消息は、ごく一部の人間は知っていたかもしれない。しかし、表向きには「一切不明」とした。そのようにして、寿庵を「もはや存在しない人」とすることが、寿庵に生きる道を残し、「ヨハネの黙示録」を隠すための方法だった。それこそが政宗の「内意」だったのである。

 

<つづく>