「奥の細道」謎解き紀行 その15

 

 水戸光圀が松尾芭蕉を連れ立って『奥の細道』の旅に出た理由は3つある、と故・川尻徹博士は指摘した。1つ目は諸国の現状視察である。2つ目は当時のキリスト教で禁書扱いだった「ヨハネの黙示録」を手に入れること。3つ目は諸国の隠れキリシタンを押さえると同時に、山伏や産鉄集団などの地下組織を支配下に置き、「影のネットワーク」を完成させることであった、と。

 

 『奥の細道』は忍者として隠密の旅だったのではないかと書いた際、いくつかの疑念を示したが、その一番目は「不自然な旅程」であった。出発前、芭蕉は「松嶋の月まづ心にかかりて」と松嶋を訪れることを楽しみにしていたにも関わらず、実際は、松嶋では1泊しかしなかったことだ。他の土地では長期滞在しているに、なぜ心待ちしていたはずの松嶋が1泊だったのか。

 

 このことから、松嶋観光はカモフラージュで、本当は仙台伊達藩内の動向を探るというミッションだったのではないかと疑ったが、仙台伊達藩は徳川家とも親しく、伊達藩の動向を探ることではなかった。

 

松嶋にのぼる月

 

 では、芭蕉と曾良(光圀)は、伊達領内で何をしていたのか。それは「ヨハネの黙示録」を手に入れることであった。それこそが伊達藩内でのミッションだったのである。しかし、いったい誰が「ヨハネの黙示録」を保管していたのか。芭蕉と曾良はどのように手に入れたのだろうか。

 

◆「ヨハネの黙示録」はどこに隠されていたのか

 

 『奥の細道』には不可解な点が多い。同行者であった河合曾良は、行く先々で大層なもてなしを受けている。表向きは芭蕉の弟子であるにもかかわらずだ。曾良は様々な料理を楽しんでいたことが『曾良日記』に記されており、なぜ、そのような金のかかる旅が可能だったのかは、もちろん曾良が水戸光圀だったからである。なにせ『曾良日記』に残された各地で食した料理というのが、まさに光圀の大好物ばかりだったのだ。

 

 仙台の青葉城を訪れた際には、芭蕉ではなく曾良が追手門から城内に簡単に入っている。一介の俳諧師の弟子にはそのようなことは許されないが、これもまた水戸光圀がお忍びで青葉城にやってきたとなれば、「御老公が…」ということで、城内にすぐに案内されるはず。納得がいく話である。

 

青葉城の本丸(想像図)

 

 松島で曾良は「松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす」という句を詠んでいるが、これは「ここ松島ではほととぎすはそのままの姿ではつりあわない。鶴の衣をまとって、優雅に見せてくれ」というのが表の意味である。本当の意味は何を示しているのか。また、芭蕉は『奥の細道』の冒頭部分に以下の文章を載せており、これは『奥の細道』を作った目的だとした。

 

 「松嶋の月先心(つきまずこころ)にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、草の戸も住替る代(すみかわるよ)ぞ ひなの家 面八句を庵の柱に懸置。」

 

 <口語訳> 

 もう心はいつか旅の上-松島の月の美しさと、そんなことが気になるばかりで、二度と帰れるかどうかもわからない旅であるから、いままで住んでいた芭蕉庵は人に譲り、杉風(さんぷう)の別荘に移ったところ、わびしい草庵も自分の次の住人がもう代わり住み、時も雛祭のころ、さすがに自分のような世捨人とは異なり、雛を飾った家になっていることよ、と詠んで、この句を発句にして、面八句をつらね、庵の柱に掛けておいた。(日本古典文学全集「松尾芭蕉集」)

 

 「松嶋の月をぜひ見たいと思った」というのが、旅をするに至った動機として記しているが、「二度と帰れるかどうかもわからない旅」というのも、「命懸け」という風に捉えることもできる。これが「命の危険」という意味なのならば、「ミッション・インポッシブル」みたいな話で、命の危険もある極秘任務だったということをさり気なく伝えていることとなる。

 

 「松嶋の月」とは「ヨハネの黙示録(卜訳文)」の暗号だとしたが、はたして松嶋には「ヨハネの黙示録」があったのだろうか。また、松嶋には「ヨハネの黙示録」があったのならば、それはいったい誰がどのようにもたらしたのだろうか。そして、誰が保管していたのか。それを手に入れることこそが命の危険もある極秘任務だったということなのだろうか。

 

左:河合曾良 右:水戸光圀

 

 まず、考えられるのは「隠れキリシタン」の存在である。一般的に「隠れキリシタン」と聞いて思い浮かぶのは長崎である。国宝・大浦天主堂や、島原の乱の戦地となった天草地方が浮かぶ人が多いのではないだろうか。長崎と天草は禁教期にも密かに信仰を継続していた潜伏キリシタン独特の文化伝統の証拠であることを評価され、2018年7月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産へ登録されている。

 戦国時代の九州の中で、元亀2年(1571)に南蛮貿易の港として開かれた長崎は、特異な場所だった。天正8年(1580)に、その地を領していた大村純忠によって、
イエズス会に寄進されたからだ。以降、天正15年(1587)に豊臣秀吉が没収するまで、長崎はイエズス会が統治することになる。そう、長崎はイエズス会の自治領だったのである。

 永禄6年(1563)に洗礼を受けた大村純忠は、龍造寺隆信によって圧迫されており、天正5年(1577)に人質を出して従属している。寄進の時点では、大村家の長崎に対する支配は弱まっており、自治都市化しつつある状況だった。イエズス会領となった長崎は武装を進め、特に、キリシタン大名であるこの大村純忠や有馬晴信に脅威を与えている龍造寺隆信を敵視、ルイス・フロイスは龍造寺を「キリシタン宗団の大敵」「キリシタン宗門の迫害者」と呼んでいる。

 

浦上天主堂

 「隠れキリシタン」と会うことには「命の危険」があったのだろうか。なにせこの頃は既に「島原の乱」で表向きにはキリシタンは排除されており、家康による禁教もあってひっそりと暮らしていたはず。芭蕉と曾良に刃を向けたり、殺害したりしたことがバレた場合、その地区の「隠れキリシタン」たちは幕府もしくは幕府の命を受けた仙台藩に一掃されてしまう危険性がある。

 

 「隠れキリシタン」がそんな危険を犯すとは考えにくいし、たとえ水戸光圀だと名乗っても簡単に信じるとも思えない。だいたい「隠れキリシタン」なのだ。”隠れている”のだから、そんな簡単には見つけることはできないはずだし、たとえ「そなたは隠れキリシタンか?」などと質問したところで、簡単に「はい、そうです」なんて答えるはずもない。「隠れキリシタンにしてみれば、キリシタンを全国で殺戮した憎き徳川家の人間である。いくら「三つ葉葵」の印籠を見せられても「ははぁ」となるとも思えない。
 

 仮にであるが、危険を犯してまで「隠れキリシタン」たちが光圀たちに自分たちの素性を明かしたのなら、それには相当の理由が必要である。「光圀に従うべし」と思わせるような何かを見せられたとか、「隠れキリシタン」たちしか知らない秘密の暗号名を名乗ったとか、である。その場合、光圀は既に「隠れキリシタン」たちを統括できるような存在だったということとなる。だが、『奥の細道』からはそんな文脈は読み取れない。

 

 

◆伊達藩内の「隠れキリシタン」

 

 当時の東北地方と「隠れキリシタン」はどんな関係だったのだろうか。少々脱線する。読者の方はご存知ないとは思うが、『生命の木』(せいめいのき)という漫画がある。この作品は諸星大二郎の漫画で、処女連載シリーズである『妖怪ハンター』の一作である。1976年に『週刊少年ジャンプ』の増刊号に掲載され、後に単行本化された際に他の作品と共に収録されたもので、2005年には、『生命の木』を原作とした映画『奇談』も公開されている。

 

 あらすじは以下のようなものである。Wikipediaから参照する。

 
「はなれ」と呼ばれる、東北地方某所の隠れキリシタンの集落には、「世界開始の科の御伝え」という聖書異伝が伝わっている。それによると、太古、人間は楽園で暮らしていたが、禁断の果実を食べたことで「でうす」の怒りを買い、楽園を追われたという。このうち「あだん」と「えわ」の夫婦は知恵の木の実を食べたが、もう一人の人物「じゅすへる」は生命の木の実を食べた。そのため、「じゅすへる」とその子孫は神と同様に不死となり、地上が人間で満たされることを憂いた「でうす」は「いんへるの」を開き、「じゅすへる」の一族をそこに引き入れ、「きりんと」が来たる日まで尽きぬ苦しみを味わう呪いをかけたのだという。

 これに興味を持った主人公は、三日前に「はなれ」の住民が何者かに殺された事件をきっかけに、地元のカトリック教会の神父と共に「はなれ」を訪れようとしていた。神父の話では、この集落も江戸時代に切支丹弾圧の嵐を受けたが、不思議なことに一人の殉教者も出ていないとのことだった…。

 


漫画『生命の木』

 

 東北地方某所の隠れキリシタンの集落があったという設定である。本当にそんな場所があったのかと言えば、あるのである。この漫画は、「隠れキリシタンの里」を舞台にした伝奇で、東北地方の隠れキリシタンの弾圧なども織り込まれており、妙な迫力がある作品である。中でも作中に登場する特殊な用語が非常に興味深い。なにせ執筆の参考とされたのは、隠れキリシタンの書『天地始之事』によるものだからである。

 『天地始之事』という名称から想像できるのは、もちろん
「創世記」である。作中の用語には「じゅすへる(ルシファー、ポルトガル語: Lucifer)」「まさん(林檎、ポルトガル語: Maca)」「ぽろへしゃす(予言、ポルトガル語: profecia)」「ぐろうりや -(栄光、ポルトガル語: gloria)」といった言葉が登場するのだが、問題は「ぽろへしゃす」である。「予言・預言」という言葉を隠れキリシタンたちは知っていたのであり、「聖書」の中の最大の預言書とは「ヨハネの黙示録」である!

 

謎の漫画『生命の木』の一場面

 

 東北地方には「隠れキリシタン」が弾圧された「大籠」(おおかご)という場所がある。その地にあるバス停の名を「架場」(はしば)という。「架」という字の意味は、「物をのせたり掛けたりする台、または、さお」である。使われる言葉には 「架上・書架・開架・筆架・銃架・後架・十字架・担架」などがある。そう、ここは「十字架」が立てられた場所、磔刑の処刑場なのであり、罪人として処刑された「隠れキリシタン」たちの「首を架けた場所」だったということなのである。

 そもそも東北地方にはどれだけ多くの「隠れキリシタン」がいたのだろうか。岩手県一関市の中心部から車で約1時間ほど行ったところにあるのが「大籠地区」である。宮城県との県境にある大籠は車以外で行くのは難しい辺境の地で、そこにこの「架場バス停」があり、ここにあるのが「大籠キリシタン殉教公園」である。ここはキリスト教布教と殉教の歴史を後世に伝えるために作られた公園である。

 

大籠キリシタン殉教公園


 江戸時代、ここ「大籠」の一帯は仙台藩の領内であり、たたら製鉄を行う地として栄えていたという。たたら製鉄を行う製鉄所は「烔屋」(どうや)と呼ばれており、この烔屋を経営していた千葉土佐が、製鉄の技術指導のために備中国(現在の岡山県)から千松大八郎・小八郎という兄弟を大籠に招いた。

 

 この千松大八郎・小八郎兄弟がキリシタンで、この地で布教を始めたのだと資料館には残されている。また、フランシスコ・バラヤス神父がこの地で布教にあたり、大籠のキリシタンはさらに増加したという。だが、キリシタンの迫害はこの地でも行われる。寛永16年(1639年)から数年間で300人以上の信者が処刑されたと言われており、「キリシタン改め」を行う台転場がもうけられ、そこで踏み絵などが行われた。キリシタンであることが判明すると、打ち首や磔などにより処刑されたと伝えている。

 「慶長三年より、元和にかける迫害が大籠にも開始されるようになった。けれども辺地の千松に依って蒔かれた種はすくすくと生長し、強い迫害にもひるまずキリストの教えは確固たる地盤の下に信仰の根を養っていたのである」 (『大籠の切支丹と製鉄』より)

 

「地蔵の辻」

 公園の中に「無情の辻」(むじょうのつじ)という場所がある。寛永16年(1639年)、寛永17年(1640年)に打ち首、十字架(ハリツケ)等により、178名が殉教した場所である。上の画像の案内板には「一名無情の辻という 寛永十六、十七年百七十八名をの後の処刑を含み二百余名が打首、十字架等により集団大処刑がおこなわれ、その鮮血が刑場下の二股川を血に染めた無残なこと筆紙に尽くし難きものがあった。その跡、菩提のため地蔵が建てられ又、南無阿弥陀佛。寛政四年に刻んだ五尺の碑、庚申塚地蔵尊は宝暦四年、その他大小十基の供養碑がたっている。この首のない地蔵尊の岩には、次の如く刻まれている。大七妻大柄沢惣兵衛妻藤五郎右エ門清兵衛妻國助妻夫や息子が殉教したので、その母や妻が地蔵尊を建て其の冥福を祈る心で其の心情に一掬の涙なきを得ない」と記されている。

 

 この公園は平成6年に開設された。「歴史の庭」「歴史の道」「歴史の丘」という三部構成からなる歴史公園で、「大籠キリシタン資料館」と、岩手県出身の彫刻家・船越保武氏の作品「十字架のイエス・キリスト」、「聖クララ」、「聖マリア・マグダレナ」のブロンズ像三体が展示された「大籠殉教記念クルス館」がある。資料館から大籠殉教記念クスル館へと繋がる階段は309段もあるのだが、この段数は大籠の殉教者の数を表している。


首実験石


 上の画像の「首実検石」とは、キリシタン信徒たちを打ち首にする時、検視の役人が、この石に腰掛けて処刑の有様を見届けたというので、「首実検石」という。検視の役人は伊達藩の検視役で、ここに腰を下し首実検をしたのである。首実検石から道一本をはさんだ場所では合計200余名におよぶ処刑が行われ、流れ出た血が近くの二股川にまで及んで川を赤くした、と伝えられている。

 

 また、この公園内には「上野刑場」という処刑場跡がある。寛永17年(1640年)にキリシタン信徒94名が所成敗(ところせいばい)となった場所で、ここには「オシャナギ様」と呼ばれる像が立っている。像は赤子を抱いている様子で、潜伏キリシタンが持っていた幼子イエスを抱いた聖母マリア像に見える。

 

上野刑場の「オシャナギ様」

 

 その他にも、「祭畑刑場」「トキゾー沢刑場」など、大籠地区には10数ヶ所におよぶ処刑場跡などの関連史跡が点在しており、この異様さは島原や天草にもみられないものである。集落の規模と比較しても、その処刑者の多さは異常といえる。なぜ、この辺鄙な地でかくも多くのキリシタンたちが弾圧されたのか。そこには幕府が伊達家がたたら製鉄などで力を蓄えるのを危惧したのではないかという疑いがある。

 『大籠の切支丹と製鉄』には、「伊達家の保護で発達したキリシタンは、やがて徳川幕府より異端視される日が来た」と記されている。この地を統治する仙台藩伊達家は、当初キリシタンたちには温情的だったとされる。それは藩祖・伊達政宗が、外国とのつながりを重視したこと。そして大籠の地においては製鉄の労働力を重視したためでもあったことが考えられる。

 

 もう一つ。伊達政宗は外国とのつながりを求める意味で「慶長遣欧使節」(けいちょうけんおうしせつ)を派遣している。政宗はこの使節団を誰のもとに派遣したのか。それはスペイン国王・フェリペ3世、そしてローマ教皇・パウロ5世である。

 

<つづく>