「奥の細道」謎解き紀行 その14

 

 川尻徹博士は、『奥の細道』の旅における重大な使命の一つとは、“隠れキリシタン”たちが保管していた「ヨハネの黙示録」の訳本を探し出し、入手することだったとした。なぜなら、当時「ヨハネの黙示録」は禁書扱いで、隠れキリシタンしか持っていなかったからであると。

 

 当時の日本国内のキリスト教徒たちは、まだ『聖書』は持っていなかった。宣教師によって使用するテキストは異なっていたためで、『聖書』はまだ断片的なものだったといえる。では、日本初の 『聖書』 はいつできたのだろうか?

 

◆ 江戸時代より前に「聖書」はあった?

 

 日本国内における『聖書』は、1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した時に持って来た日本語に訳された「マタイ福音書」に始まると言われているのだが、記録は残っていない。フロイスの『日本史』によると、ザビエルがマラッカで出会った日本人ヤジロウの協力で和訳の計画をしていたことは確かである。

 

フランシスコ・ザビエル

 

 1541年、ザビエルはポルトガル国王からの要請を受け、リスボンを出航、東インドへ向かう。ザビエルの使命は、ポルトガルの植民地であったインドでの普及活動であった。翌年の5月にゴアに到着したザビエルは、インド洋沿岸、セイロン島、マラッカ島などを渡り歩いて伝道。ところが現地はイスラム教の影響が強く、ザビエルを迫害、キリスト教を受け入れようとはしなかった。

 1547年、成果を得られず虚無感にひたっていたザビエルのもとに、懺悔を希望する一人の日本人青年が訪れる。それが「ヤジロウ」である。「ヤジロウ(もしくはアンジロー、弥次郎)」は、かつて薩摩で商人として暮らしていたが、仕事上のトラブルで仲間と喧嘩になり、その相手を殺してしまったことを告白。罪の意識に苛まれながらも極刑を恐れ、ポルトガル船に乗ってマラッカに逃亡していた最中に、ザビエルのことを知り、罪を告白するためにやってきたのだとされている。

 ヤジロウにザビエルのことを紹介したのは、ポルトガル船の船長ジョルジュ・アルヴァレスで、1546年に薩摩半島最南部にやってきたアルヴァレスは、マラッカへ帰る際ヤジロウを乗船させている。ヤジロウの人柄と賢さに魅せられたザビエルは、翌年、神学を学ばせる。ヤジロウが話す日本の様子に関心を持ったザビエルは、日本での布教を決意。ヤジロウを案内役としてゴアを出航、薩摩上陸を果たす。

 


左:弥次郎の墓(日置市) 右:ザビエル公園に立つ3人の像

※像の中央はザビエル、左が弥次郎、右がベルナルド


 薩摩(鹿児島県)出身のヤジロウ(弥次郎)については諸説ある。貿易を目的としてマラッカを訪れていたとも、上記のように罪を犯して貿易船でマラッカへ逃れていたとも言われている。いずれにせよ、青年ヤジロウと出会ったザビエルは、その礼儀正しさ、勤勉さに驚き、「日本という国を見てみたい」との意を強くしたのは間違いない。

 また、「日本でキリスト教が受け入れられるか」を弥次郎に尋ねた際、ヤジロウは「可」と答えたこともあり、ザビエルはヤジロウとともに日本を訪れることを決心したのである。ザビエルに同行した修道士イルマン・フェルナンデスは、ヤジロウの協力を得て信仰問答をローマ字に訳している。この中の「第七でうすの御掟の十のまんだめんとの事」にはモーセの「十戒」が訳載され、「主の祈り」が入っており、「聖書」の一部は既にこの時代に日本語にされていたことが分かる。

 

ルイス・フロイス

 

 フェルナンデスは四福音書の全訳を試みたようだが、それに関する詳細は不明である。しかし、彼とともに同地に布教していたルイス・フロイスの記録によれば、1563年肥前(長崎県)度島(たくしま)の教会の火災で、この稿本が無惨にも焼失したという。完訳ではないものの、一部は確実にあったのである。


 聖書和訳稿は屏風の下張りに使われていたという話がある。現在知られる最も古い和訳聖書の断片は、松田毅一氏が1960年にエヴォラ図書館から整理を依頼された際、古屏風の下張りから発見されたものである。そこには旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)3章7節が「云ヘキ時アリ、モタスヘキ時アリ」と訳されており、この他にイザヤ書1章11節など幾つもの訳稿が発見されている。これらは1580年頃のものと推定されている。

 

 英国国教会の信徒セーリスは『日本航海記』の1613年10月9日に、「ミヤコ(京都)で新約聖書を日本語で印刷している」と記している。この幻の京都版「新約聖書」は、カトリック教会の記録にも裏付けられてはいるが、それ以上は不明である。

 

織田信長

 

 織田信長が明智光秀に討たれる前年の1581年(天正九年)の記録によれば、全国の教会堂の数は200ヶ所、宣教師は59人、信徒数15万人とされており、これは当時の人口の1%に当たる。一説には1587年に秀吉が「耶蘇宣教師追放令」を発する頃には僧侶300人、信徒数20〜30万人とかなりの勢力だったという。

 

 当時、各地の学校ではギリシャ、ローマの古典書が読まれていたとされ、中にはラテン語の教師になったものさえあったという。1613年は禁教令が全国へ拡大した年で、徳川家康が駿府城で死去する3年前のことである。江戸幕府が発足したのが1603年(慶長8)だから、その頃の京都に「新約聖書」の日本語版があったというのだが、「ヨハネの黙示録」を含む全編だったかどうかは不明である。

 

「新約聖書約翰黙示録」(ヨハネの黙示録)
出版社:米國聖書會社 出版年:1880(明治13)年

 

 新約聖書は西暦45年から95年の間に書かれたとされており、ヘレニズム世界の共通語(コイネー)であるギリシア語で書かれていた。2~3世紀にかけ各巻ごとに書かれ、397年カルタゴ公会議で現在の27巻の聖書が公認された。また4世紀末には、ヒエロニムスによって聖書のラテン語訳がなされた。

 

 さて、日本にいつ「ヨハネの黙示録」がもたらせられたのだろうか。表には決して出さなかったが、それをもたらしたのは原始キリスト教徒「秦氏」である。「秦氏」は古神道=ユダヤ教であったこの国に「原始キリスト教」を持ち込み、それを「神道」としてこの国の根本に据えた。但し、それはあくまでも「神道」としてであって「(原始)キリスト教」ではない。

 

 秦氏は「失われたイスラエル十支族」の大王にしてユダヤ教徒であった初代天皇・神武天皇にバプテスマを授けた。絶対神ヤハウェを奉ずるユダヤ教徒から改宗して、新しい神イエス・キリストを皇祖神として受け入れたことで、その諱を「応神」とした。そして、応神天皇にバプテスマを授けたのは原始キリスト教徒「秦氏」の頭にして、レビ族の王であった「武内宿禰」(たけのうちのすくね)である。それを伝えているのが「五月人形」である。

 

左:弓の先に「金鵄」が舞い降りた神武天皇

右:赤子の「応神天皇」を抱く武内宿禰

 

 武内宿禰は『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「竹内宿禰」とも表記される。「宿禰」(すくね)は一般的には尊称だが、ユダヤのレガリア「契約の聖櫃アーク」に触れることができるレビ族の大王の意味を隠す。武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣とされ、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など古代の中央有力豪族の祖ともされる。

 

 「五月人形」では武内宿禰は赤子の応神天皇を抱いているが、それは新しい宗教に宗旨替えした「応神天皇」を赤ん坊の姿で表したもので、弓の先に黄金の金鵄(きんし)がとまっている神武天皇(応神天皇)の人形は、大和朝廷を開くための畿内での物部氏との戦いの際に、光り輝く絶対神ヤハウェにしてイエス・キリストが舞い降り、この国の王権を授けたことを伝えるものである。

 

 しかし、古代の日本に「ヨハネの黙示録」を含めた『新約聖書』の完訳本があったとは考えにくい。秦氏が渡来したのは3世紀後半から4世紀の初頭であり、日本人自身にも世界の人間にも大和民族が原始キリスト教徒であることを知られないように封印したからで、「ヨハネの黙示録」を含めた『新約聖書』の完訳本が突然登場したのは明治になってからの話である。

 

新約聖書路加伝

 

 「新約聖書路加伝」(ルカ伝)が発行されたのは1876年(明治9)である。明治5年、横浜において、日本在留キリスト新教各派宣教師協議会が開かれ、J.C.ヘボン、S.R.ブラウン、D.C.グリーン、N.ブラウンなど、その当時の日本国内の伝道にあたっていた各伝道会社の代表が中心となって、新約聖書の翻訳に着手することが決定。それまでに聖書の部分的な翻訳本は出版され始めていたが、聖書全体の翻訳に着手するのは、これがはじめてであった。翻訳出版は分冊で行われ、翻訳ができると順次発行していった。一連の翻訳は「明治元訳」と呼ばれる。

 

 では、最初の「新約聖書」がもたらされたのはいつなのか。「新約聖書」を最初に日本にもたらしたのは弘法大師・空海である。806年に唐から帰国した際、空海は漢語訳の聖書を持ち帰ったはずである。当時の唐は国際都市で、様々な宗教の寺院が建てられ、各宗教が布教していたからである。その名残りが本願寺に残されているとされる『馬太偉傳(マタイ伝)』である。

 

弘法大師・空海

 

 空海がもたらした「新約聖書」もまた、表には出されなかった。それはひっそりと伝えられただけである。では、松尾芭蕉と河合曾良こと水戸光圀は、どうやって、どこで「新約聖書」の「ヨハネの黙示録」を手に入れたのだろうか。

 

<つづく>