「奥の細道」謎解き紀行 その13

 

 茨城には、湊川から遠く離れているにもかかわらず、楠木正成を祀る「楠木神社」がある。光圀が亡くなったはるか後、光圀の志を継ぎ 楠木正成や南朝、さらにその臣下を祀ったのがこの神社である。神社の創建についてを記した『楠木神社記』をまとめたのは津田信存(つだのぶかず)という光圀が編纂を命じた『大日本史』の最後の編集者である。


旧水戸藩内の旭村(現・鉾田市)に建立された「楠木神社」

 初代宮司は和田勘恵で、『楠木神社記』によると、戦国時代の常陸国領主・佐竹氏の一族、小沼義宣に跡取りがなかったため、現大阪府羽曳野市である河内国古市(かわちのくにふるいち)から上太田村に移り住み「楠木正成の末裔」と称していた楠正継(まさつぐ)を養子とした。その17世の孫、勘恵が小沼氏から和田氏に姓を変えたとされる。

 

 なぜ、旧水戸藩内に「楠木神社」を建立したのかといえば、それは光圀の「大日本史」編纂の目的を達したからだ。南朝の復興である。それまで全然知られていなかった南朝の忠臣・楠木正成という存在にも光が当たり、結果として皇居前にも楠木正成像が建てられることとなる。それは南朝の末裔を毛利家から開放しようとした織田信長も同じで、明治天皇は信長を祀る「建勲神社」を京都の船岡山に建立させている。明治天皇が感謝の意を示したのである。

 


令和元年11月8日の「産経新聞」

 「楠木神社」には「遥拝壇」(ようはいだん)が作られている。普通の神社の遥拝所の向きは「伊勢神宮」だが、ここの遥拝壇は南朝の霊を遠くからお参りするためのものである。「壇」といっても人工の小山で、もともと7mほどの高さだったが、創建から10年ほどして約3倍の高さに増やされたという。

 

 この遥拝壇には歴代南朝方の天皇とその家臣を祀る「南朝神社」など4つの石宮があるのだという。つまり、ここは「楠木神社」というよりも「南朝神社」なのである。その南朝復興のきっかけを作った水戸光圀と水戸藩の領地内であった場所に建立したことにこそ意味がある。

 

「遥拝壇」と大きな楠木

 

◆光圀の隠居と「世直し」の旅

 

 「天下の副将軍・徳川光圀が諸国を漫遊して世直しをする」というストーリーは、昭和から平成にかけて、長年愛されてきた時代劇「水戸黄門」の主役として描かれてきた徳川光圀像である。日本の偉人の中でも、老若男女を問わず最も親しまれていた人物だと言える。TVドラマとは異なり、実際の光圀は『大日本史』の編纂に力を注いでおり、藩主時代もほとんど江戸に常駐していたため、ドラマのように日本全国を行脚したという客観的な事実はないが、藩主時代の光圀は領内の治水事業や寺社改革などに取り組み、また、大きな船を建造して蝦夷地(北海道)探検も何度か行なっていたという。

 

 光圀は『大日本史』編纂にあたっては、多くの学者を動員して史料の収集をさせている。その学者たちの中でも特に有名だったのが、佐々 介三郎(宗淳)と安積 覚兵衛(澹泊)の二人で、彼らは史料収集のため実際に各地を旅し、光圀も隠居後は水戸領内をよく巡察して廻ったという。つまり、光圀の手足となって各地を旅した介三郎(=助さん)と覚兵衛(=格さん)を、隠居後に領内を巡察した光圀と結びつけ、“光圀がこの二人の共を連れて世直し旅をした”という物語を創作したと考えられている。

 

「水戸黄門」の銅像

 

 光圀の隠居時代というのは、「犬公方」といわれた五代将軍・綱吉の治世である。綱吉は、3代将軍徳川家光の四男として生まれた家康のひ孫にあたり、水戸藩二代藩主だった光圀は、徳川頼房の三男として生まれ、こちらも家康の孫である。3代将軍家光の時代までの武力を背景とした武断政治が、4代将軍家綱の時代から、儒教や法令に基づいた統治をはかる文治政治へと変化する。

 綱吉は、家光の四男で、本来は将軍職後継の可能性は低かったのが、家綱に跡継ぎがなく病に倒れると後継者問題が持ち上がった際に、5代将軍に推したのが、徳川御三家の一つであった水戸藩の光圀で、将軍家に近い血縁を重視する選択を主張し、綱吉の将軍職就任が決まっている。つまり、光圀では5代将軍誕生の生みの親と言える。

 

 TVドラマシリーズではあまり描かれなかったと記憶しているが、昔の時代劇映画では、ちょくちょく五代将軍・綱吉が登場していた。光圀の「世直し」として知られる最も有名なもの、それは綱吉の「生類憐れみの令」に対する反抗である。

 

五代将軍・徳川綱吉

 

 将軍後継問題で老中・堀田正俊だけが館林宰相をつとめる綱吉を将軍にと異論を唱え、これを支持したのが光圀だった。最初はさほど目立たない将軍だったが、徐々に周囲の言うことを聞かなくなる。そして綱吉は悪政と名高い「生類憐れみの令」を発布する。単に犬や牛馬に留まらず、魚類や貝類の殺生や食用までも禁じるまでにエスカレートさせ、禁を犯した者を極刑に処した。そんな中、光圀は突如として元禄三年(1690)に隠居の身となり、権中納言に任じられたのだ。

 

 だが、光圀は「生類憐れみの令」を平然と無視、鷹狩をしたり牛肉を食らうなど殺生を行い、犬50頭捕まえて皮を剥ぎ、毛皮にした上で、箱に詰めて将軍に献上した「犬の皮剥ぎ事件」を起こしている。光圀は、水戸領内で捕えた毛並みの良い犬の毛皮をそろえて桐箱に入れ、「上様も年をとったので、養生するよう、これを献上するので、上様に御披露の程を」といった手紙を付けて老中だった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)のもとへ届けたという。

 

 中身を知らずにそれを綱吉に届けたとしたら、柳沢吉保は大変なことになったはずである。そのことから「光圀乱心」の噂が出て、翌年、江戸へ呼びつけられた光圀は、大学三綱領の講義や能を演じさせられる。それぞれに上々の出来栄えで、その噂は消えたというが、これは光圀が乱心したフリをしたと言われている。

 

「生類憐れみの令」の立て札

 

 松尾芭蕉が曾良を伴って『奥の細道』の旅に出たのは、元禄二年のことであり、「生類憐れみの令」が江戸中に吹き荒れている最中であった。つまり、光圀は別の形で「世直し」することを考え、そこで考案されたのが『奥の細道』の旅であった。そこには将軍家のみならず、北朝の天皇家に対する「世直し」という意味が込められていたのだ。そう、曲がってしまっていた日本の世をもとに戻すこと、それこそが光圀の「世直し」だったのである。

 

 光圀はあくまでも藩邸内でおとなしくしていることにして、綱吉の横暴を逆手にとった。つまり、隠密裏に諸国を行脚し、隠れキリシタンらを傘下に収め、「影の組織」を形成する旅を計画したのだ。その協力者として白羽の矢が立てられたのが、水戸藩の上屋敷がある小石川(文京区)で、水道工事が行われた時に、事務方をやっていた芭蕉なのだが、実際は逆で、最終的に「南朝の世」に戻すための「影の組織」の総帥として選ばれた人物こそが水戸光圀であり、光圀を裏から守り、 「影の組織」を形成させる旅に出すよう送り込まれた人物こそ秦氏系忍者・松尾芭蕉だったのである。

 

 

◆「松尾芭蕉」という暗号

 

 「松尾芭蕉」という名前は暗号である。 

 

 「芭蕉」の「芭」だが、まず一般的に「芭」という漢字の意味は、「芭蕉(ばしょう)の事」(同意語:蕉)とある。つまり「芭」の一字だけで「芭蕉」のことなのである。分解すると、「艸+巴」で、「並び生えた草」の象形と「へびが地面ではっている」象形(「へび」、「うずまき」の意味)からへびのような実をつける「芭蕉(ばしょう)」を意味する「芭」という漢字が成り立ったとある。

 

 

 しかし、「艸/艹」(くさかんむり)」はイエス・キリストが十字架の磔刑の際に頭に被せられた「荊の冠」を表す聖書文字である。つまり「芭」は「艸+巴(ハ)」で、”荊棘の冠をつけたヤハウェ”つまりイエス・キリストのことである。

 

 「巴」(ともえ)は、人魂の形を一つないし三つ円形に配した模様で、“三つ巴=三柱の神”を奉る原始キリスト教の象徴。巴は「物が円形をえがくようにめぐるさま」で、うずまき、とぐろを巻いたヘビの形を描いた字で、蛇神とはイエスの象徴である。

 

 つまり、天界の三神「父と子と聖霊」の存在を一般のユダヤ人たちに明かしてしまったことで、荊棘の冠を被せられ、ゴルゴダの丘で十字架の磔刑に処された創造神ヤハウェ=救世主イエス・キリストという意味を持つ字なのである。

 

 

 次に「芭蕉」の「蕉」だが、「蕉」とは「バショウ科の多年草」「焦(こ)げ茶色をした枯れた草の茎や木の外皮」「薪(たきぎ)」「俳人・松尾芭蕉 」の意味を持つ字、とある。この字も分解すると、「艸+焦」で「並び生えた草」の象形と「尾の短いずんぐりした小鳥の象形と燃え立つ炎の象形」(「小鳥をあぶる、焦げる」の意味)から「枯れた草」を意味する「蕉」という漢字が成り立ちったとある。

 

 

 「草」は「艸+日+十」で、「荊の冠」を被せられ十字架に掛けられた太陽神、である。その草が「枯れた」とは絶命したことを意味しており、現人神だったイエス・キリストは亡くなったことを表しているのだ。「木+十+口」で、「木=神」、「十=十字架」、「口」は「サイ」で「祝詞を入れる器の形」、つまり捧げ物をする器である。そこに十字架に掛けられた神が捧げられたこととなり、「イエス・キリストは人類のための燔祭の羊となった」ことを意味している。

 

 「艸+隹(ふるとり)+灬(カ)」で、隹とは「古鳥」(ふるとり)=旧約神ヤハウェのこと。「灬」という字であるが、燃える火の形から「火」の字ができ、下に並ぶ4つの点に変形したのが「灬」である。火が並んでいるということで「れんが(連火)」、 あるいは激しく燃えている火という意味で「れっか(烈火)」と呼ばれる。

 

 

 つまり「灬」(カ)は「燃え盛る炎」の意で、ケルビムと回る炎=太陽を示す。「太陽」を表し、その中にある「エデンの園」を守っているのが二羽の鳥=2体の天使ケルビムである。そして、ケルビムと回る炎で守っているのは「生命の樹」である。

 

 つまり、太陽神ヤハウェの古い教え(ユダヤ教=古神道)から荊棘の冠を被せられて磔刑に処された新しい神の教え(原始キリスト教=神道)に改宗したことを示す文字が「芭蕉」なのである!「松尾芭蕉 」とは暗号名で、カッバーラの奥義「生命の樹」を理解した呪術(忍術)で句を読んだ忍者ということなのだ。

 

 

<つづく>