「奥の細道」謎解き紀行 その12

 

 光圀による『大日本史』編纂の根底に流れる思想は、幕末に尊王攘夷運動へと繋がっていく。後醍醐天皇に始まる南北朝時代が終わるを告げ、足利将軍家を中心とする室町幕府と守護体制による強力な武家の支配機構が完成する。ここから江戸時代末期まで、天皇家の力は削がれ、天皇家は武家の頭領たる征夷大将軍を任命する権威のみ存在とされてしまった。

 

 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに第89代・後深草天皇の皇統である「北朝:持明院統」と第90代亀山天皇の皇統である「南朝:大覚寺統」という二つの系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て両統から二人の天皇が並立、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。

 

 

◆「三種の神器」と足利義満による皇位簒奪

 室町幕府三代将軍の足利義満は、南北朝の和睦に向けた調整に乗り出した際、南朝に条件を出す。その一つは「三種の神器」を北朝に引き渡すというものであった。京都に赴いた後亀山天皇は北朝6代・後小松天皇に「三種の神器」を譲渡し、「明徳の和約」が成立、南北朝が合体した。そかし、両統迭立という約束は反故にされ、後小松天皇の後は持明院統である称光天皇が第101代天皇に即位、続く第102代に即位した後花園天皇もまた持明院統であった。

 

 こうした状況に南朝の皇統を遺臣たちが猛反発。後亀山天皇の子孫である小倉宮を担ぎ上げ、「後南朝」が始まる。ここでまた「三種の神器」の奪い合いが勃発する。御所にあった神器のうち、八尺瓊勾玉と草薙剣が後南朝に奪い返されたのである。紆余曲折あって、三種の神器は御所へと再びもどることとなる。が、この後も両統のあいだでは小競り合いが続くこととなる。

 

南朝の後亀山天皇

 

 南朝は消滅し、北朝が存続することとなった。南朝から「三種の神器」を奪還したしたからといって、南朝の正当性が失われたわけではない。そんな中、南北合体を実現させた室町幕府三代将軍の足利義満は、なんと臣下の身でありながら自ら天皇になろうと企てたのである。まるで弓削道鏡事件の再来である。道鏡は僧侶にすぎなかったが、義満は強大な権力を持つ将軍である。

 

 当時の後小松天皇は無力で、政治的な影響力は皆無に近い。義満は天皇に退位を迫り、自らが「太上天皇」として即位しようと考えたのである。永徳3年(1383)、義満は源氏長者、淳和・奨学両別当に加え、准三宮宣下を受けるなど、幕府だけでなく朝廷内部においても、絶大な権力を獲得することになった。義満は天皇の霊柩の輿を担ぐ八瀬童子を勝手に動員、比叡山参詣を果たすなど天皇の権威へ挑戦する。また、義満は後円融上皇の夫人らと密通を重ねたといわれているが、後円融は義満に手出しをすることができなかった。もはや立場は大きく逆転していたのだ。


比叡山延暦寺

 義満は次々と天皇や公家に対して、揺さぶりをかける。後円融天皇の死後、義満は武家の人事権(幕府内の人事や守護の人事)に加え、朝廷の祭祀権や人事権(叙任権)などの諸権力を剥奪。義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られたことで、公武を統一した絶大な権力を握ることになったという。

 

 歴史研究家の今谷明氏らは足利義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えている。義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、女院号の宣下を受けさせたほか、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。さらに、義満は自分の子や娘を門跡寺院へ次々と押し込んだ。通常、門跡寺院には、皇家の子が入るので、これも天皇家への大きな圧迫となったといえる。

 

足利義満

 

 応永15年(1408年)3月に北山第へ後小松天皇が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している。

 さらに今谷氏は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した
『野馬台詩』(やまたいのうた)を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だったからだ。

 

 「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたと推測されている。鎌倉公方の足利氏満は「申年」の生まれ、義満は「戌年」の生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。幸い即位の直前に急死したため、「足利天皇」の誕生とはならず、あくまでも死後の尊号として贈られただけで済んだ。

 

中国の預言書『野馬台詩』

 

 北朝天皇が、かくもないがしろにされた理由は、その「正統性」である。正統性がないことを足利義満は知っていたのである。正統性がないのに天皇になれるのならば、自分だって天皇になれると思っても不思議ではない。不敬極まりないが、これは織田信長も同じである。安土城を築き、その天主から天皇を見下そうとしていたからだが、信長は天皇の権威を認めなかったのではなく、北朝天皇に正統性がないことを知っていたのだ。信長が忌部氏の一族だったからである。

 

 信長は天下を取った暁には、北朝天皇を滅ぼす腹づもりであった。代わりに毛利家で匿われていた後醍醐天皇の末裔を担ぎ出し、改めて南朝復興を成し遂げようと考えていたのである。それこそが信長が掲げていた「天下布武」の本当の意味だったのである。水戸光圀の「大日本史」の編纂方針において最も重要だったのは、「南朝正統論」を唱えたことであるが、それは忌部氏(三木家)に育てられた光圀もまた、南朝こそ正統だということを知っていたのである。

 

 

◆「南朝の正統」を主張したのは光圀だった

 

 光圀の始めた「水戸学」の歴史解釈の視点は「大義名分」である。大義名分の上から正しく解釈すると、南朝が正統であるという結論に行き着いたのは光圀の決断に依る。史官の半分は京都朝正位説(北朝が正統)を固く主張、「当今の天皇様は、京都朝(北朝)の御血統であらせられるから、迂闊なことは言えません。皇室の御事について私ども臣下がかれこれ申し上げることは恐れ多いことです。現に将軍家の官位も、京都朝の御血統たる当今の天子様から賜ったのですから、失礼に流れぬよう深く謹みたいと存じます」と主張したとある。

 

 しかし光圀は、こう述べている。
 

 「諸君の言うところは人情の上では同感したい。が、史上の問題はすべて大義名分によって、公平に処断する以上、場合に人情のみ によるわけにゆかぬ。ことに三種の神器は皇位のみしるしとして天照大神からうけたまわるもの、この存在を無視することは出来ない(※南朝の後醍醐天皇が足利尊氏に渡した三種の神器は偽物と言われた)。この点から自分は吉野朝(南朝)を正位と認め奉るにつき、どこまでも責任を負うから、諸君はこの一時について、なにとぞ自分に任せて欲しい」

 

水戸光圀

 

 御三家の水戸藩主が「自分が全責任を追う」と言っているのである。そこまで言われたら史官たちも逆らうことはできない。さらに光圀が凄いのは、「北朝の持っていた三種の神器は、偽物だから北朝は正統では無い」と言い切ったのである。これを教えたのは幼少期の光圀を育てた三木家だったはずである。三木家=忌部氏は北朝成立して(第三代から)以降、江戸時代最後の孝明天皇まで天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀「大嘗祭」(だいじょうさい)に必須の麻織物「麁服」(あらたえ)を献上していない。つまり足利氏の血が入った北朝を天皇家として認めていなかったのである。


 南北朝正閏論に関わる難問に、水戸学は正面切って取り組んだが、光圀がとりわけ重んじたのは、南朝の忠臣・楠木正成についてであった。しかし、南北朝統一後、北朝の世が江戸時代まで続いているわけで、この問題を考察するための史料を集めるのは、大変な苦労を擁した。光圀が考察の決めてになると考えた楠木正成の墓さえ、当時は見つかっていなかったのである。

 

南朝の忠臣・楠木正成の肖像画と皇居前に建立された正成像

 

  「義公が一番重きを置いたのは吉野朝についての史料だった。この方面のものは、足利氏の執政時代につとめて足利方に不利な記事は消滅するようにしたため、勢いそれ(南朝の史料)を集めるには、非常な不便を伴った。今日、大忠臣と云われる楠木正成さえも、江戸幕府が出来るまでは、一部の者から逆賊のように云われ、その碑の所在さえ明らかでなく、学者のうちにも楠公(楠木正成)に注意する者が極めて少なかったのである」(「日本近代転換期の偉人」より)

 

 各所を旅して、楠木正成に関する資料集めを行った人物がいる。そして遂に楠木正成の顕彰碑見つける。現在の神戸市中央区の「湊川神社」(みなとがわじんじゃ)である。これを発見したのは、佐々十竹助三郎(さっさじっちくすけさぶろう・介三郎とも)、つまり水戸黄門漫遊記に出てくる助さんである。

 

佐々十竹助三郎と助さん役の里見浩太朗

 

 「湊川神社」は、楠木正成をお祀りする神戸の名社である。「楠公(なんこう)さん」と親しまれ、安産祈願、お宮参り、七五三、厄除、家族の人生の節目に訪れる祈祷者数は兵庫県内有数で、正月には全国から100万人を超える崇敬者が初詣に訪れる。

 

 湊川神社の主祭神は楠木正成である。配祀されているのは息子・楠木正行(くすのきまさつら)をはじめ、「湊川の戦い」で亡くなった一族16柱(楠木正季卿・江田高次命・伊藤義知命・箕浦朝房命・岡田友治命・矢尾正春命・和田正隆命・神宮寺正師命・橋本正員命・冨田正武命・恵美正遠命・河原正次命・宇佐美正安命・三石行隆命・安西正光命・南江正忠命)である。さらに同じく配祀されているのが「菊池武吉」である。

 

 菊池武吉は南朝の忠臣で、菊池氏第12代当主・菊池武時の七男である。肥後(熊本県)菊池氏の一族で、兄・武重とともに新田義貞軍に加わり、九州から京都に向かう足利尊氏と摂津・湊川で戦った武将だが、この菊池家こそ遺臣の英雄・西郷隆盛の一族なのである。

「湊川神社」

 

 湊川神社の顕彰碑には、「贈正三位左近衛中将」とあった。しかし、光圀の頃は正成の墓がどこにあるのかさえ知らない者が多く、楠木正成は忘れられた存在だったのである。光圀は、ここに朱舜水の賛文を彫った正成の顕彰碑を建てている。湊川神社の由緒には、この辺りの事情が伝えられている。

 

 楠木正成公は後醍醐天皇の勅命を受け、鎌倉幕府の勢力や新たに武家の政権を立てようとする足利高氏と戦って正義と忠誠を示されました。しかし延元元年(1336)に、この湊川の地での足利軍との戦(湊川の戦い)で自刃されました。その後地元の人々によって、この地に葬られていた正成公の塚(お墓)は大切に守られてきましたが、江戸時代に入り、正成公を非常に崇敬された徳川光圀公によって立派なお墓が建立されました。
 このお墓の建立後は正成公を慕い、その精神を拠り所とするため、多くの人々が参詣し、特に幕末には吉田松陰や坂本龍馬など、志士達が訪れました。明治元年に明治天皇がこの地に神社創祀の御沙汰を下され、明治5年に創建されました。

 

 ここにもまた南朝の末裔であった明治天皇が創祀に関わっているのである。

 

光圀が立てた湊川神社の顕彰碑

 

 光圀の尊敬の念は、水戸藩内に尊公ゆかりの地を数多く残した。その一つが茨城県鉾田市の「楠木神社」であり、「楠公の功績を祀ることで、水戸藩に忠義や正義といった心意気を養うため」と社記にある。神社の参拝者は、楠公だけでなく後醍醐天皇以下の南朝方の天皇とその忠臣たちも遙拝している。

 

 光圀→大日本史(水戸学)→南朝正統説→幕末維新→南朝復活=明治天皇。全ては一本の線で結ばれていたのである。そして、その裏にいたのは「八咫烏」である。 

 

<つづく>