「奥の細道」謎解き紀行 その11

 

 鹿島神宮に残されている芭蕉の句碑に記されている「鹿島詣」の句をもう一度見てみよう。

 

 枯枝に 鴉(からす)のとまりけり 穐(あき)の暮

 

 ここにある「鴉」(からす)とは「烏」の暗号であるとしたが、ここには「八咫烏」が待ち受けていたということだ。さらに「穐」の字だが、この字の意味は「あき。とき。大切なとき。大事なとき。」である。つまり、枯れ枝には裏祭司氏族の頂点にいた「烏」がおり、その烏との会見は非常に大事な時だったのだ、と伝えている。

 

鹿島神宮の要石の側にある句碑

 

 なぜ「烏」との会見が大事だったのか。その一つは『奥の細道』の旅に出よという司令である。そしてもう一つは原始キリスト教徒となった、という暗号である。祭祀氏族の象徴は”鳥”であり、その頂点にいるのが八咫烏のトップ3人で構成される「金鵄」である。天使に翼があるように、「鳥」は天界からのメッセンジャーの意味がある。

 

 ノアの箱舟からは「烏」と「鳩」が放たれ、鳩は戻ってきたが、烏は戻ってこなかった。野に放たれたのである。ここにこそ、なぜ光圀が自身の隠れ蓑の名前を「曾良=空」とした意味が込められており、光圀は「烏」との会見によって「鳥」となったのである。原始キリスト教徒としてのバプテスマを授けられたのである。それを示すのが鹿島神宮の「御手洗池」である。

 

非常に神秘的な「御手洗池」

 

 「御手洗池」は下鴨神社にもある。前回、徳川光圀とは、表の武家社会における「裏天皇」の役割を担うため忌部=賀茂氏と八咫烏に選ばれた存在だったとした。そして、それこそが「天下の副将軍」と呼ばれた裏の意味で、秦氏系の忍者の里の伊賀出身の松尾芭蕉が光圀をサポートした理由だったのだと。

 

 光圀を養育した三木家において、光圀は忌部氏による神道の奥義を授けられた。そして、選ばれた存在となったのだ。だからこそ次男坊の光圀は水戸家の跡を継いだのである。「天下の副将軍」となるために。

 

◆光圀を変えた『伯夷伝』

 

 幼い頃の光圀はかなりの暴れん坊で無軌道な日々を送っていたという。武士の手に非ずとされた琴や三味線を好んで弾き、吉原通いでうつつを抜かしては傅役(もりやく)のいうこともきかず、父・頼房からの叱責も平然と無視して悪行を重ねたという。若い頃に「うつけ」などと呼ばれていた者の方が大成するというのは、織田信長にも通ずるものがある。

 

 17歳の頃の光圀は、周囲の者が眉をしかめてしまうような不良少年であった。当時の江戸は、驕奢で自由奔放な風潮で、かぶき者が大道を押し歩き、旗本奴や町奴が世にはびこる時代だった。当時の武家の青年たちも、こうした江戸の風潮に流され、若さを発散させていたという。だが、大名などの御殿の中では、ことさら格式張った作法を重んじており、形式ばかりで本質から外れたしつけを青年に要求しようとしたことで、余計に青年たちが反抗した。

 幼少の時から負けん気が強く、一筋縄ではゆかない光圀の場合、特に父や周囲に対する反発が強かった。ところが天保2(1645)年、18歳を迎えた光圀に大きな転機がおとずれる。司馬遷の『史記』列伝の
『伯夷伝』(はくいでん)との出会いである。

 

「伯夷伝」

 

 この年の2月に初めて前髪を断った光圀は、今まで儒者たちに勧められても気の向かなかった書物に目を向ける。それが『伯夷伝』であった。『伯夷伝』とは、漢の司馬遷の著した『史記』の中の「列伝」の最初に記されている、伯夷と叔斉の伝記である。その最初に次のような内容が記されている。

 伯夷と叔斉は孤竹の子であり、孤竹は自分の死後、三男 叔斉に家を継がせようと考えていました。
 やがて父が死んだとき叔斉は兄を差し置いて家を継ぐ事をためらい、長男 伯夷に譲ろうとしました。
 しかし伯夷は、父の言葉に背くことはできないと家を出てしまいました。
 叔斉もまた兄の気持ちを察し、後を追うように家を出てしまうのでした。
 国の人々はやむを得ず、次男を立てて家を嗣がせたのでした。 (名越時正・著『新版 水戸光圀』参照)


 光圀には腹違いの兄・頼重がいたが、水戸家を嗣ぐことになったのは弟の光圀だった。そのこともあり、『伯夷伝』を読んだ光圀は強く感銘を受け、兄に対して何ともすまない気持ちを抱き、せめてもの申し訳として、水戸家は必ず兄の子に譲ろうと決心したのである。

 

まるで「烏」のような帽子をつけた光圀とその師「朱舜水」

 

 光圀は書物を片っ端から読み漁り、京都にまで書を買いに行かせたという。学問に目覚めた光圀は、若干十九歳にして『大日本史』の編纂を思い立ったのである。光圀は、明暦3(1657)年に『大日本史』の編纂を始めている。『大日本史』の編集所として水戸に『彰考館』を建立する。「彰考」とは、“歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える”という意味である。ちなみに『大日本史』全402巻が完成したのは、光圀亡き後の明治39(1906)年のことである。実に250年の歳月がかけられた、大事業となったのである。

 

◆『大日本史』編纂事業と「尊王攘夷」

 

 光圀は人見卜幽(ひとみぼくゆう)に対し、「いずれは『史記』のような日本史を編纂したいので、和漢の資料を集めよ」と命じている。『大日本史』の編纂は光圀の残した偉業の一つで、編纂事業が始まるのは明暦三年(1657)十月だが、完成を見たのは明治三十九年(1906)十月のことである。この『大日本史』編纂の根底に流れる光圀の思想は、やがて維新の尊王攘夷運動に繋がっていく。

 

全402巻から成る『大日本史』

 

 光圀の思想に多大な影響を与えたのが、光圀の伯父である尾張徳川家の初代藩主・尾張義直である。義直は徳川家康の九男だが、朝廷を敬い、勤皇の志厚い藩主であると同時に、徳川御三家の筆頭でもあった。蔵書一万五千冊と言われる読書家で、学問によって大義の道を極め、尊皇思想を持つに至った義直は、必然的に将軍家の存在そのものが持つ矛盾に到達する。

 

 幕府の権力を絶対的なものとし、朝廷をそれに準ずるものとして置くことは、朝廷の委任という形をもって政治を行うという幕府の基本原理に反するものである、と。大義とは何か、国体とは何かを徹底的に研究した義直は、「天下の本当の支配者は天皇であって、徳川家が支配しているという考え方は間違いである」と堂々と説くようになり、もし幕府と朝廷が事を構えるようになった場合は、必ず朝廷側につけと子孫に伝えたのである。

 

光圀の叔父・尾張大納言「徳川義直」

 

 江戸時代は朝廷の力が最も弱まっていた武家の時代である。少々寄り道するが、武家の時代を振り返ってみよう。平安末期以降、貴族と武家は勢力争いを繰り返してきた。鎌倉時代に武家の世が到来するも、鎌倉時代後期には、幕府は北条得宗家による執政体制となり、元寇以来の政局不安などによって諸国では悪党が活動。幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。

 

 大きな流れでは、この後に鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇による「建武の新政」となるも、足利尊氏の離反が起きる。建武3年(1336年)1月に足利軍が入京。後醍醐天皇は比叡山へ逃れるが、奥州から北畠顕家や新田義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京した。このため新政は2年半で瓦解した。

 

足利尊氏と後醍醐天皇

 

 後醍醐天皇は新田義貞ら多くの武士や公家を伴い、再び比叡山に入山して戦いを続けると、入京した足利尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。9月、後醍醐天皇は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣。しかし、周囲を足利方の大軍勢に包囲されると、10月には比叡山を降りて足利方と和睦。和睦に反対した新田義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせると後醍醐天皇は光明天皇に三種の神器を渡し、花山院に幽閉される。

 

 後醍醐天皇は12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させると、先に光明天皇に渡した三種の神器は偽物であり自分が正統な天皇であると宣言。ここに、吉野朝廷と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来。1392年(元中9年/明徳3年)の明徳の和約による南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続いた。問題は、その後、「三種の神器」はどこへ行ったのかということだ。「三種の神器」こそが天皇の正当性を担保するレガリアだがらだ。


 天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜した。一方、北朝の公家も、室町幕府第3代将軍足利義満によって、警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪される。南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、足利将軍家を中心とする室町幕府と守護体制による強力な武家の支配機構だった。ここから天皇家の力が奪われ、天皇家は権威ではあっても権力がない存在とされてしまった。

 

 足利尊氏が光明天皇によって征夷大将軍に任じられ、室町幕府が開かれた。初期には南北朝時代の戦乱が続き、15世紀以降になると戦国時代となって京都周辺以外の実効支配力を失うものの、1573年に織田信長によって足利義昭が京都から追放されるまで、足利氏の15代に渡る武家政権が続いた。この間に問題が起きる。それは天皇家の血筋と皇位継承のための「大嘗祭」である。

 

 足利義満以降、北朝天皇家には足利家の血が入ってしまった。さらに室町時代から江戸時代末期まで、「大嘗祭」が行われていない。天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀であり、新天皇が即位した後に新穀を神々に供え、自身もそれを食し、天照大神の神霊と添い寝をする神事である。この「大嘗祭」を行わなかった天皇は、正式な天皇ではなく半分という意味で「半帝」と呼ばれた。これをもって織田信長は偽の天皇に頭を下げる必要はないとしたのだ。

 

江戸時代の天皇即位式

 

 大嘗祭を行わなかった天皇は、天皇ではあっても天皇陛下ではない。その理由は、天照大神の預言者になっていないからで、室町時代から江戸時代、「忌部氏」は大嘗祭に供える麻織物である「麁服」(あらたえ)を納めていない。死に装束である白い麻の着物のための反物が納められなかったからこそ「半帝」なのであり、そのことを一番良く理解していたのが信長だったのである。織田信長は「織田劔神社」の神官の一族であり、忌部氏だったのである。

 

 信長は正親町天皇を正式な天皇とは考えておらず、安土に呼びつけるということをした。激怒した天皇は信長を許さず、信長打倒の命を下す。それが「本能寺の変」の裏側である。信長亡き後は、天皇の権威は高まるも権力は秀吉、家康に移行。江戸時代の天皇の即位式を見ても、非常に簡素な即位式しか行われていない。また、徳川家が姫を嫁入りさせたり、天皇家から姫をもらったりと血を混ぜることを行うも、その天皇家はあくまでも北朝である。

 

正親町天皇と信長

 

 尾張大納言・徳川義直は、幕府にとっては徳川家の存在理由を根底から揺るがすような「危険思想」を抱いていた人物であり、この義直から勤皇思想を学んだのが光圀であった。光圀は後年、「我々の主君は天子であって、将軍はただの旗頭に過ぎない」と言っており、光圀は義直から受け継いだ勤皇思想を「水戸学」として藩内に広めることとなる。

 

 「水戸学」は『大日本史』の編纂を通じて形成され、やがて第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となったのである。その特徴は儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想にある。編纂過程においては、第一の目的である大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残している。

 

 当初の史局員は林羅山学派出身の来仕者が多かったが、寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672年)には24人、貞享元年(1684年)37人、元禄9年(1696年)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の彰考館の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多かった。その理由は、本当の日本史を知るためである。


大日本史の一巻と五十一巻

 「大日本史」の編纂方針において最も重要だったのは、「南朝正統論」を唱えたことである。但し、光圀は北朝及び武家政権の確立を異端視するものではく、それらを名分論のもとでいかに合理化するかが主要な研究課題であった。しかしながら、当時の天皇家は北朝である。幕府は当然のことながら光圀を危険視し、頭を痛めることとなる。

 

 水戸学の三大特筆として挙げられるは、「神功皇后の評価」「大友皇子の評価」そして天皇家の「南朝正統論」という三つである。そして、それこそが、後の明治維新の原動力となるが、だからなのか茨城には南朝の忠臣・楠木正成を祀る「楠木神社」があるのだ。水戸藩は現在の茨城であり、その旧字は「荊木」である。イエス・キリスト磔刑の十字架、それが「荊木」である。

 

 

<つづく>