「奥の細道」謎解き紀行 その10

 

 「鹿島」「諏訪」と、河合曾良に関係するところには物部氏の影が見え隠れすると前回書いた。そして、ここに深い意味が込められていると。一番東にある「鹿島神宮」に始まり、「要石」(かなめいし)でつながっているとされる「香取神宮」で陰陽を成し、共に北緯35度で一直線に並ぶ神社を追って行くと、秩父にある物部氏系の神社群を経由、「艮の金神」が封印されている「諏訪大社」があり、終点が死者のための「黄泉の国」である「出雲大社」となる。大和民族の「死のライン」である。

 

「要石」(右上が鹿島神宮・右下が香取神宮の要石)

 

 鹿島・香取の両神社の境内にある「要石」は、昔から地震を鎮める石として信仰されてきたもので、古来「御座石」(みまいし)や「山の宮」とも呼ばれた霊石で、江戸時代の錦絵『鹿島要石真図』にも描かれている。地震は地中にいる「大鯰」(オオナマズ)が引き起こすと考えられ、その大鯰を押さえつけるための石がこの「要石」だとされている。
 

 「要石」は大鯰の頭と尾を抑える杭という信仰で、地上には直径30cm・高さ7cmほどしか出ていないが、地中には巨石が埋まっていると言われており、鹿島・香取の両神社の地下で「要石」はつながっているという伝説がある。そして『水戸黄門仁徳録』には、水戸藩主である光圀が「要石」の周囲を7日7晩掘り起こしても、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったと記されているのである。

 

「茅の輪」が設置された香取神宮

 

 光圀は国史である『大日本史』の編纂事業も行っている。よって、全国の伝説や伝承も知っていた人物である。さらに鹿島は水戸藩内にあり、当然のことながら、要石の伝説を知っていたからこそ掘り起こそうとしたのであろうが、もしかすると「掘り起こそうとした」という話自体も「要石」の重要さを後世に伝えるための「伝説」なのかもしれない。

 

 

◆光圀の出生の秘密

 

 光圀の父親は水戸藩主・徳川頼房(よりふさ)で、頼房は徳川家康の十一男として生まれた水戸徳川家の祖である。母は家臣・谷左馬之助の娘・お久である。頼房は生涯正室を持たなかったが、江戸と水戸に数人の側室がおり、11男5女をもうけ、光圀はその三男であった。

 

 水戸市内には「義公(黄門さま)生誕の地」とされている場所がある。現在、ここには「水戸黄門神社(義公祠堂)」が祀られており、水戸市指定文化財となっている。徳川光圀(義公)は、寛永5(1628)年この地にあった重臣「三木仁兵衛之次」(みきにへいゆきつぐ)の屋敷で生まれている。

 

 

出生の地に建立された「常磐神社」

 

 母・谷久子は、故あってひそかにこの屋敷に寄寓し、光圀を生んでも身分を秘し、三木夫妻が養育したとされている。 光圀は幼名長丸(のち千代松)と称し、5歳の時公子として水戸城に居住、寛永10(1633)年 6歳の時、正式に世嗣(よつぎ)として江戸の藩邸に移り、父の教育を受ける。

 

 しかしながら、実は光圀の出生は祝福されてはいなかった。父・頼房は三木甚兵衛之次に「水にせよ」と告げている。「堕ろせ」という命である。だが、お久は従わず、三木家で密かに光圀を生み、三木家で内密裏に育てられたのである。この三木家とは、神道呪術の根幹を握る一族「忌部氏」(いんべ)の本家筋である。

 

光圀を祀る「常磐神社」の社

 

 光圀の回想によれば奥付の老女(侍女)の娘であった光圀の母は、後ろ盾がおらず徳川頼房の子である頼重と光圀を懐妊すると、頼房により堕胎を命じられたという。これに憤慨した水戸藩家老三木之次はあえて藩主の命に反して光圀を養育したというのだ。この時代、藩主の命に逆らうというのはただごとではない。だが、三木之次は敢えて藩主の命に逆らってまで光圀を育てたのである。

 

 実は、光圀が祀られている「常磐神社」の末社として、光圀を養育した三木之次夫妻を祭神とする「三木神社」がひっそり祀られている。1965年(昭和40年)に創建された神社である。水戸藩の礎を作った名君である義公こと光圀が生まれたことを思えば、まさに彼を養育した三木之次夫妻は水戸藩の救世主であったといえる。そんな三木神社は義公と烈公を祀った常磐神社の奥にひっそりと彼を見守るかのように建っているのだ。

 

「三木神社」

 

 

 問題は誰が光圀を祀る「常磐神社」を創建したかである。実は「明治天皇」なのである!光圀の神号は「高譲味道根命」(たかゆずるうましみちねのみこと)といい、さらにこの「常磐神社」にはもう一柱である水戸藩第九代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)も祀られている。神号は「押健男國之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)という。

 徳川斉昭は、諡(おくりな)を「烈公」(れっこう)といい、光圀以来の水戸の心を受け継いで、国史を貫く日本の道を明らかにし、「弘道館」(こうどうかん)という名の藩校を創設。また幕末の黒船来航に際しては幕府の海防参与という役職について難局の処理にあたった人物である。

 

 「弘道館」の教授頭取(きょうじゅとうどり)であった「会沢正志斎」(あいざわせいしさい)の著した『新論』は、吉田松陰をはじめとする明治維新の志士たちに大きな影響を与え、維新の原動力となったことなどから「天下の魁(てんかのさきがけ)、維新の魁」といわれ、『弘道館記』の草稿を起草、『回天詩史』『常陸帯』『弘道館述義』や『文天祥正氣ノ歌ニ和ス』(正気の歌)の作者でもある「藤田東湖」(ふじたとうこ)も斉昭の側近であった。


徳川斉昭


 斉昭の七男は最後の将軍・徳川慶喜である。光圀→大日本史→斉昭→吉田松陰→慶喜が一本につながっている。そして神社を創建させたのが明治天皇なのである。ここにこそ『奥の細道』、そして光圀が編纂を命じた『大日本史』の謎が隠されているのだ。そして、光圀を育てた三木家は阿波忌部氏の宗家である。

 

 

◆神道祭祀一族「忌部氏」

 

 忌部氏の中の忌部氏を賀茂氏といい、天皇家の祭祀を仕切る下上賀茂神社の神官一族で、裏神道たる陰陽道の宗家でもある。さらに賀茂氏の中の賀茂氏を特別に「鴨族」と呼び、鴨族が神道祭祀の頂点に君臨する。その「鴨族」の中でも表の鴨族が丹後一宮にして「元伊勢・本伊勢」を名乗る「籠神社」の海部氏や下鴨神社の鴨族である。つまり、水戸光圀を育てたのは神道祭祀を取り仕切る「忌部氏」なのである。

 

「忌部神社」の扁額

 

 「忌部氏」は後に「斎部氏」と字を変えている。「忌部氏」の時には騒ぎを起こしていないが、平安初期に「斎部」と姓を変え、復権を計るため斎部広成が「古語拾遺」を著した。「忌部氏」は古代朝廷における祭祀を担った氏族で、天太玉命を祖とする大和の忌部を本貫とし、天日鷲命を祖とする流れの「阿波忌部」、天道根命を祖とする流れの「紀伊忌部」「讃岐忌部」の四種あり、さらに「出雲忌部」がおり、いずれも神別(天神)に分類される。なお「古語拾遺」には「天目一箇神」を祖とする忌部があったとも記している。

 

 「忌部氏」は、かつて大和の中央政権において祭祀を取り仕切っていた一族であったが、中央での凋落とともに拠点が移る。現在の忌部氏」の宗家は「阿波忌部」の三木家であり、その一族が水戸光圀を養育したのである。三木家が「大嘗祭」で麻織物「麁服」(あらたえ)を献上しなければ、新天皇は「天皇陛下」にはなれない。よって、忌部氏は現在も天皇祭祀の一翼を担ってはいるのだが、それは「祝詞」を奏上することではなく、あくまでも祭祀に必要な「物」を作る役割である。但し、独占である。

 

阿波一宮「大麻比古神社」

 

 表の陰陽道に対し、裏陰陽道は「迦波羅」(かばら=カッバーラ)と呼ばれ、「迦波羅」の呪術の使い手たちのことを「漢波羅」(かんぱら)という。この漢波羅秘密結社を「八咫烏」(ヤタガラス)といい、70人からなる「八咫烏」の頂点にいる三羽烏が裏天皇「金鵄」(きんし)を構成している。

 

 表と裏の陰陽道を駆使して日本をカッバーラの呪術で覆い尽くしたのが八咫烏で、実態は古神道=ユダヤ教を奉じた物部氏である。これに対して賀茂氏もカッバーラ呪術を扱えるレビ族の末裔だが、彼らは神道=原始キリスト教を奉じた秦氏でもある。共にレビ族の中で最も高位の大預言者モーセの兄アロン直系の末裔のレビ人である。それゆえ王権を持つ天皇に代わり、祭祀一切を担ってきた。

 

「賀茂氏」の家紋と下上賀茂神社

 

 

◆祭祀氏族と「鳥」の暗号

 

 山岳宗教の修験道の開祖を「役小角」(えんのおづぬ)、別名「役行者」(えんのぎょうじゃ)という。飛鳥時代の呪術者で、本名を「賀茂役君」(かものえんのきみ)という賀茂氏である。また、役行者と双璧をなす修験者に白山修験の開祖「泰澄」(たいちょう)がいるが、本名は「秦泰澄」(はたのたいちょう)で、修験道のルーツにも秦氏がいる。

 

「役小角」=「賀茂役君」

 

 祭祀氏族の象徴は”鳥”である。山伏が鳥の姿をしたのが天狗である。賀茂氏が鳥の「鴨」と称する理由はここにある。松尾大社を創建したのは「秦都理」(はたのとり)で「秦鳥」。忌部氏の祖神には「天日鷲命」(あめのひわしのみこと)がいる。なぜ祭祀氏族が”鳥”にこだわるのかといえば、鳥は天空を駆け、天界と地上をつなぐ存在であり、神界と人間をつなぐイエス・キリストの象徴だからである。

 

 カッバーラの奥義「生命の樹」もまた、天上界と地上を結んでおり、「旧約聖書」にはそれが「ヤコブの梯子」として登場する。「ヤコブの梯子」とは、地上から天国に通じる梯子あるいは階段のことで、 旧約聖書の創世記28章10–12節で族長のヤコブが兄エサウから逃れる際に見た夢に登場するものである。

 

  夢の意味については議論されてきたが、ほとんどの解釈はこれはアブラハムの宗教においてヤコブが神から選ばれた民と責務を受け継ぐことで一致している。この「ヤコブの梯子」を象徴しているのが元伊勢・本伊勢「籠神社」のある「天橋立」(あまのはしだて)である。

 

「ヤコブの梯子」と「天橋立」

 

 天使に翼があるように、鳥は天界からのメッセンジャーの意味がある。「聖書」ではノアの箱舟から「烏」と「鳩」が放たれ、イエスに降ってきた「聖霊」は「鳩のように」とある。なぜ水戸光圀は自身の隠れ蓑の名前を「曾良(そら)」としたのか。それは「空」であり「鳥」なのである!

 

 徳川光圀とは、表の武家社会における「裏天皇」の役割を担うため忌部=賀茂氏と八咫烏に選ばれた存在だったのだ。それこそが「天下の副将軍」と呼ばれた裏の意味で、秦氏系の忍者の里の伊賀出身の松尾芭蕉が光圀をサポートした理由なのである。

 

<つづく>