「奥の細道」謎解き紀行 その9

 

 松尾芭蕉の「鹿島詣」の冒頭には「松陰や月は三五や中納言」*といひけむ…」とあり、「松陰」と「中納言」で始まっている。

水戸黄門の「黄門」とは中納言のことであり、と敢えて「陰」という字を入れたのは、水戸光圀の「影の存在」が加えられた旅だったということを物語っているのではないだろうか。

 

 水戸光圀=河合曾良の役割を果たした者は二人いたということで、一人は六十歳位、もう一人は四十歳位であり、これを曾良A・Bとしたら、本物の曾良には影武者(ダブル)がいたことになる。それはいったい誰なのだろうか。

 

水戸藩内の鹿島と水戸光圀

 

◆ 光圀の影武者「曾良B」の正体

 

 光圀は江戸の小石川の藩邸を抜け出し、密かに全国行脚をするにあたって、必ず行わなければならなかったのがダブル操作=影武者であった。「影武者」とは、権力者や武人が身の安全を守るため、あるいは敵に動向を知られないために利用する替え玉のことだ。洋の東西を問わず、影武者を使ったと言われる歴史上の人物は数多く、また、現代でも影武者がいるとささやかれるプーチンや金正恩などの政治指導者がいる。
 

 影武者には、身分の高い人物に戦死や暗殺の危険がある場合に、死を覚悟で身代わりを務める者というイメージがあるが、影武者の役目はそれだけでなく、本物の重病や死去を隠すために使われることもあり、その場合、影武者の使命は壮健で生きていることである。

 

武田信玄(左)と「影武者」(右)

 

 「武田信玄」は、戦国最強と言われながら病に倒れ、死期を悟ると「自分の死を3年間、隠せ」と遺言、1573年(元亀4年)に亡くなる。この頃田信玄は「織田信長」と敵対しており、自分の死が知れ渡ったら、信長をはじめとする周辺の勢力が武田家に襲いかかると考えたからだ。

 この遺言に従い、武田信玄が生きていると見せかけるため、同母弟の「武田信廉」(たけだのぶかど)が影武者を務めたとされている。武田信廉は、兄・武田信玄より11歳も年下であったが、兄の側近でさえ見間違えるほど、2人は似ていたという。兄弟やら身内というのは影武者にさせやすいのである。

 


黒澤明の映画「影武者」

 

 黒澤明監督は、1980年公開の作品「影武者」で、武田信玄の影武者として生きた男を主人公にした。この映画の武田信廉(山崎努)は、兄・武田信玄亡きあとの武田家を守るため、武田信玄と瓜二つの盗人(仲代達矢)を影武者に仕立て上げる策略家として描かれている。

 

 水戸光圀の場合、祖父の徳川家康も影武者を使っている。徳川家康は、幼少期に誘拐されたり、成人してからも戦(いくさ)に敗れて命からがら逃げたりと、前半生に何度も命の危機に遭っていた。そのため、家康には「天下統一の前に死んでおり、江戸幕府を開いたのは別人だった」とする影武者伝説がいくつかあり、なかでも有名なのが、「世良田二郎三郎元信」(せらだじろうさぶろうもとのぶ)という人物が、徳川家康の影武者を経て、征夷大将軍にまで上り詰めてしまったという説がある。


徳川家康


 これは、明治時代の歴史研究家・村岡素一郎(むらおかそいちろう)が、1902年(明治35年)に出版した著書「史疑徳川家康事蹟」(しぎとくがわいえやすじせき)で唱えたものである。徳川家に「影武者」のノウハウがあったのならば、孫の光圀がその手法を真似ることも大いにあり得る話だ。

 

 逆に考えれば、誰にも邪魔されず、スムーズに旅の目的を遂行するために、光圀は忍者の世界の「影武者」のテクニックを使ったのである。だからこそ光圀の随伴者は、伊賀出身で忍者の血筋の松尾芭蕉である必要があったのである。

 

 不思議なことに、天和二年(1682)に発生した駒込の大火で、深川の芭蕉庵が焼失すると、なぜか芭蕉は諏訪へ向かっている。諏訪は曾良の出身地である。おそらく、芭蕉は光圀に命じられ、諏訪に光圀の落とし胤(だね)として、成人しているはずの「曾良B」の調査に行ったのではないだろうか。

 

 

諏訪大社

 

 すると、曾良が江戸に下る前に、突然に長島藩を辞めて浪人となり、神道の勉強をしたり、歌の道に入ったりと自由に振る舞えた理由も分かるのだ。元禄当時は天下平定で戦いもなく、忍者も一般人も就職難の時代であり、こうした行動に出られたのは、強い後ろ盾があったからに他ならない。やがてこの曾良Bは、光圀の命により江戸の芭蕉庵を訪ね、貞享元年(1684)頃に、芭蕉の門下に加わったのだ、と考えると全ての辻褄が合う。

 

 さらに諏訪には物部氏の古社である「諏訪大社」がある。どうも鹿島といい、諏訪といい、曾良に関係するところには物部氏の影が見え隠れする。後述するが、実は、ここに深い意味が込められている。

 

 

◆曾良=光圀による「奥の細道」の目的

 

 『奥の細道』」中で、曾良作の句は11句あるのだが、最も重要なのは一番始めに登場する以下の句である。

 

 黒髮山は、霞かかりて、雪いまだ白し。剃り捨てて 黒髪山に 衣更(ころもがえ)  曾良
 

 「頭髪を剃って、衣替えをする」とは、明らかに影武者に変身したと伝えているのだ。

 

河合曾良

 

 本文には、以下のように曾良の紹介文がある。
 

 曾良は河合氏にして惣五郎といへり。…旅だつ暁、髪を剃りて、墨染(すみぞめ)にさまを変へ、惣五を改めて宗悟とす。よつて黒髪山の句有り。「衣更」の二字、力ありて聞こゆ。

 

 曾良の本名は河合惣五郎(かわいそうごろう)という。「イソウロウ(居候)」のような者だという暗号である。光圀は曾良になりすまし、実子を曾良Bに仕立て、旅に出られるよう影武者にしたのである。いかに光圀といえど勝手に諸国行脚はできなかったからだ。光圀は「天下の副将軍」と呼ばれる実力者であった。幕府の制度の正式な官位に「副将軍」という位はないが、徳川御三家の中でも、水戸だけは定府の特別扱いで、その権威は将軍さえ上回っていた。

 

 光圀が芭蕉を連れ立って「奥の細道」の旅に出た理由は3つあると川尻博士は考えた。

 

 1つ目は諸国の現状視察

 2つ目は当時のキリスト教で禁書扱いだった「ヨハネの黙示録」を手に入れること

 3つ目は諸国の隠れキリシタンを押さえると同時に、山伏や産鉄集団などの地下組織を支配下に置き、「影のネットワーク」を完成させること

 

 3つ目の「影のネットワーク」を完成させることだが、産鉄集団にはキリシタンが多く、特に東北の鉄山にはかなりの信者が逃げ込んでいたからである。寛永十四年(1637)に起こった“島原の乱”以降、隠れキリシタンたちは、忽然と歴史の表から姿を消し、明治になって突如姿を現したのである。 

 

隠れキリシタンの処刑

 

 この「影のネットワーク」とは何のことだったのか。川尻博士が著書を記した時点では、「影の組織」という表現が頻繁に登場していたが、それはフリーメーソン的な組織ということではあるのだが、明確な組織形態については言及されていなかった。よって、ここから先は筆者の推論がかなり混じってくる。

 

◆隠れキリシタン

 

 隠れキリシタンはひっそりと潜伏していた。なべおさみ氏の著書で書かれていたが、なべ氏が出雲でさるお店を訪れた際、当然のごとく出雲大社を崇敬していると思いきや、実は裏に隠されていたマリア像を見せられて驚いたという。信長による石山本願寺の攻略の際、死を恐れない信徒たちが立ち塞がり、信長は石山本願寺を落とせなかったのである。信仰の前には武力だけでは太刀打ちできないのである。しかし、キリシタンの場合は「島原の乱」を境に、姿を隠していった。

 

 

江戸時代のキリシタン手配書

 

 上の江戸時代のキリシタン手配書には「切支丹破天連ヲ踏マザル者獄門ノ事」と記されている。要は手配書でもあり、密告させるための書でもある。「踏む」とは「踏み絵」のことである。踏み絵(踏絵、蹈繪)とは、幕府が禁止していたキリスト教(カトリック教会)の信徒(キリシタン)を発見するために使用した絵である。

 江戸幕府は、1612年(慶長17年)徳川家康によるキリシタン禁令(禁教令)、1619年(元和5年)徳川秀忠によるキリシタン禁令の高札設置などの度重なるキリスト教の禁止を経て、1629年(寛永6年)に絵踏を導入した。以来、年に数度「キリシタン狩り」のために前述したキリストや聖母が彫られた板などを踏ませ、それを拒んだ場合は「キリスト教徒」として逮捕、処罰した。

 

「板踏絵」「踏み絵」

 

 当初、「踏み絵」にはキリシタンから没収した文字通り紙にイエス・キリストや聖母マリアが描かれたものを利用した。しかし損傷が激しいため、没収したメダイを木にはめ込んだ「板踏絵」が作られた。1669年(寛文9年)には、制度が九州各地に拡大したのに伴い、長崎奉行所が萩原祐佐に命じ、版画の原理を応用し金属の板に彫られた真鍮踏絵が作られた。これらの踏み絵は長崎奉行所が保管し、九州各藩に貸し出すことで、キリシタンを取締る権限を独占した。

 

 長崎で始まった「絵踏み」は、薩摩藩など一部を除く九州のほぼ全ての藩で実施された。だが、初期の段階ではキリシタンの発見に効果があった「絵踏み」も、次第に「内面でキリスト教を信仰さえすればよい」という考えが広まったことによって、後期には必ずしも効果は上がらず形骸化したという。キリシタンたちは巧妙に信仰の証をカモフラージュしていった。ある時はそれが神道風だったり仏教風だったり、表は天照大神やお釈迦様だが、裏にはイエス像やマリや像が隠されていたケースが多い。

 

「マリヤ観音像」

 

 豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において、当時のイエズス会のやり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。

 

 だが、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらなかったことにより、秀吉を刺激することとなった。例えば、日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわったことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化したことで、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。

 そして1596年の
「サン=フェリペ号事件」をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑されている。

 


サン・フェリペ号事件の際の処刑

 実は、徳川家康はキリスト教そのものには一貫して無関心であった。これは、三河一向一揆で宗教に苦しめられた記憶があったからとの説がある。家康は将軍職を徳川秀忠に譲り、大御所として駿府に引退した後の1607年にもイエズス会員フランシスコ・パジオを引見し、外国人宣教師の滞在と布教の許可を与えている。

 しかし、一方で家康は海外との貿易の実利を求めていた。1600年にオランダ船リーフデ号が漂着し、イングランド人航海士ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンが家康に仕え始めると、家康は、彼らから最新の欧州事情の情報を得る。かつての強国スペイン・ポルトガルに対して、新興のイングランドやオランダがアルマダの海戦や八十年戦争(オランダ独立戦争)などで勝利して追い上げていた当時のヨーロッパ情勢を理解し、両陣営を競わせながら貿易の実利を得ることを狙っていたのである。

 

イエスの隠れ仏壇

 

 実は、「踏み絵」の発案は、オランダ人説、元宣教師でキリシタン弾圧に協力した沢野忠庵ことクリストヴァン・フェレイラ説、長崎奉行説など様々ある。プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって、宣教師やキリスト教を排除する理由はない代わりに積極的に保護する理由もなかったのである。

 

 事実、オランダは東南アジアの植民地において、経済的な搾取や文化の弾圧は行っていたものの、現地の宗教や政治形態に対してはあまり干渉しない方針を基本としていた。ビジネス優先なのである。実はここに同じキリスト教ながら、カトリックとプロテスタント、また国同士の軋轢が生じていたのである。

 

 そんな中、キリシタンたちは次々に地方へと移動。本格的な「隠れキリシタン」となっていったのである。
 

 

<つづく>